第六十八話
現在の白澤香奈にとって、早坂透は『三年前に別れた元カレ』ということになる。これは単なる事実であり、その事実は今も香奈を少しだけ落ち込ませる。
高校二年の夏休み、香奈にとっては見知らぬ土地で『迷宮暴走』が起きた。それに早坂透は巻き込まれて……厳密に言えば早坂透だけが巻き込まれずに済んで、天涯孤独の身になった。
でも、それを知ったのは後からだ。
墓参りで父親の実家に行く、ということは教えてもらっていた。戻って来る予定の日、携帯端末に連絡を入れたけれど、返事がなかった。
それから数日経って、早坂透から連絡が来た。
――『迷宮暴走』に巻き込まれて家族全員死んだから、悪いけど彼氏彼女をやってる余裕がない。別れて欲しい――
今もそのメッセージはクラウドに残してあるし、わざわざ見るまでもなく脳裏に刻まれている。あのときの香奈はまだ十七歳で、家族を失って自立しなければならなくなった恋人に、なにをしてあげられるかなんて判らなかった。
なにかは、できたのかも知れない。
でも当時の香奈には判らなかったし、正直に言うなら今だって当時の自分がなにをすべきだったか判らない。
寄り添って慰める? 辛さや苦しさを分かち合う?
無理だ。十七歳の高校生には重すぎるし、早坂透はその重さを分け合ってくれるような人じゃなかった。
金銭的な援助だって無理だったし、恋人なのだからと香奈の実家に早坂透を住まわせるなんてことも無理だった。何故なら、あの日まではごく普通の高校生で、香奈たちはごく普通の彼氏彼女でしかなかったのだ。
――わかりました。本当に困ったときは、なにか手伝えるかも知れないから教えてください。今までありがとう――
結局はそんなメッセージを返して、一年くらい続いた恋人関係は終わりを告げた。その後、気になって早坂透の動向をそれとなく調べてみれば、いつの間にかスガイダンジョンの掃除屋を始めていた。
自分と同い年の男の子が――独りで、生きていくんだ。
そう思うと、胸の内側を掻きむしられるような焦燥感を覚えた。それからしばらく経って、何故か『掃除記録』なんてライブ配信を始めているのに気づいたが、とてもではないがコメントをするような気になれなかった。アカウントがバレるのでチャンネル登録すらできずにいた。
三年が経ち、白澤香奈は大学生になり、隣の市で一人暮らしをしながら、大学の探索者サークルに入って探索者の真似事をしていた。
中学の探索者実習では魔力親和性がそこそこ高いと教えられていたので、免許を取るのもかなりスムーズだった。サークルの先輩とノウミダンジョンに潜ってみれば、かなりの金額を稼ぐことができた。もちろん、平凡な大学生にしては、だが。
たぶん……早坂透の影響だろうな、という自覚があった。
大学サークルのお遊びみたいな探索者であっても、魔物を倒せば『迷宮暴走』の可能性をわずかに減らすことができる。ダンジョンで魔物を倒して迷宮支所で魔核を換金してお金をもらうたび、ほんのわずかな自己満足が得られる。
十七歳のとき、なにもできずに別れを受け入れるしかなかった自分を、ほんのちょっとずつ許せるような……そういう自己満足が、香奈には必要だったのだ。
そうして、あるとき早坂透は『現場ニキ』として世界中に知られることになり、S市で起きた『迷宮暴走』を鎮圧した。
◇◇◇
その早坂透が――日曜日のお父さんみたいに気の抜けた雰囲気で、デパートのベンチに座っている。
香奈は最初、見間違いかと思った。場所が女性向け衣類店の前だったというのもあるし、あの有名な『トールニキ』がこんな場所でぼけっとしているのも意味が判らない。それに、こうして偶然に再会するなんて、香奈は全く期待していなかった。
「……早坂くん?」
「あー……白澤……?」
言葉を紡ぐ前にちょっと迷う癖が変わっていない。でも、香奈を見る表情は記憶にないものだった。それはそうだろう。三年も会っていなかったのだ。
十七歳から、二十歳。
高校生から、大学生だ。
その割には早坂の外見はあまり変わっていないが……いや、ちょっと背が高くなって、身体つきもがっしりしただろうか。ベンチに座っているので判然としないが。
「わっ、えっと……すごい偶然。こんなところでどうしたの?」
