第八十話
ぼこぼこ、めきめき、ごりごり――。
そんな奇怪な音を立てながら瀬野恭平の肉体が変貌していくのを、白澤香奈は呆然と見つめていた。香奈だけではない、結城も、他のみんなも、目の前で起きている事象の意味が判らず、忘我しないわけにはいかなかった。
隠し部屋に転移罠があったのは、百歩譲って納得できる。
三階層の罠にしては悪辣だが、他の階層からランダムに魔物を転移させてくる、みたいな罠だとすれば、今回は当たりが悪かったということで納得できる。
しかし――目の前のこれは?
一体全体、なにがどうなったら人間の身体が異音を立てながら膨張して……百七十五センチくらいの身長が、二メートル半まで大きくなるというのか。
瀬野が手に持っていた片手半剣は床に転がっている。折れてこそいるが、どう見ても彼が普段から使っていたものだ。断じて魔剣を拾ったわけではない。
「が、あ、あ、ァ――アアアアアァァアァァ――!!」
喉に弦を突っ込んで掻き鳴らしているみたいな咆哮が響いた。
生理的嫌悪感と問答無用の脅威を感じさせる、自分たちとはチガウモノでなければ出すことのできない声。
それでようやく、香奈の意識と思考が身体に戻った。
「撤退! 結城くん、会長と高橋さんを! 前野さんは私と――」
瀬野だったナニカを引きつけよう、という科白は最後まで言えなかった。
悲鳴を上げながら真っ先に駆け出した前野が、瀬野に接近され、背中に一撃食らってぶっ飛んだからだ。激しく動くモノがあったからつい叩いてしまった、みたいな動きで、そこまで力一杯殴りつけたわけでもなさそうだった。
それでも前野の身体は遮るもののない直線通路を十五メートルくらい吹っ飛んで、床に接触した後もごろごろと身体が転がっていく。
「テッタイ? 撤退……どうして撤退スル……?」
瀬野だったものが、瀬野みたいな口調で言った。ごろごろと喉を鳴らすライオンが無理矢理に言葉を話したような発声。
「瀬野くん! 一体なにが……なにが起きてるの!?」
ぱっと跳躍して瀬野から距離を取りながら、香奈はひとまず声をかけてみた。意識が残っているのなら対話が成立するかも知れない……と思ったわけではなく、わずかなりとも時間が稼げるかも知れないと思ったのだ。
ごりごり、めきめき――そんな異音が、止んだ。
両肩が異常なほど左右に開き、二の腕はやけに細いのに肘から先が異様にごつい。胸部は膨らんでいるのに、腹は細い。腹、腰、太股あたりは元のサイズにかなり近く、ズボンが生き残っている。ただし膝から下は悪魔型とかガーゴイルみたいなモンスターを思わせる太さとフォルム。
魔獣と人間のキメラ。
一見した印象はそんな感じ。
「……シラサワァ……」
グルル、と喉が鳴る。肌が硬質化しているのか石みたいな質感になっていて、顎の先が角みたいに張り出し、口は耳元近くまで裂けていて、張り出した額に隠れている両目が金色に発光している。
空色メッシュの髪の毛だけ、元の瀬野恭平を色濃く残していた。
「白澤香奈だよ。あなたは……瀬野恭平くん……?」
どっくん、どっくん――自分でも判るくらいに煩く鼓動する心臓の音を聴きながら、香奈は視界の向こうで鳩羽会長とカメラ係だった高橋が結城に助け起こされているのを確認する。鳩羽は意識を取り戻したようで、瀬野の背中を眺めて驚愕している。高橋の方は一足先に状況を理解していたようで、ホラー映画でモンスターから隠れている人みたいに口元を手で押さえて息を潜めていた。
「……シラサワ……ハヤサカ……ハヤサカトール……俺、オレ、は……」
ぶつぶつと呟き――呟いたというには、声は大きかったが――瀬野が巨大な右手を持ち上げ、自分の頭を押さえた。まるで頭痛を堪えるみたいに。
そんな魔獣の向こうで、静かに立ち上がった鳩羽と高橋。結城は心配そうに香奈を見ているが、心配されたところで一ミリだって状況は好転しない。
