第八十一話
ぽわぽわと光が降っている。
空を覆う大樹の枝葉。冗談みたいな高さの樹木が何本も、何十本も、何千本も立ち並んでいて、地面に立っている人の身からは空が見えない。
木漏れ日さえも射し込まない無数の枝葉。
日が落ちないせいか地面の草はあまり茂っておらず、代わりに大量の落ち葉が地に敷き詰められていた。
本来であれば、一歩先さえ覚束ないほどの暗闇のはず。
なのに――空を覆っている枝葉から、光の欠片がこぼれている。
ぽわぽわと。
落ち葉のように。綿毛のように。花粉のように。小さな光が宙を漂い、ゆっくりと落ちている。その無数の光のおかげで、大樹が立ち並ぶ世界はうっすらと明るい。
まるで――『迷宮』のよう。
壁や天井がぼんやりと光っているおかげで三十メートル先くらいが視認できる、あの通い慣れたダンジョンの明るさに、似ている気がした。
この景色を、知っている。
この景色は、知らない。
同時にふたつの感慨が湧いてきて、トールはひどく混乱した。いつもならとっくに何者かに斬られているか、誰かを斬り殺しているか、斬り結んでいるか。そのはずなのに、見知らぬ既知の森を、ふらふらと歩いている。
しばらく歩いた。五分か、もしくは五時間くらい。
変わらない景色の中に、変化がひとつ。
一際大きな樹の根元で――誰かがうずくまっているのが見えた。
三日も四日も砂漠を徘徊して力尽きかけているような生気のなさで両膝を抱えて、なにを見るでもなく、腹と膝頭の間に頭を置いて、じっとしている。
金色の髪。ぼろぼろになった軽鎧。
どうしてあいつは聖剣を持っていないのか。
そう思った瞬間、目が覚めた。
◇◇◇
「……よく判んねぇな……」
目を開けて死の余韻がないのに違和感を覚えるのはどうなんだろう、とトールは目覚めと微睡みのちょうど真ん中で考えた。
眠っている最中に妖刀『禍月』がトールの魂を通じて戦闘経験を刷り込んでくるのがもう当たり前みたいになっているのだが、しっかり夢に見たり見なかったり、あるいは今日みたいに変な夢になったりするのは、どうにも意味が判らない。
あの巨大な樹の根元でうずくまっていたのは……たぶん、ティアだ。
だったら、あれは『禍月』の記憶というよりは、同じくトールの魂と接続している聖剣ライトブリンガーのせいなのか……。
「まあいいか」
気にしたところで仕方がない、と割り切って身体を起こす。
頭の中で今日の予定を考えるが、ひとまず白紙だ。明日は買った車が納車される予定なので家にいる必要があるというくらいで、今日は特になにもない。
「あっ、おはようトール」
リビングへ移動すると、ティアが座ってテレビを見ていた。デパートで購入した部屋着だったのでかなり違和感があったが、よく考えればファンタジー村娘の格好をしている方が現代においては違和感があって然るべきだろう。
「あー……おはよう」
まだ夢の余韻が残っているのか、トールはティアの金髪へぼんやりと視線を注いでしまった。あの樹の根元でうずくまっていた女の髪と、たぶん同じ。
「うん。……どうしたの? ボク、なんかした?」
「いや、別に。今日は予定ないけど、なんかしたいことあるか?」
なんとなく訊いてみると、ティアは一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような顔でトールを見返してきて、それからくしゃりと表情を崩し、ゆるい微笑を浮かべた。
「特にないよ。予定がないなら、たまにはゆっくりしようよ。ボク、トールに取り憑いてから、いろんなことが起きてばっかりだよ。こっちの世界の普通の人って、七日に二日は休むんだろ?」
「まあ、勤め人なら、割とそうだな」
「あっちの世界の冒険者だって、冒険から戻って来たら何日か休むよ。こっちの探索者がどうかは知らないけどさ」
「あー……たぶん、休むんじゃね?」
「じゃあ休もうよ。ボク、あれが食べたいな。ミカとイルセリアに食べさせてたじゃん。焼いたパンにはちみつたっぷり塗ったやつ」
えへへー、と笑うティアにトールは雑に肩を竦めておく。
あんなふうにうずくまっているより、こっちの方がこいつらしいな、と。
◇◇◇
朝食を済ませて、ティアがテレビの視聴を再開し――現代についてあれこれ知れるのが面白いらしい――トールはなんとなく端末を起動し、S市や『アンセム』や『トールニキ』について、ざっと調べることにした。
