第八十二話
人間サイズの物体が長距離を高速移動するのは非常に難しい。
ちょっと前までの早坂透であれば、これは設問自体が莫迦げていると鼻で笑っただろうが、今のトールにとっては死活問題だ。といっても、実際に移動しているのはトールを担いでいるティアの方なのだが。
単純な話、速く遠くまで走って移動するためには、強く深く踏み込む必要がある。それこそ『地を蹴る』という表現そのままに。しかしあまり強く蹴りすぎると地面を破壊することになって、推進力を得られない。
なのでティアが足場を蹴る際には、魔力的なナニカの作用を使って障壁を展開しているようだ。足場を壊さないように、という意味合いであり、空中に障壁を展開して空中ダッシュしたりはできない――のだろう、たぶん。
足場の問題を『魔力で足場に障壁をつくる』ことで解決したとして、今度は空気抵抗が問題になる。音速を超えれば空気の壁にぶち当たり、見る見るうちに速度が落ちる。ジェット機のように常に推進していなければ、大気中では速度を維持できないのだ。木刀で一瞬だけ大気を切り裂いたところで、根本の問題は変わらない。
戦闘中に高速移動するのと、目的地まで高速移動するのでは意味合いがまるで違う、ということなのだろう。S級探索者であろうが飛行機を利用するのは、考えてみれば当たり前のことだ。物理法則を無視するには魔力が必要になるし、大きく無視するためには大きな魔力が必要になる。
無理矢理に音速を超えれば衝撃波を生み、市街でそんなことをすれば街中の窓ガラスが割れてしまう。なので音速を超えながら魔力によって衝撃波を抑える必要もあるのだが、それは全力疾走しながら針に糸を通すような芸当だ。
それでも、可能な限りの無理を通した。
自宅のオンボロアパートから、ノウミダンジョンまで――五分は経っていない。冗談みたいな速度ではある。おそらくこの世のどんな乗り物を使うよりも速い移動だろう。しかしティアが地を蹴ってトールが木刀で大気を切り裂き、それでも滞空中にじりじりと速度が落ちていくのは、ひどくもどかしい時間だった。
ノウミダンジョン周辺は、現在は更地というか、荒れ地になっている。
言うまでもなく出現したヒドラが暴れたせいだ。そして出現してかなり早い段階で倒したので、ノウミダンジョンの周辺しか荒れ果てていないということだ。今となっては随分と昔の話みたいに思えるが、つい数日前の出来事だ。
「――っ、誰か、いるよ!」
進行ルート上で最も近くの建物だったビルの屋上を足場に跳躍し、ノウミダンジョンの入り口前へ、迫撃砲が着弾するような勢いで着地する。
スガイダンジョンやカミオカダンジョンと同じ、地面からぼっこりと一部分が盛り上がっていて、そこが入口になっている。入口からはしばらく斜め下に移動して、通路に行き当たればそこが地下一階層ということになるはずだ。
その入口のすぐ近くに、男が一人、立っていた。
かなり無茶苦茶な勢いで着地したせいで、荒れ地になっているダンジョン入口付近には濛々たる粉塵が舞い上がってしまったが、男はまるで気にしていなかった。
まだ若い、たぶんトールとそう変わらないくらいの年齢だろう。ワークパンツにブーツを合わせていて、どういうわけか素肌の上にノースリーブのロングコートみたいな服を着用している。赤い髪を短く刈り込んでいて、やけに目つきが悪い。
「白澤の仲間か!?」
一応訊いてみるが、たぶん違うだろうなと思った。思ったが、違っていなかった場合に大幅なロスが発生するので、訊かないわけにはいかなかった。
「あぁ……? シラサワ――って、オメェ『トールニキ』ってやつか」
ぎろり、と睨まれたが、どうやら無関係だと判断し、無視することに。
ティアの肩を叩いた瞬間、景色はあっという間にダンジョンの中に移っている。そしてここからは、そこまでの速度が出せなくなる。
「トール、ダンジョンの構造、判る?」
「判んねぇ。既存のノウミダンジョンの地図が当てになるかも判らないし、ダウンロードする手間考えたら、闇雲に突っ走った方が早い気がする」
「じゃあ、勘任せだ! っていうか、さっきのやつ、追いかけて来るんだけど」
言われて背後を確認してみれば、高速で迷宮を駆け抜けているはずのティアの背を、あの赤髪トンチキコートが追い駆けて来る。もしかすると無視されたのが気に食わなかったのか、あるいは勝手にノウミダンジョンに入ったのを咎めに来たのか。