瀬野だったモノが全身から放つ魔力の圧は、どう考えてもA級以上だ。ついさっき出現したゴールドベアの存在感よりもずっと強烈で、ずっとおぞましい。
はっ、はっ、はっ、という息を切らす音がする。
この緊迫した状況でひどく耳障りだなと思ったが、自分の呼吸音だと気づいて香奈はうっかり苦笑しそうになった。膝が震えて、なにかのきっかけがあれば座り込んで目も耳も塞ぎ、思いっきり喚き散らしたい。
でも、そうするわけにはいかなかった。
きっと早坂透なら、そうしないから。
「ハヤサカ――?」
グルル、と喉を鳴らしながら魔獣が呟き、頭を押さえていた自分の手を離し、その手をぼんやりと眺めるようにしてから――また、グルルと喉を鳴らす。
……たぶん、嗤った。
自らの変容を自覚したみたいに。
金色の瞳に、理性が……いや、自意識のようなナニカが灯る。理性はなさそうだ。何故なら、耳元まで避けた口が、笑みを形作っていたから。
「そうか……シラサワ。おまえを殺したら、ハヤサカは悔しがるだろうナァ」
瞬間。
二メートル半の魔獣が、目の前にいた。
◇◇◇
早坂透のことを好きになったのは、中学のときだ。
信じ難いことに当の早坂は香奈と同級生になったのを高校のときからだと勘違いしているが、実は中学も同じなのだ。
ただ――中学のとき、香奈は白澤じゃなかった。
香奈の父は愛想と要領のいい小心者で、よく母を殴っていた。母はイマドキでは珍しい『男を立てる』タイプの女性で、父の無茶苦茶な理屈に従って、殴られて、罵られては頭を下げ、そうして後から香奈に「ごめんね」と言ってきた。
違うよ、謝って欲しいわけじゃない。
お母さんは、あんな男とさっさと離婚するべきだ。
小学校高学年くらいのときには、香奈はもうそんなふうに思っていて、家にいるのがとても苦痛だった。けれど母のことは好きで、可哀想に思っていて、あんな家族はクソだと見捨てることもできなかった。
幸いというべきかなんなのか、母には友達がいた。
母の幼馴染という男性で、香奈は小さな頃からそのおじさんが結構好きだった。父と違って優しかったからだ。香奈にいろんなものを買ってくれたし、後から知ったことだが母にぎりぎりの生活費しか渡していなかった父を見かねて、こっそり経済的な支援もしていたらしい。
事情を聞くに、大学生の頃に母が父に掻っ攫われて、いつの間にか香奈が生まれていたという。ようするにおじさんは幼馴染の女の子を寝取られたわけだ。
優しいおじさんよりも父を選んだ母のことを香奈はちょっと軽蔑してしまったが、それでも――肉親の情とでもいうのか、注がれた愛情の成果というべきか、母を嫌いにはなれなかった。
我が身を振り返れば、声高に母を非難する資格なんてない、と香奈は思った。
だって、父の小さな暴虐に声を上げることができなかったのだから。
中学に入った頃、香奈は遠くの有名難関高校への推薦入学を考えていた。なにしろ外面はいい父だから、成果を手にした娘は褒めるしかないはずだ。家に残される母のことは気になったが、香奈が家にいたところでさして意味はなさそうだった。
香奈が家にいようがいまいが、父は母への小さなDVを積み重ねていただろう。事実、小学校を卒業しても父から母への暴言も見下しもモラルハラスメントも収まらなかった。それは香奈にさえ及んでいて、つまりは……逃げたかったのだ。
あるとき、学校の中でも嫌なモノを見た。
今よりもずっと子供だった瀬野恭平が、早坂透をターゲットにしてウザ絡みを開始したのだ。理由なんて判らないし、知りたくもない。
最初は些細なこと。ちょっとした話の合間に早坂の名を出してゲラゲラ笑ったり、通りがかりに肩をぶつけて大袈裟に痛がったり。そういう小さなことを面倒くさがって見逃しているうちに、ゆっくりと行為はエスカレートしていく。
