第一話 黄金宮の憂鬱と道化の狂宴
第一話 黄金宮の憂鬱と道化の狂宴
北欧神話界域・アスガルド 黄金宮グラズヘイム(昼)
天を突く金銀の円柱と、神々しいルーンの浮き彫りが施された巨堂。
最高神オーディンは、世界を一望できる至高の玉座『フリズスキャールヴ』に一人腰掛け、重々しいため息をついていた。
その肩には、思考と記憶を司る二羽のワタリカラス——フギンとムニンが身を寄せ合い、人間界の「現実」を不吉な影として映し出している。
「……またか」
オーディンは、眼帯の奥に隠された片目に鬱屈とした光を宿らせ、呟いた。
渡りカラスが映し出す地上界の光景。
そこでは人間たちが「スマートフォン」と呼ばれる小さな板を叩き、画面の中でデフォルメされた自分たち——古の神々——の姿を「ガチャ」だの「キャラクター」だのと呼んで無邪気に戯れていた。
あるいは劇場の大スクリーンで、派手な特撮映像に彩られた映画のヒーローとして消費されている。
かつて、人々が落雷に怯え、荒波に慄き、生贄を捧げて平伏したアスガルドの威光は、今や完全に過去の遺物となっていた。
人々に恐れられ、崇められる「畏怖の対象」から、ただ興を添える「娯楽の素材」への変質。オーディンの胸を苛むのは、自らの神威が風化していく絶望であった。
「父上! 見たか、人間界の新作映画を!」
ドシン、ドシン! と黄金の床を揺らして現れたのは、巨躯を誇る雷神トールだ。
その手には巨大な神鎚ムジョルニア……ではなく、人間界で買い込んできた映画のパンフレットと大盛りのポップコーンが握られている。
「俺の雷の演出、実にクールだったぞ! 映画館の人間どもも『トール様最高!』と大歓声だ! ガハハ、実に気分が良い!」
豪快に笑い飛ばす息子を見上げ、オーディンは額を押さえた。
「……たわけが。我らは宇宙の秩序を司る気高き神だぞ。人間の慰みものや、映画のキャラクターとして消費されて喜んでどうするのだ」
「ええ? 良いではないか、親父。愛される形はどうあれ、親しまれ、人々の心に残るならそれも神のありようだろう!」
「やかましい! 失せろ、トール。頭を冷やしてこい」
オーディンが一閃の神威を放つと、トールは「相変わらず頭が固いな」と肩をすくめ、ポップコーンを口に放り込みながら去っていった。
一人残されたオーディンは、固く拳を握りしめた。
(親しまれるだと……? おめでたい奴め。このままでは我がアスガルドは、人間の都合の良い娯楽として消え去り、神官庁の歴史の陰に埋もれてしまうのだぞ……!)
その時であった。
すっ……
黄金宮の空間が歪み、神官庁最高評議会・大主神派(保守派)の意を受けた「影の密使」が、ゆらりと姿を現した。
「……お嘆きですね、全父・オーディン様」
「何者だ。私に何の用だ」
オーディンが鋭い眼光を向けると、密使は不気味に腰を低くし、念話の術式で語りかける。
「神官庁の保守派たる大主神の方々より、極密の打診に参りました。……オーディン様、貴方がたの失われた神威と絶対的信仰を取り戻す、千載一遇の好機がございます」
「……何だと?」
「東洋の荒神・素戔嗚が、根の堅洲国にて古代神兵を集め、高天原および神官庁への『謀反』を企てております。
……もしアスガルドの誇る圧倒的軍勢をもって討伐軍として先制攻撃を仕掛け、この謀反を鎮圧されたなら
……全神界はアスガルドの武威にひれ伏し、人間どもも再び畏怖の念を取り戻すでしょう」
オーディンは片目を細め、冷ややかに密使を睨みつけた。
「ふん、大主神どもの腹は透けて見えているぞ。
自らスサノオを直接攻撃すれば東洋神界からの猛反発を受け、自分たちが正面から責任を負わねばならん。
だからこそ外敵である我がアスガルドに手を汚させ、スサノオを反逆者として処理すると同時に、その姉であるアマテラス議長にも連座の監督責任を負わせて失脚させようという狙いだろう」
真実を突かれた密使は一瞬沈黙したが、すぐに不気味な笑みを深めた。
「……さすがは全知の最高神。ですが、利害は一致しております。大主神派の権力を借りて大義名分を得、自らの手で東洋の巨悪を討つ……アスガルドの威光を全神界に示すのに、これ以上の舞台がありましょうか?」
「……去れ。検討する」
密使が影となって消え去った後、オーディンはすぐに「一人の男」を私室へと呼び出した。
アスガルド オーディンの私室(執務室)
「やあ、義兄上。浮かない顔をして、僕を呼ぶなんて珍しいね」
優雅な歩調で部屋に入ってきたのは、流れるような銀髪に、サファイアの如き瞳を持つ美貌の神——北欧のスーパースター、ロキであった。
太古の昔、義兄弟の契り(血盟)を結んで以来、オーディンにとってロキは最も知恵の回る参謀であり、同時にどこか掴みどころのない危険な弟でもあった。
ロキは精緻なワイングラスを弄びながら、ソファーへと身を投げ出した。
「ロキ。先ほど、神官庁の大主神の使者が来た」
オーディンは密使から告げられた「スサノオの謀反」と「アスガルドによる先制討伐の打診」について打ち明けた。
「……どう思う、ロキ。
大主神どもの企みには裏がある。だが、我が渡りカラスに根の堅洲国を探索させ、もしスサノオの神兵集結が事実であるなら
……我がアスガルドが東洋の巨悪を討ち、神官庁での絶対的な発言力を握る好機とも言える」
オーディンの真剣な問いかけに対し、ロキは両手を広げ、心からの感銘を受けたように微笑んだ。
「素晴らしい! 素晴らしいじゃありませんか、義兄上!」
ロキは立ち上がり、大袈裟な身振りでオーディンの前に膝をついた。
「大主神どもの下心など、乗って利用してやれば良いのです!