まず、S市の『迷宮暴走』と、その後の対応について。
現段階で公式見解はないが、迷宮庁の高官がS市に現地入りしたとSNSで流れており、これはおそらく巾木亮のことだろう。スガイダンジョンとノウミダンジョンがS級に認定されるとすれば、市だけではなく県、あるいは国単位でのさまざまな検討が必要になるのだろうが、とにかく当面の処理や手続きが必要になる。
なにしろ、いつまでもダンジョンを放っておくと『迷宮暴走』が起きる。
だから相馬や舞阪を通じてトールがスガイダンジョンの調査をすることは許可されたし、その前の九条礼子との共同探索も同様だ。『アンセム』の方はノウミダンジョンの調査をしているだろうし、調査が進めば低階層から順に一般探索者にも開放されていくのではないか。
ちなみにというか、先日のティアによるスガイダンジョンRTAは全世界レベルで言ってもトンデモ映像だったようで、スガイダンジョンに出現した魔物と共に『聖剣使い』が特大のバズり方をしていた。
九条礼子に言われてつくったSNSのアカウントには無数のダイレクトメッセージ承認リクエストが来ていたし、昨日の『スガイダンジョンに行く』という発信には大量の返信がついていた。フォロワーも冗談みたいに増えていて、もはや俺が管理できるレベルじゃねぇな、とトールはSNSにログインしたままの携帯端末を閉じた。
余談として、イルセリア個人のアカウントから『すごいのは認めてあげる。あまり調子に乗らないこと』という返信が来ていたのは少し笑ってしまった。もちろん返信はしなかった。
「世界中のS級探索者の誰にも不可能な偉業、とか言われてるぞ」
黒竜瞬殺については、あまりに凄すぎて逆に疑わしくなっているほどだった。見た目よりは弱かったのではないか、そもそもスガイダンジョンの魔物は全体的に弱く調整されているのではないか。いや、それは今後あのダンジョンが開放されて探索者が入れるようになったら判るはずだ。S市はよ仕事しろ。
「んー、まあ、ライトブリンガーって竜特効あるしね。あの黒いやつは割と気合い入れて斬ったし。あんなもんじゃない?」
のほほんと答える聖剣使いである。気負いもなければ謙遜の気配もない。自販機でジュース買って褒められても困る、くらいの感じだ。
トールはその後もあれこれネットを徘徊し、魔族についても検索してみたが、当然ながら現代社会に潜んでいる魔族の存在など影も形も見当たらなかった。むしろ噂話にすら上がっていないのが変だな、というくらい。
世界が異世界と融合して以降、地球上には『迷宮』以外にも様々な変化があったのだ。オーストラリア大陸の北東あたりにエルフの大陸が現れたのもそうだし、日本では北海道の大雪山に氷竜が住み着いて、山岳地帯が異界と化しているとか。
墓場で幽霊を見た、森で妖精を見た、夏の陽炎が遠くから超スピードで接近してきて陽炎に食われた、富士の樹海では人面犬の集団がパトロールをしている……都市伝説やネットロアを含めれば枚挙に暇がないほど。
魔力というものがあり魔物が存在している以上、噂の中にはおそらく事実が含まれているのだろうが――正直な話、人類は『迷宮』を相手にするので忙しかった。
明確な被害が出るまでは放置されている、というのがたぶん実情だろうし、被害が出れば上位探索者が派遣されるのではないか。
そのあたり、執事にでも訊いてみるか――とかなんとか思っているうちに、昼になった。インスタントの袋麺があったので、適当にネギを刻んでごま油で炒め、ベーコンをスライスしてネギを炒めたフライパンの油をそのままに焼いて醤油を垂らして焦がし、トッピングにして醤油ラーメンに乗せてしまう。
「んー! 美味しい! んふふふ! こっちの世界、すごいよねぇ」
音を立てずに麺を食べながら、ティアはそんなことを言った。トールはずるずると音を立てて麺を啜りつつ、よく判らない、と首を傾げてみる。
「だって、こっちのごはん、今のところ全部おいしいよ。今食べてるこれって、たぶん高級な食べ物じゃないでしょ。水にも困らないし、毎日お風呂にも入れる。テレビも見られるし、ネットに繋がれば世界中の人と通信できる。向こうの世界の王族だって、こんな贅沢してないよ」
「文明の違いってやつか」
「文化もね。特に日本は封建制度ってやつの感覚が、ほとんどないでしょ。あっちの王族とか、普通に『おまえ死刑』とかやってたから」
「……なんか、すぐ革命とかされそうだな」
