第二話 根の堅洲国と、神狼の影
北欧神話界域・最下層ニヴルヘイム(極寒の暗闇)
氷と死臭に包まれた冥府の底。
重々しい鉄の鎖が、地響きを立てて軋んでいた。
「……出番だよ、ヘル」
闇の奥から忍び寄ったのは、リスの耳と尾を持つ神――ラタトスクだ。
その手には、ロキから授かった極秘の神符が握られている。
氷の玉座からゆっくりと立ち上がったのは、右半身が白銀の美女、左半身が腐肉に覆われた冷酷なる冥府の女王――ヘルだ。
「……父上からの指示か」
「ええ。全父オーディン様への偽情報工作と、根の国への仕込みは完了いたしましたわ」
ラタトスクは、口元に不気味な笑みを浮かべた。
「ですが、この戦争の火種を消しかねない最大の障害が現れましたの。神官庁のナカムラ・ヒトシですわ」
ラタトスクが指を鳴らすと、背後の暗闇で凄まじい殺気が膨れ上がった。
かつて神々がドワーフの魔術鎖『グレイプニル』で固く縛り上げた伝説の魔獣――神狼フェンリルである。
「あの男の鑑識眼と『波長解析』が現場の異常を捉えた以上、時間の問題ですわ。偽造術式の痕跡を記録され、持ち帰られれば、父上の工作は露見します。あの男が生きて根の国から戻っては困りますの」
ヘルは冷徹なサファイアの眼光を放つと、ロキの神符をかざした。
神符から黒い光が走り、フェンリルの喉元に絡みつく不壊の鎖を覆う拘束術式が、一時的に解除された。
「……良かろう。父上の障害となる者は、神であれ査察官であれ……噛み殺すまでだ」
ジャラジャラジャラッ……バシィィィン!!
解き放たれた神狼の不吉な咆哮が、冥府の暗闇を切り裂いて轟いた。
根の堅洲国・古き社殿の境内(夜)
広葉樹の森に囲まれた、薄暗い根の国の境内。
重々しい太古の霊気が漂っていた。
神律裁判所発付の『聖域立ち入りおよび特別検証令状』を携え、ナカムラ・ヒトシは一人、この地に降り立った。
大人数を動かせば、捜査情報が漏れる危険がある。
大主神たちの政治的介入も懸念される以上、まずは最低限の人員で現場を確認する。
それがヒトシの判断だった。
ヒトシはスーツのネクタイを静かに整え、愛用の鑑識グラスを指先で押し上げた。
ゴールドフレームの二重ブリッジが、月明かりを受けて淡く光る。
レンズの奥で、周囲に残留する神威波長が緑色の幾何学データとなって解析されていった。
「なるほど……。神兵の集結と噂されていた初期の動きは、古代からの農耕・防犯用神具の定期点検と、土着神たちとの交流に過ぎませんね」
ヒトシは、空中に浮かぶ解析結果を見つめた。
「……ですが、この通信回路には、外部から『北欧軍が侵攻する』という不自然な偽ノイズ術式が割り込まれた形跡がある」
「――ほう。ひと目で見破るとは、大した役人だな」
境内の奥、巨木のかたわらから歩み出てきたのは、豪快な体躯に荒々しい神威をまとった神――スサノオであった。
「スサノオ様。夜分遅くに失礼いたします。神官庁特別査察部、ナカムラ・ヒトシと申します」
ヒトシは深々と一礼し、身分証と令状を提示した。
「アマテラス議長およびアテナ長官の指示により、特別検証に参りました。現在、アスガルドのオーディン様率いる軍勢が、『スサノオ様の謀反』を名目に討伐軍の準備を進めております」
「ハッハッハ! 俺が謀反だと? 笑わせる」
スサノオは太い腕を組み、豪快に鼻で鳴らした。
「当初は子飼いの神兵と農具の点検をし、地元の土着神どもと酒を飲んでいたに過ぎん。
……だがな、我が元へ『北欧のアスガルドが根の国を殲滅しに攻めてくる』という警告通信が入ったのだ。
黙って殺されるのを待つ俺だと思うか?」
スサノオが樫の巨木のような腕を振り上げると、背後の天幕が風に乗って流れていった。
その向こうには、灯明に照らされた数百隻の軍船が岬につながれていた。
「北欧のバイキングどもがその気なら、返り討ちにして魚の餌にしてやるまでだ。そして、俺たちを陥れようとする腐り切った神官庁の大主神どもを撫で斬りにしてくれる!」
スサノオの目が、夜の暗闇の中で爛々と黄金色に輝いた。
「スサノオ様、お待ちください!」
ヒトシは一歩踏み出し、まっすぐにスサノオを見つめた。
「お気持ちは痛いほど分かります。ですが、確認できた事実と、まだ分かっていないことを分けて考える必要があります」
「何だと?」
「ここで確認できたのは、当初の神具点検が軍事行動ではなかったこと。そして、通信回路に外部から偽造された術式が割り込んだ形跡があることです」
ヒトシは鑑識グラスを外し、スサノオを見据えた。
「私の推測では、何者かが偽通信によってあなた様を挑発し、実際に軍を動かさせ、アスガルドと根の国を衝突させようとしている可能性があります」
「……黒幕がいるというのか」
「はい。両軍が戦えば、神官庁の統治責任が問われ、アマテラス議長の立場も危うくなるでしょう。
誰が利益を得るのか、そこを調べる必要があります」
ヒトシは一度言葉を切った。
「あなた様が今ここで怒りに任せて挙兵されれば、偽情報を流した者の思惑どおりになりかねません。それだけは、どうかお考えください」
スサノオが微かに眉をひそめた、その瞬間であった。
ガラガラガラッ……!!