東洋の荒神を打ち破り、その功績をもって神官庁での主導権を握る
……これこそ、アスガルドの黄金期を復活させる完璧なシナリオですよ!」
「……お前も、そう思うか」
「ええ、もちろんですとも! 僕が先陣の準備を整えましょう。
義兄上は堂々と全軍の指揮をお執りください!」
ロキの巧みな弁舌と後押しに、オーディンは胸のつかえが晴れたような顔になり、深く頷いた。
「よし……フギン、ムニン! 直ちに根の堅洲国へ飛び、スサノオの動向をこの目で確かめさせよ!」
二羽のワタリカラスが羽ばたき、黄金宮の窓から飛び去っていく。
「頼んだぞ、ロキ。出撃の準備を進めよ!」
「御意に、義兄上」
オーディンが満足げに立ち去り、誰もいなくなった私室。
静寂の中、ロキはゆっくりと身体を起こした。
「……ククッ」
先ほどまでの慇懃な表情は一瞬で削ぎ落とされ、サファイアの瞳には底なしの冷酷さと愉悦に満ちた邪悪な光が宿っていた。
「ふふふ……! 傑作だなあ。
大主神どもの浅知恵も、義兄上の滑稽な焦りも……僕にとっては最高のお膳立てじゃないか」
ロキの脳内では、既に大主神たちの目論見を超えたさらなる凶悪なシナリオが高速で組み上がっていた。
「大主神どもは自分たちの手を汚さずにスサノオを消し、アマテラスを失脚させたい。義兄上は失われた威光を取り戻したい……。
結構じゃないか、乗っかってあげよう。
北欧のバイキングの精鋭と東洋一の連合艦隊を真っ正面から激突させ、両方を共倒れに追い込む。そして神官庁の混乱に乗じて、僕がすべての主導権をいただく……」
「……出ておいで、ラタトスク」
空間の影がゆらりと揺れ、小さなリスの耳と尾を持った細身の神——ラタトスクが、不気味に微笑みながら姿を現した。
「うふふ、バッチリ録音・記録いたしましたわ、ロキ様♡
大主神の密使が全父オーディン様を唆した瞬間の神威波長データ、一分一秒の狂いもなく保管完了です」
「上出来だ。念話の術式を通じて伝わった意味情報も、完璧に記録できたね」
ロキは満足げに目を細めた。
「大主神どもは自分たちの手を汚さずにスサノオを消そうと必死だが……甘いねぇ。
僕が彼らの裏指示をすべて記録しているとも知らずに。
……もし神官庁のアテナ長官にこの仕掛けが見抜かれたら、この記録を提出して『僕は大主神とオーディンに命じられただけの哀れな被害者です』と言えばいいのさ」
「まあ嫌だ、酷いですわロキ様! ……でも、そういう悪辣なところ、痺れますこと♡」
ロキは冷酷な笑みを浮かべ、指令を下した。
「さあ、仕事の時間だ、ラタトスク。
オーディンの渡りカラスが持ち帰る記憶術式の伝達ルートに介入し、ノイズと偽情報を混ぜろ。
スサノオの農耕具点検を『大規模な挙兵準備』に見せかけるのだ。
そしてスサノオ側にも『北欧が攻めてくる』と偽通信を打て。
……僕の手は一枚も汚さずに、神界を極上の混沌へと導いてやろうじゃないか」
サファイアの瞳に暗い野望を滾らせ、北欧最高のトリックスターは、神界全体を揺らす大罪のタクトを静かに振り始めたのだった。
(第五章第一話 完)