早坂透は、我慢しなかった。
周囲から見てさすがにそろそろライン越えだろうとなったあたりで、早坂は周囲を気にすることなく堂々と「これ以上やったらぶん殴るけど」と言い放った。
そもそも早坂透は教室でも目立つ方ではなく、いわゆる陽キャと分類されるような人種ではなかった。友達だって多いわけではなく、物静かで、大きな声で笑うようなことがない人。だからこそターゲットにされたのだろう。
それが、当たり前みたいな顔をして瀬野に釘を刺したのだ。
そんなふうに言われるだなんて、たぶん瀬野は思ってもいなかった。教室の陰キャをいじって遊んでいたら堂々と反撃されるなんて、他人を貶めることに慣れている人種には想像もつかなかっただろう。
結果、瀬野は鼻を折られた。
早坂透が有言実行したからだ。忠告をして、瀬野がそれを無視してへらへら笑いながら早坂を嘲笑した。だから本当に躊躇なくぶん殴った。
教室が騒然としたのを覚えている。かなり大量の出血があって、鼻を押さえて痛がっていた瀬野の表情が印象的だった。
尊厳を傷つけられました――とでもいうような、被害者の顔をしていたのだ。
このとき、香奈は心の内側を覆っていた分厚い雲の切れ間から光が射したような気持ちになった。救われた、と思ったのだ。
一線を越えてくる相手とは、戦わなくちゃいけない。
どこにラインを引くのかというだけの話だ。
線を引けなければ、死ぬまで我慢するしかなくなる。
その後、香奈はおじさんを頼り、父のDVの証拠を積み上げた。おじさんが弁護士を雇い、母を説得して父との離婚を成立させることに成功した。
父の行動は証拠だらけで、いざ戦うと決めた後は、法的な弱者にすぎなかった。財産分与なし、養育費請求なし、以降の接触を禁じる――そうして父と母は離婚して、白澤のおじさんは、一年と少し後に、母と結婚することになった。
優しいおじさんは、優しい父親になったのだ。
白澤香奈になった香奈は、地元の高校に入学して、同じ高校に進学していた早坂透を見つけて――タイミングを計って告白した。
それからの日々は、香奈にとって間違いなく幸福だった。
好きな人と一緒に歩いて、話をして、手を繋いで、抱きしめて、抱き合って……大事にされて、大事にして……ああ、世の中って、わざわざ他人を見下したり蔑んだりしなくたって、楽しいし、嬉しいことがいっぱいあるじゃないか。
――『迷宮暴走』さえ起きなければ。
あれさえなければ、同じ大学に進学して、探索者なんかにならなくて、穏やかで幸福な毎日が続いていたんじゃないか。それを続かせる努力を、きっと早坂透は厭わなかっただろう。香奈だってそうだ。
『探索者やってんなら、たぶん力になれることがある……と思う。俺の連絡先は変わってないから、本当に困ったときなら、連絡してくれ』
思い出す。
いや、違う。
これは――走馬灯だ。死に際に見るっていうやつ。
なにかで聞いた覚えがある。死を間際にしたときに人間の脳は死を避けるためのヒントをフル回転で検索するのだ、とか。本当かどうかは知らない。でも、この危機を生き延びるためのヒントは、見つかった。
◇◇◇
ずいっ、と突き出された魔獣の腕を放っておけば、喉を掴まれて宙吊りにされていたはずだ。それで香奈の命はあっさりと掻き消えていただろう。
だから半歩だけ左に逸れながらぎりぎりで腕を避け、魔法鞄から短鞭を取り出し、さらに一歩踏み込んで魔獣の顔面に鞭の一撃をぶち込んだ。
普段使いの鎖鞭とは別に、ロシアのナガイカと呼ばれるほとんど鈍器みたいな鞭をサブウェポンとして持っている。接近戦が嫌で鞭を使っているが、結局のところ接近されたら困ることに変わりはない。なので使い方が似ている短鞭を持つことにしたのだが、これがなかなか強烈な武器だった。