我ながらぎこちないな、と判る笑みを浮かべて首を傾げてみる。
早坂はそんな香奈にわずかだけ唇の端を曲げ、小さく肩を竦めた。嬉しかったこと、つまらなかったこと、友達がああしたこうした……香奈がそんな話をしているとき、いつも早坂はこんな表情をしていた。
「あー……まあ、買い物。世話になってる人とかに、奢り」
「買い物って……座ってるように見えるけど?」
「女の買い物につき添うほど徳を積んでねーからな」
皮肉っぽく言って、へっ、と息を吐く。このわざとらしい毒を含んだ言い方も、ひどく懐かしかった。こういう態度が誰に対してもあまり変わらないせいで、人から好印象を持たれ難いのだけれど……当時の香奈は、それでよかった。
だって、深く知ったら早坂くんのことを好きになる女の子が出てくる。
そういう気持ちも、今となってはセピア色だ。
強く感じるのは――懐かしさと、切なさ。
もう取り返せない日々と、気持ち。
「あー、っと、それじゃあ待ってるのは女の人? 時間かかるようだったら、隣に座ってもいいかな?」
するりとそんな言葉を口にできたのは、三年も経っているからだろう。三年前だったらきっと逃げ出していた。
「俺のベンチじゃねぇんだから、好きに座ればいいだろ」
「そんなこと言って、嫌だなって思ったらどうするの?」
「嫌なやつが隣に座ってきたら席を立って離れる」
「『トールニキ』になっても、相変わらずなんだね」
苦笑しながら隣に腰を下ろす。早坂は苦虫を噛みつぶしたような顔をして一度天井を仰ぎ、知ってんのかよ、と呟いた。
「知らないわけないじゃない。同級生のメッセージグループとか、すっごい話題になってたよ。私、いろいろ訊かれたもん」
「……なんて答えたんだ?」
「知らないって答えたよ。だって、本当に知らなかったから」
「そりゃそうか」
軽く嘆息する早坂の仕草が、本当に懐かしい。皮肉や文句を言うとき以外は言葉数が少ないのも、そのくせ妙に優しいのも、全然変わっていない。
そうだ、このわざとらしくない静かな優しさを、好きになったのだ。
きっと駄目だろうなと思いながら告白したらOKされたのは意外だったけれど、いざ恋人になってみればずっと優しかったのは、全然意外じゃなかった。
「懐かしいな。こうして早坂くんの隣に座ってお話するの」
ほとんど無意識でそんなことを口走ってしまう。
案の定、早坂は気まずそうに顔を逸らし、以前と同じように「あー……」と言葉を選んでから、ぽつりと呟いた。
「まあ、なんだ。悪かった。余裕がなくて、気遣いできなかった」
別れ話のことだろう。
三年経ってから偶然出会えたのは、よかったのかも知れない。仕方がないとは最初から思っていたけれど、それでもしっかり傷ついていたのだ。早坂にというよりは、目の前の理不尽な現実に。
どうして早坂くんが、そんな目に遭わなくちゃいけないのか。
どうしてそんな理不尽が起きて、自分たちの幸せが損なわれなくちゃいけないのだろう。ただ普通に生きていただけなのに。
「ううん。こっちこそ、早坂くんにしてあげられること、なにもなくて……恋人だったのにね。支えてあげられればよかったんだけど」
「いや、高校生にはハードな話だろ。無理なもんは無理だ」
「他人事みたいに言わないでよ」
さすがに苦笑してしまう。
早坂はそんな香奈に肩を竦めてから、少し迷うようにして、言った。
「白澤は、今はなにしてんだ?」
この問いは、かなり嬉しかった。早坂は間を繋ぐためにそういう質問をする人ではない。多少なりとも気になったから訊いたのだ。
「デパートで買い物するのに、待ち合わせ……って話じゃないよね。大学生やってるよ。隣の市の私立大学。今、一人暮らし中」
「ふぅん。大学って、楽しいのか?」
「どうだろう。病みつきになるほどじゃないかな。そういえば私、探索者サークルに入ってるんだよ。ノウミダンジョンとか、七階まで潜ったことがあるよ」
「へぇ。そりゃ意外だな。大学生のサークルって、酒呑んで酔っ払った女をお持ち帰りしてるイメージしかなかった」
「わぁ、すごい偏見だ」
くすくすと笑ってみせる。こうしてぽつぽつと話をするのがすごく好きだったな、と思い出す。胸の奥が少しだけ痛いけれど、少しだけだ。
「あー……探索者やってるってことは、上で買い物すんの?」