探索者みたいに強力な人間が存在していた世界だというなら尚更だ。そう思っての発言だったが、ティアは一度苦笑を見せ、するすると麺を口の中に吸い込んで、ゆっくり咀嚼してから、首を横に振った。
「だから権力者は実力者を抱え込んでたんだよ。家族や故郷を人質に取ったり、贅沢を約束したり、名誉を与えたりしてさ。こっちはそういうの、たぶん上手く隠してるし、人質っていうなら文化全体が人質なんじゃないかなぁ」
「……?」
よく判らなくなった。素直に首を傾げるトールに、ティアは最後に残しておいたらしいベーコンを咀嚼して飲み込んで、それから、続ける。
「テレビで見たけどさ、オーシュウっていう遠い外国では、探索者の国みたいなのができてるんでしょ。そりゃそうだよね、とんでもないお金が手に入って、とんでもない力を持っていて、それで偉そうにできないなんて嘘だよ。で、実際やってみると社会が崩れるわけじゃん。普通の人たちが支えてるものがなくなっちゃう」
インフラだとか、文化だとか。
厳密にはなくなるというよりはコストが高くなり、耐えきれなくなった者から逃げていくわけだ。どれだけ凄腕の探索者がいたところで、コンビニの経営者や店長やバイトの店員がいなければ夜中に菓子パンを買えない。パン工場も必要だ。
「選んだんだよ。テレビが映る、アニメだってある。漫画は、まだボクは読んだことないけど、文字の物語だってあるし、お笑い番組だってあるじゃん。夜中にコンビニでパンとかジュースを買える。デパートでカツ丼もラーメンも食べられる。この国の探索者は、そういう社会を維持するためのコストを支払うことにしたんだよ」
嫌なら、探索者の国へ行って帰化人にでもなればいい。
その国には自国産のアニメも漫画もバラエティ番組もないし、夜中に思い立ってカップラーメンを買いに行くのも大変だろうが、迷宮が生み出した唸るほどの金で輸入すればいいじゃないか。どれだけインフレするか知らんけど。
「あー……上の方に相馬さんみたいな人がいるってのは、救いなのかもな」
そしてそのことは相馬賢吾自身を救いはしないだろう、とも思う。
自分に守りたいものはないと言い切った『狩人』のS級探索者。
なのにあの男は、社会の維持に努めているように見えた。
「まあ、でも、莫迦なのとかヤバいのとか、いっぱいいるんだろうけどね」
当然、とばかりに、一切の期待を見せずに言い切るティアである。
残念なことに、同感だった。
◇◇◇
結局、そのままだらだらと一日を消費することになった。
たまに階下から物音が響いていたのは九条礼子たちの引っ越し作業が進行しているからだろうし、昼過ぎには河合咲穂から『東屋さんと合流しています。なにかあれば下の階にいます』と連絡があったものの、特に用事はなかった。厳密に言えばオンボロアパートの大家に連絡して隣の部屋を借りるべきだが、明日でもいいやと思ってしまった。契約だのなんだのに対して、トールは腰が重かった。
アニメ映画が観たいとティアが言い出したので、久しぶりにDVDプレーヤーを起動して、田舎に引っ越してトロールと出会う姉妹の物語を一緒に見たりした。よく判らないなりに面白かったらしく、視聴後のティアはテンションの上がった犬みたいに騒がしかったが、まあ悪くないか、と思った。慣れたのかも知れない。
「いやもう、ホントに凄かったよ! ボク、演劇だか歌劇だか観たことあるけど、全く別物! こっちの人たち、ホントに凄いんだねぇ!」
「……いや、そっちの演劇にもマジで凄いやつはいたんだろうし、こっちのクリエイターでも本当に人を感動させるのって、たぶんそんなに多くはないんじゃねーかな」
「じゃあ、今ボクらが観たのって、超一流?」
「あー……確か、そう。海外からもすげー評価されてる」
「それはそれで凄いよ。なんでもない日に、ふと思い立って家の中で超一流を鑑賞できるだなんてさ。他のも、もっと観てみたいなぁ」
「今度ミカでも呼んで、一緒に観りゃいい。九条さんも呼んだら喜ぶかもな。当たりだけじゃなくてハズレも観ておけよ」
「それ、観る前に判るものなの?」
「慣れると地雷は判別できる」
とかなんとか。
そんなことをやっている間に日が落ちてきて、空の端が赤く染まり始めた。そういえば冷蔵庫の中身が微妙だったなと思い出し、面倒だけど買い物に行くか、と着替えてしまう。まともな服が探索者用のものばかりになりつつあるのがちょっと笑えるところだな、と無意味に苦笑してしまう。
