プロローグ 深夜の訪問
プロローグ 深夜の訪問
神官庁・特別査察部 部長室(深夜)
静寂に包まれた神官庁の夜。
月光だけが差し込む特別査察部部長室の重厚な扉が、音もなく滑らかに開いた。
「アテナ長官。お客様がお見えになりました。
警備術式および廊下の監視映像はすべてダミーに差し替えてございます。公式の訪問記録には一切残りません」
優美な漆黒のドレスを身に纏った長官秘書官兼特別査察部総務課長のニケが、淑やかに一礼する 。
その洗練された声には、公務の隙が一切ない。
アテナは執務机の書類から顔を上げ、静かに頷いた。
「ご苦労様、ニケ。……お通しして」
「かしこまりました」
ニケが恭しく扉を開くと、姿を隠す隠蔽のローブを目深に被った二つの影が静かに室内へと現れた。
先頭の影がフードを外すと、そこには神聖なる黄金の神威を漂わせる気品に満ちた女神
——神律最高評議会議長・アマテラスの姿があった 。
そして、そのすぐ後ろに控え、鋭い眼光で周囲の警戒を怠らないのは、彼女の絶対的信頼を得ている側近であり、舞と護衛の神
——アメノウズメであった。
「夜分遅くにすまないね、アテナ」
アマテラスが静かな、しかし重々しい声で切り出す。
ウズメは素早く部屋の四隅に防音の結界を張り巡らせると、アテナとニケに向かって短く頭を下げた。
「アテナ長官、ニケ課長。隠密の訪問ゆえ、無礼をお許しください。……事態は一刻を争います」
アテナは立ち上がり、アマテラスを応接セットのソファへと促した。
ニケが手際よく、湯気の立つ温かなハーブティーを全員の前に差し出す 。
「お召し上がりくださいませ、アマテラス議長。
……して、最高評議会議長自らがお姿を隠し、公式の手続きを経ずに特別査察部をお訪ねになられた理由とは……?」
ニケの問いかけに、アマテラスは深く息を吐き、杯に手を触れることもなく静かに語り始めた。
「……弟の、素戔嗚のことだ」
その名が出た瞬間、部長室の空気が一気に緊張で張り詰めた。
「根の堅洲国に隠棲しているはずのスサノオが……近頃、古代の神兵を集め、大規模な挙兵の準備を進めているという不穏な噂が聞こえる。
『高天原および神官庁の現体制を覆し、神々の秩序を力で書き換える』とな」
「スサノオ様が……謀反、ですか?」
ニケが微かに眉をひそめる。
「ええ。だが、あの大ざっぱで一本気なスサノオが、そのような計画的な陰謀を企てるとは、どうしても思えないのだ」
アマテラスの表情に、姉としての痛切な陰が差す。
「だが問題は、この噂を利用して動き出した勢力がいることだ。……北欧神話の最高神、オーディン率いるアスガルドの軍勢だよ」
「オーディン……!」
アテナの目が鋭く光った。
「噂を聞きつけたオーディンは、『東洋の荒神が謀反を起こせば神界全域が戦火に包まれる。
そうなる前に、アスガルドの武力をもって根の国を先制打撃・討伐せよ』と息巻いているという。
オーディンは近頃、人間の信仰が薄れ、民話や娯楽として軽視されていることに強い焦りとプライドの傷を感じていた。
自らの威光を全神界に示すため、この開戦の口実に飛びついてしまったようなのだ」
ウズメが悔しそうに言葉をつなぐ。
「このままでは、スサノオ様の真意がどこにあろうと、北欧と東洋の神々による神界規模の大戦争が勃発してしまいます……!」
「……しかし、アマテラス様」
ニケが整った声で尋ねる。
「最高評議会議長であられるあなた様ならば、公式に緊急捜査命令をお出しになるか、あるいは評議会で開戦回避の議決を図ることも可能であったはず。
なぜ、監視記録を偽装してまで、このように隠密で動かねばならなかったのですか?」
アマテラスは目を伏せ、苦渋に満ちた声で答えた。
「公式の手続きを使えない理由があるのだよ、ニケ。いま、私が公然とスサノオの捜査命令を出せば、最高評議会の大主神派(保守派)どもに『議長自らスサノオの謀反疑惑を認めた』という政治的口実を与えてしまう。
奴らは議長である私の権限を弱めようと狙っているのだ。
さらに、もし評議会で開戦反対の議決を図ろうとすれば、大主神派の持つ強力な『拒否権(Veto)』によって握り潰され、かえって事態の収拾が不能になる恐れがある」
アマテラスはアテナをまっすぐに見つめた。
「議長という私の立場そのものが、いまや制度上の不自由となっている。
大主神派が裏でこの不穏な動きに関与している疑惑もあるが……公式な証拠がない以上、公には動けない。
だからこそ、神律に基づき独立して動ける特別査察部の力を借りに来たのだ」
「……なるほどね」
アテナは冷徹な笑みを浮かべ、組み替えた脚の上で静かに指を組んだ。
「最高評議会議長の立場すら手縛りにする政治的圧力……そして、オーディンの焦りを突いて東洋と北欧を衝突させようとする動き。
単なる噂話ではなく、何者かが裏で意図的に仕掛けた黒幕の匂いがするわね」
アテナは一瞬、今動ける特別査察官と衛士の精鋭部隊を総動員しようと考えた。
だが、すぐに思い直して首を振った。
「……いいえ、ニケ。待ちなさい。この案件に大人数の部隊を投入すれば、大主神派に察知され、政治的干渉を受けるわ。それに……この不穏な事件を任せられるのは、あの男しかいない」
ニケが静かに問いかける。
「ナカムラ特別査察官、ですか?」
「ええ」
アテナは確信に満ちた目で力強く頷いた。
「ヒトシくんは、大主神の権威にも、反対勢力の政治的な主張にも一切左右されないわ。
どんな強大な神が相手であろうと、客観的な証拠だけを基準に公平な判断ができる。
彼なら、スサノオを最初から『反逆者』と決めつけることなく真実を確かめてくれるでしょう。
……そして何より、たとえアマテラス議長や私自身に不利な証拠が出たとしても、一切歪めずに真実を報告する生真面目さがあるわ」
アテナの言葉に、アマテラスも深く同意するように頷いた。
「権力や威圧に屈せず、法と証拠だけを信じる者……まさに、いま最も必要な人物ですね」
アテナはニケを振り返った。
「ニケ、ナカムラ特別査察官を呼び出しなさい。極秘で現地調査(根の堅洲国)へ向かわせます」
「かしこまりました、アテナ長官」
ニケは深々と一礼すると、アマテラスたちのために新しいハーブティーと焼き菓子を用意するよう控えの秘書に命じ、自身はナカムラ・ヒトシへの連絡のため部長室を後にした。
(プロローグ 完)