境内の空間そのものがガラスのようにひび割れ、どす黒い死臭と殺気が一気に広がった。
飛び出してきたのは、人間の背丈を遥かに超える巨躯、血走った赤い目と凄惨な牙を持つ魔獣――神狼フェンリル!
『……コイツ……偽造術式ヲ……暴ク……邪魔者……ッ!!』
呪詛のような咆哮とともに、フェンリルが超音速で跳躍した。
狙いはただ一人。偽造術式を見破り、その痕跡を記録できる査察官
――ナカムラ・ヒトシ!
圧殺するほどの風圧と死の牙が、ヒトシの喉元へ迫る。
その瞬間!
黄金の閃光が、夜の闇を真一文字に切り裂いた!
空気を切り裂く凄まじい衝撃波が境内を揺るがした。
神狼フェンリルの巨首が宙を舞い、胴体は黄金の火炎に包まれて灰となり、風に消えた。
刀を振るったのは、他でもないスサノオだった。
その手には、刀身から神々しい光を放つ伝説の宝剣が握られていた。
「……ふん。異国の犬が、図に乗りおって」
ヒトシは乱れた髪とネクタイをすぐに整え、威儀を正して深く一礼した。
「……命を救っていただき、誠にありがとうございます、スサノオ様」
ヒトシの視線が、スサノオの手の宝剣に注がれた。
彼は鑑識グラスを押し上げ、改めて刀身を観察した。
「ですが……その通称『草薙の神剣』。公的な記録によれば、現在は熱田神宮に奉納・保管されているはずですが……?」
「――しっ!」
先ほどまで軍勢を率いて神官庁を潰すと豪語していた豪神が、慌てて人差し指を唇に当て、焦ったように苦笑いした。
「大きな声を出すな。これは……その、本物の神威を分霊・転写した特製の神具、レプリカじゃ!
神聖な本物をここに置くわけにはいかんだろうが!」
「なるほど、分霊神具ですか」
ヒトシは真面目な顔でうなずいた。
「公的記録との食い違いは気になりますが、今は人命救助と襲撃事件の捜査が優先です。この件は記録に残し、後日、正式な手続きに従って確認させていただきます」
「……う、うむ」
スサノオは、どこか居心地の悪そうな顔をした。
ヒトシは鑑識グラスを戻し、改めて真摯な眼差しでスサノオを見つめた。
「スサノオ様。何者かが私を殺害しようとした事実は、先ほどの仮説を裏付ける重要な状況証拠です。ただし、襲撃者を誰が差し向けたのかは、まだ確認できていません」
ヒトシは一呼吸置いた。
「……私に時間をください。神官庁特別査察部の特別査察官として、法を犯した者たちの責任を、客観的な証拠と法に基づいて明らかにしてみせます」
ヒトシはまっすぐにスサノオを見据えた。
「あなた様のその誇り高き剣を……どうか、黒幕の罠に乗るための流血ではなく、真の正義のために温存していただけませんか」
スサノオは、ヒトシの揺るぎない眼差しを見つめた。
そして、豪快に天を仰いで笑い出した。
「ハッハッハ! 噂には聞いていたが、どこまでも堅物で……実に骨のある役人だな、ナカムラ!」
スサノオは草薙の神剣を腰に納め、ヒトシの肩をドンと叩いた。
「良いだろう! お前の言葉を信じ、アマテラスに免じて、ひとまずこの軍船は待機させてやる。……だが覚えておけ、ナカムラ。もしお前たちが奴らを裁けぬのなら、その時は俺のこの剣が、神官庁ごと奴らを叩き斬るぞ!」
「はい。言われるまでもなく、完遂してまいります」
スサノオは、ヒトシの真摯な覚悟と「今動けば黒幕に塩を送る」という理屈を理解し、一旦挙兵を収める決断を下した。
ただし、完全に軍を解いたわけではない。
ヒトシが一礼して静かに社殿を後にすると、スサノオの傍らに一人の美しき神が控えた。
出雲の国造りを担いし、スサノオの娘婿――オオクニヌシである。
「義父上。軍船の将兵へは、どのように伝えましょうか?」
スサノオは、ヒトシの去った闇に視線を向けたまま、ゆっくりとうなずいた。
「お前が旗艦の『出雲』に乗り、あの男の首尾を見届けろ。成否次第では、すぐに碇を上げられるようにしておけ」
「かしこまりました。……ですが、ナカムラ・ヒトシ。面白い男ですね」
大国主は、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
スサノオは豪快に鼻を鳴らした。
「お前もそう思うか。……ただのひ弱な人間だが、骨のある良い役人だな」
そして、誰にも聞こえない声で、胸の内につぶやいた。
(危ない、危ない。この騒動が片づいたら、草薙の神剣を元の神宮に戻しておかねば……)
隣に立つ大国主は、何も聞かなかったかのように、静かに微笑んでいた。
二人の神に見送られながら、ヒトシは決戦の舞台となる神律最高評議会へと向かった。
戦争を止めるための時間は、わずかに得られた。
しかし、偽情報を流した者の正体も、フェンリルを差し向けた者の正体も、まだ明らかになってはいない。
ヒトシは鑑識グラスの奥で、緑色に浮かぶ解析データを見つめた。
神々の世界に仕掛けられた、見えざる謀略。
その真実を暴くため、彼は次なる捜査へと歩みを進めた。
(第五章第二話 完)