迷宮の通路を右に左に、本当に勘任せに走っているというのに、トンチキコートはそれでもきっちりついて来る。ついて来られる、というだけでかなりの手練れであることは理解できた。一般探索者はティアの疾走に追いつけない。
結局、一階層から二階層へ降りる階段を見つけるだけで三分近く使ってしまった。誰を責めるわけにもいかないが、苛ついてしまうのは仕方がない。
二階層へ降りた瞬間、人がいるのに気づく。
ちょうど階段を降りた先、絶対に見逃すことのない場所に、人が二人。片方は大学生っぽい男。もう片方は……線の細い美人だ。
「『トールニキ』さん! 白澤さんの仲間です!」
切羽詰まった様子で美人が声を張った。
飛び降りるような勢いで階段を降りていたティアの背中から降り、トールは木刀を手に持ったまま、訊くべきことを訊く。
「白澤から連絡があった。三階層で異常事態。人間が魔獣みたいになって襲われてる。おまえらは白澤が逃がしたのか?」
「そ――そうです! 白澤さんが囮になって時間を稼ぐから、先に逃げてトールニキさんを案内してあげて、って……」
「案内? 今、白澤が何処にいるのか判るのか?」
「はい。僕は『異能力』が使えるので――」
「判った。案内頼む。なるべくデカい声で」
言って、美人の手首をぐっと掴んで、ほとんど投げるような勢いでティアに向けて放ってやった。ティアは聖剣を腰の後ろから前に回し、両肘の内側を使って抱えるようにして、その聖剣の上に、ふわりと美人を載せた。
「あっ、キミ、男の子だね。女の子かと思った」
「え? あっ、はい……」
「おいテメェコラ! 逃げてんじゃねぇぞ! 勝手にダンジョン入って――」
と、階段の方から声が響いた。それに美人は驚いたように首を竦ませたが、気にしている場合じゃないし相手にしている時間がない。
「案内しろ!」
言って、駆け出す。一瞬でティアが前に出たが、それでいい。ティアが美人の案内を聞いて走り、そのティアの背をトールが追う。先程よりも速度が落ちたのは、トールが走る速度に合わせてくれているからだ。
一度も入ったことのないノウミダンジョンの通路は、魔力的に繋がっている、といういつかのティアの言葉通り、スガイダンジョンの景色とかなり似ている。写真や映像で並べても、たぶん判らないくらい。
右、左、左、右、真っ直ぐ、突き当たって右――やっていること自体は一階層と同じなのに、ティアの足取りから迷いが消えている。
抱えている美人の『異能力』がなんなのかは判らないが、案内ができるというのだからできるのだろう。もしかすると罠かも知れない、と一瞬思ったが、罠だとすれば明らかに間抜けすぎる。
間違った案内をすることでちょっと時間を稼いだだけでトールとティアに殺されるくらいなら、最初から放っておけばいいのだ。どっちにしろ迷うのだから。
罠でない証左とばかりに、二分も経たずに次の階段に行き当たった。
「わひゃあぁああああぁぁぁあぁ!」
飛び降りるみたいに――というか実際に階段を飛び降りたせいで、美人の悲鳴が妙に後を引きながら響き渡った。
「うるせぇ! 降りたらどっちだ!」
ティアに少し遅れて階段を降りきってもまだ悲鳴が続いていたので、怒鳴って黙らせる。美人はちょっと泣きそうな顔をしてトールを見てから、すぐに通路の向こうを指差した。
「真っ直ぐ行って、右、右、左、右、あとは真っ直ぐ! かなり階段まで近づいてるみたい! 移動しながら戦ってる……逃げて――わひゃぁっ!」
言葉の途中でティアが走り出した。舌を噛んだとしても回復魔法があるからまあいいか、とトールも背中を追う。さらに後ろをトンチキコートがついて来るが、もう怒鳴り声を上げていなかった。黙ってついて来る。
走る。走る。走る。
とてもではないがティアより速く走れない。それでも一般人の感覚からすれば冗談みたいな速度で、走った。
通話を切ってから何分経った?
五分はとっくに経っている。十分は経っていない? 魔獣に襲われて十分も持たせられるのか? だが、美人は方向を示して『近づいている』と言った。元の位置から移動しているのだろう。逃げながら戦っている?
「見つけた――!」
ティアが大声を張り、抱えていた美人をぽいっと放り投げた。
トールは滞空中の美人をさっと避けて走りながら、通路の先を見る。
体長二メートル半くらいの、バケモノ。
まるで岩で組み上げられた人間みたいなフォルムだが、肩や脚の形が違う。本当にヒトと魔獣を混ぜたような、暗い石色のバケモノ。
そして、そのバケモノに首を掴まれて宙吊りにされている――白澤香奈。