もちろんA級以上の魔物みたいになった瀬野に効果があるとは思わない。
でも――この魔獣が瀬野なら、顔を殴られるのは嫌なのではないか。
「バ――ッ ギィィ!」
痛いのではなく、嫌だ、という唸り声を上げて顔を押さえる魔獣を尻目に、香奈は躊躇なく結城たちの方へ走り出し、驚愕したままの彼らに向けて、声を張る。
「二十秒! 逃げながらでいいから、どうにか稼いで!」
言いながら、走るのを止めず結城たちを追い越して通路の向こうへ。
後ろは振り向かない。時間を稼いでくれるにしても稼いでくれないにしても、やることが変わらないからだ。魔法鞄ではなく腰のベルトに取りつけたホルスターから携帯端末を取り出し、早坂透へコールする。
咄嗟にコールできたのは、昨日の夜だって通話をかけてみようかなと迷っていたせい……おかげだ。
走りながら携帯端末を耳に押し当て、プルルル、という通信の音をもどかしく聴き続ける。永遠みたいな時間が流れた後に、死ぬほど聞きたかった声が。
〈もしもし。白澤か? どうした?〉
「早坂くん……ごめん! ノウミダンジョン、三階層! 人間が魔獣みたいに変わって、襲われてる! 助けて!」
〈すぐ行く〉
本当に必要最低限の返事があって、通話が切られた。
ああ――これでこそ早坂くんだ。
心の中の分厚い雲を割って、天使の梯子が降りて来る。
香奈は足を止めた。
振り返り、こちらへ走ってくる結城たちを見る。鳩羽、高橋……前野はいない。逆側に吹っ飛ばされたせいだ。魔獣は結城たちをゆっくりと追いかけている。大人が子供を相手に鬼ごっこをしているような、ふざけた動きだ。
「結城くん! ダンジョンの入口まで戻って待機してて! 助けを呼んだ! その人を連れて『異能力』で私を探して、助けに来て!」
言いながら、鎖鞭を取り出して腰を落とす。もちろん真正面から戦うなんてことはしない。だけど、このまま一緒に逃げるだけなら間違いなく全員殺されるだろう。いずれにせよ魔獣の狙いは香奈のようなので、これが最も犠牲を減らせる選択肢だ。
魔物は『迷宮暴走』のとき以外、ダンジョンの外に出ない。
しかし――瀬野恭平だったモノは?
どうにか逃げたとして、迷宮の外へ出た瀬野がなにをするかなんて、香奈には判らない。もちろんここで皆殺しにされた後、この魔獣が迷宮の外へ向かうということも十分にありえるけれど……外に連れ出すよりは、きっとましだ。
「白澤はどうする!?」
ほんの一瞬立ち止まって問うたのはサークル会長である鳩羽。この状況で話ができること自体がかなりすごいことだ、と香奈は感心してしまう。自分みたいに、心の中になにかを持っているのかも知れない。
「引きつけて、時間稼ぎをします。すぐに殺されるかも知れないので、早く逃げてください。たぶん、私が狙われてます」
そう言った瞬間、数メートル先でわざとらしく足を止めた魔獣が、嘲るような調子で両手を広げ、「シラサワ」と呟いた。
ぞっとする怖気と、大量の虫に這いずられているような不快感。
「……すまん。任せる。高橋は渡部と一緒に逃げろ。道中の魔物を倒してやれ。俺は前野をどうにか回収する」
「白澤さん……!」
「『トールニキ』を呼んだから、助けに来てね」
言って、パァン! と鞭を振って鳴らす。それが合図になって全員が動き始める。止まっているのは香奈と、瀬野恭平だった魔獣。
一体何だってこんなことになったのか。
まるで理解できないが――とにかく、こうなっている。
「知ってると思うけど、私、瀬野くんのことずっと軽蔑してるから」
どうにか笑って言ってやる。
魔獣もそれが面白かったのか、ライオンみたいな唸り声で笑った。
「――ズタズタにして、オカしてやるよ、シラサワ――」
そうして、この世で最も最低な鬼ごっこが始まった。
鬼が手加減して、相手をいたぶるためだけの。