上、というのは探索者グッズの売り場のことだ。ディスプレイされた探索者装備を実際に見られる場所は、あまり多くない。ネット通販で買うことの方が多いくらいだが、衣服や靴なんかは試着したいのが本音である。
「うん。サークルの人と待ち合わせ。ほら、今、S市の迷宮って封鎖されてるから、一般探索者は入れないんだ。それで装備の新調しておこっか、みたいな。なのに一人は返信来ないし、一人はなんか合流できないんだけど……」
「合流できない?」
「デパートに着いたって連絡が来て、こっちの居場所を教えたんだけど……もう合流できてていいと思うんだよね」
「あいつじゃないのか?」
ふっ、と早坂は小さく顎を動かして右手方向を示す。アイドル探索者の広告が貼ってある柱に、さっと身を潜めた人物がいた。
香奈と同じくらい身体が細く、香奈より少し背が高い。さらさらの髪を中途半端に伸ばした美人……の、男の子。
「たぶん正解。なんで隠れたんだろ……あー、そうか。『トールニキ』と一緒にいるからだ。早坂くん、有名人だもんね」
くすくすと笑ってしまう。それから香奈は柱の陰からこちらを覗うサークルの後輩、渡部結城に手を振って、振った手を『ちょっと待ってね』の意味で動かした。
「それじゃ、行くね。事務員の人とか、聖剣の人とか、あと隣人の猫の人とか、そろそろ買い物終わるんじゃない?」
「……昨日の配信も見てるのかよ」
「一方的に振られたからね。そりゃあ、気になるよ。でも、未練たらしく縋りついたりはしないから、安心して」
「……白澤はそういうタイプじゃねーだろ」
「どうかな? すごくすごく人を好きになったの、一回だけだからね」
ちょっと意地悪かな、と思いながらそう言って、立ち上がる。
三年前の自分が、まだ隣にいたいと叫んでいるような気がしたけれど、今の香奈はそんな自分を引っ張って、立ち上がることができた。
三年後なのだ。
三年も経っているのだ。
そりゃあ、ちょっとは強くなる。ちょっとだけは。
「あー……白澤」
一歩踏み出した香奈に、少し迷うようにしてから早坂が声をかける。半分だけ振り返って表情を見てみれば、懐かしいのと知らないのが半々の顔をしていた。
三年経ったのだ。そして三年前には人生を変えるような出来事があった。なにも変わっていないわけがない。
「……なに?」
「探索者やってんなら、たぶん力になれることがある……と思う。俺の連絡先は変わってないから、本当に困ったときなら、連絡してくれ」
意外な言葉だった。すごく……すごく意外だった。
目を丸くする香奈に、早坂は苦笑交じりに肩を竦める。
「なんだよ。そこまで薄情でもないぞ、俺は」
「だって、子供と恋人には優しいけど、知り合いにはちょっと冷たいでしょ」
「本当に困ったとき以外は連絡してくんなっつーのは、そこそこ冷たいだろ」
「そうかも。でも……意外かな。そういうフォローとか、逆にしないものかと思ってた。早坂くん、ちょっと丸くなった?」
三年前の香奈だったらこんなことは言わなかっただろうけれど、ごく普通に、思ったことを言った。
早坂はちょっとだけ驚いたふうに目を開けてから、意地悪そうに口元を曲げて――三年前みたいな気安さで、言う。
「処女もらったからな。こうしてたまたま再会したし、本当に困ったときに連絡してくれりゃ、できる範囲で助けるさ」
「……っ!」
ぼっ、と顔が赤くなるのを香奈は自覚した。そういえば、こういうことも言う人だった。急に変な角度から変なことを言い出すのも好きだった。香奈みたいに普通の感性では出せないものを出してくる……いや、これは『恋は盲目』とか『あばたもえくぼ』とかいうやつかも知れない。
今も嫌じゃないのは、さすがに笑ってしまうけれど。
「そんなこというなら、私も童貞もらったし、お互い様だよ。私も連絡先変わってないから、困ったときはできる範囲で手を貸すよ。それじゃあね、早坂くん」
言えた。
ようやく言えた。
それじゃあね、と。
最後のやりとりはともかくとして――香奈はあんなふうじゃなく、こんなふうに別れたかったのだ。自分でも判らなかったけれど、たぶんそれが未練や後悔だった。
それが、ようやく解消できた気がした。
……まだ、ちょっとは引きずるだろうけれど。