車がないので徒歩になるが、今日くらいはいいだろう。
テンションの上がった犬みたいな元勇者を連れて散歩するのも悪くはない。
――プルルルル、
と、携帯端末が着信を報せた。
画面の表示を確認してみれば『白澤香奈』とある。
「もしもし。白澤か? どうした?」
つい先日再会した元カノではあるが、用もないのに図々しく連絡をしてくる女ではない。ということは、なにか用件があるはずだ。それも、逼迫している用件が。
端末の向こうの白澤香奈の声は、予想していた百倍は切羽詰まっていた。
〈早坂くん……ごめん! ノウミダンジョン、三階層! 人間が魔獣みたいに変わって、襲われてる! 助けて!〉
バチン、と――頭の中でスイッチが入った。
「すぐ行く」
それだけ言って通話を切る。腰に魔法鞄を取りつけているのを確認し、玄関へ向かって探索者用のブーツを履きながらティアの姿を探してみれば、とっくに玄関の扉を開いて、軽鎧姿で聖剣を腰の後ろに固定している勇者がいた。
「急ぐんだろ! 乗って、トール! 行き先は!?」
あまりにも話が早いのは、やはり緊急事態に慣れているからだろう。
朗らかに雑談していた二秒後に戦闘が始まったり、一日前に話をした相手が翌日には死んでいたり……きっと、そういうことがあったのだ。
そのことに助けられるのは、あまりいい気はしないが。
しかし今は、余計なことは考えない。
「ああ――急ぐ。ノウミダンジョンだ」
言って、ティアが背中に保持している聖剣に片足を乗せ、剣を保持するための鎧のフックを片手で掴む。前回よりもずっと不安定な体勢だが、今なら大丈夫という確信があった。つい先日、この世界で史上初くらいのパワーレベリングを済ませているし、トールの魂も随分と『禍月』に馴染んでいる。
「今からノウミダンジョンに向かう! たぶん緊急事態! 状況は判らないから、どうにか把握して! 行くよ!」
大声で宣言したのは、アパートの住人――特に昨日から引っ越してきたやつらに伝えるためか。そういえば河合咲穂もメイドのところにいるはずだった。
――ボンッ、
と、そこまで考えたところで、世界が遅延する。
音速を超えて跳躍し、手近な足場を見つけてまた跳んで――その繰り返し。オンボロアパートを飛び出して、あっという間に県道へ。いつかと同じように、山の中を突っ切って、真っ直ぐに目的地へ。
「通話の相手! こないだデパートで話してた人かい!?」
跳弾するみたいに跳ね飛びながらティアが言う。景色が恐ろしい速度で流れていくのに、今のトールはそこまで恐怖を感じない。ティアが次の足場を蹴る際に膝の力を抜いて衝撃に備える余裕もあった。
「そうだけど、おまえ、買い物中だったろ。なんで判る?」
「ボク、近くにいる人の気配は把握してるから。トールが誰かに話しかけられてる、たぶん知り合いかな、なんか親しげだなぁ、くらいのことは判ったよ」
「気ぃ使って、戻って来るのを遅らせたってわけか」
「ううん。普通に買い物してただけ。それよりトール、余裕あるなら木刀出して、空気を斬ってくれない? もうちょっとスピード出せるよ」
「難しいことを言いやがる」
「できそうだから言ってるんだよ」
「ああそうかよ」
あまり意味を込めずに舌打ちし、魔法鞄から木刀を取り出して、片手で保持する。次にティアが足場を蹴る瞬間、空気の壁とティアの魔力障壁がぶつかる刹那に、木刀の切っ先を突き出して魔力を込める。
ほんの一瞬だけ、空気抵抗がゼロに。
音速を超えている速度での一瞬だ。かなりの距離を稼ぐことができた。これを繰り返せば、思っているより速く着くだろう。
「そうそう、その調子! 知り合い、ピンチなんだろ? 急ぐよ!」
なんの余分もないティアの態度に、少しだけ救われた気になった。
焦ろうが苛立とうが怒り狂おうが――結局はできることをするしかない。
助けて、と言われた。
三年前はその言葉を聞くことなんてできなかった。トールの家族は、他の多くの被害者と同様、誰にも連絡なんてできず、『迷宮暴走』に巻き込まれたからだ。
助けたかった。できるわけがなかった。できないと判っていて現場に乗り込むほどの無鉄砲さもなかった。奇跡が起きたり、秘められた才能が開花したり、都合よく誰かが割って入ったりなんてことを、全く信じられなかったからだ。
今度は。
今度こそは。
空気の壁を魔力で切り裂きながら、そんなふうに思った。




