第五十八話
「こっちから促しちゃったようで悪いけど、もしダメだったからって、やっぱナシってのはナシだよ、河合ちゃん」
通話を終え、携帯端末に送られて来た住所を確認しながら溜息を吐いている河合咲穂に声をかけたのは、佐渡山浩二だった。
ビルを出て駐車場で早坂透と通話していたのだが、佐渡山も駐車場まで戻って来たということは、用事は済んだのだろう。
「それは……まあ、はい。佐渡山課長は、空港に向かうんですよね……?」
「いや、一旦家帰って寝るけどね。出迎えに行くっつっても、約束の時間なんか守らない連中ばっかりだよ。みんなして自分の仕事がこの世で最も重要だと思ってるんだから。嫌だねぇ、他人を尊重できないってのは」
言いながら、スーツの内ポケットから煙草を取り出し、口に咥えようとしたところで、佐渡山は咲穂をちょっとだけ見てから煙草を戻した。
「……別に、吸ってもいいですけど」
「いいさ。車乗ってから吸うことにする。早坂くんとは連絡取れたんだろ?」
「ええ、はい。本物の河合咲穂かって疑われましたけど」
「そりゃ、以前がひどすぎたからねぇ」
さらりと言って苦笑を見せる佐渡山に、河合は同じような苦笑を返してやりたかったが、できなかった。申し訳なさと居たたまれなさが強すぎて、冗談にできない。
「えっと……その、佐渡山課長。これまで、お世話になりました。たぶん、迷惑ばかりかけていたと思います」
「そうでもないさ。スガイダンジョンの常駐職員、あと二人いたじゃない? ろくに顔出してなかったでしょ。係長なんか一年以上はスガイダンジョンの支所に来てないって話だったそうだし。それに、あれこれ言い出すと、部下のミスは上司の責任ってことになるからなぁ。俺のせいだよ」
ははは、と、また苦笑する。
返す言葉は――胸中の何処を探しても、見当たらなかった。
◇◇◇
駐車場で佐渡山と別れ、適当に歩いてタクシーを拾い、早坂透の自宅まで。
県庁近くからだと車で四十分ほどかかったので、料金は咲穂の財布的になかなか厳しい感じになったが、まあ仕方がない。配信を見る以外にあまり趣味がないので、年齢の割に貯金はある方だ。
といっても、その貯金は……たぶん、減る一方になるのだろうけれど。
早坂透の自宅であるアパートは、見た目からしてかなり年季が入っていて、あと五年もすれば耐用年数が尽きるのではないかという物件だった。二階建てで、建物の外側に鉄の階段が取りつけられていて、各戸の扉が外から見えている。
咲穂はひとまず周囲をぐるりと見回し、携帯端末の地図情報と合わせて、ここが目的地で間違いないことを確認してから、階段を上がって早坂透の自宅のインターフォンを鳴らした。壁が薄いのか、室内でピンポーン、と鳴っているのが判る。
「……やっぱり、まだ帰ってない……か」
しばらく待っても出て来なかったので、そういうことなのだろう。そういえば真っ直ぐ来てしまったので手土産のひとつも持って来ていない。けれどこういうとき、どういうものを持ってくるべきかなんて咲穂は知らなかった。
近くにカフェなんかがあればそこで時間を潰すのだが、徒歩十分くらいの位置にコンビニがある程度で、ちょっと不便な位置にある郊外の住宅地だ。昔は商店街なんかがあったのかも知れないが、今はたぶん、ない。
はぁ、と溜息を吐いたところで、雨が降り出したのに気づく。
傘も持っていないので、こうなると移動するわけにもいかなくなった。アパートの玄関先は、なんというか軒先みたいになっているので、風が吹かない限り雨は当たらない。咲穂は覚悟を決めて、早坂透の自宅前に座り込むことにした。
電話をしたときには、もう三十分もすればダンジョンから出て来るようなタイミングだった――と思う。たぶん。
スガイダンジョンからこのアパートまで、車で十五分。県庁近くの笹森議員を監禁していたビルからここまではタクシーで四十分かかった。時間的には、そんなに待たなくてもいいはずだ。
ぽつぽつと雨粒が落ちる音を聴きながら、咲穂は腹の下あたりにじんわりとした重さが居座っているのを感じた。生理だとかの体調不良じゃない。この鈍い重みは、いつか何処かで感じたことがあるような……。
しばらく考えて、思い出した。
中学生の頃、放課後の学校に残って友人グループでふざけていて、備品を壊したことがあった。調子に乗りやすい男子が別の男子の肩をパンチしていて、バカだなぁ、なんて笑っていた。そうしたらパンチを受けた方の男子がわざと吹っ飛んでみせて、やりすぎて、ロッカーにぶつかった。
ロッカーの上に置かれていたプロジェクターが落ちて、壊れた。
楽しく笑っていた空気が一瞬で凍りつき、数秒後には責任の押し付け合いが始まった。結局、壊れたプロジェクターをロッカーの上に戻して、咲穂たちは誰に報告することもなく逃げ出した。あのくらいどうってことない、なんて肩をパンチしていた男子が強がっていて、どういう話の流れかは忘れたけれど、あんな場所に置いてある方が悪い、ということで仲間内では結論が出た。
それから三日後に事態が露見し、男子二人が怒られた。咲穂たちも一緒にいたのに、特に怒られることはなかった。
でも、その三日間――いや、その後もしばらくは、なんだか腹のあたりが鈍く重いような、嫌な気分だった。
「あぁ……あれ、良心の呵責ってやつだ」
早坂透に冤罪をかけていたときにはまるで感じていなかったのに。しかし、よくよく思い出せば、あの後だって何回かは『良心の呵責』を感じるような出来事があった気がする。いつからか――いつからかは本当に判らないが、いつの間にか、そういう痛みを、咲穂は忘れ去って生きていた。
「最低のクズだ……」
一般大衆のために人生を捧げて頑張っている『アンセム』を見て、その輝きに目を奪われて、彼女たちを応援していた女が……最低のクズだった。
笑えない。
だって、咲穂は知らずに「素敵だな」と思っていたモノの価値を貶めていたのだ。こんな最低な女に応援されていただなんて、斉藤恵美たちに知られなくて、本当によかった。でも全然よくない。この最低な女は、良心の呵責なんて全く感じずに迷惑をかけた男の家の前で、膝を抱えて半泣きになっているのだ。
そんな資格なんてない。
なのに……こうしようと思っていて、それをやめる気がない。
一体いつから私はこうなのだろう?
なにか特別な不幸があったわけじゃない。コネ就職した市役所で、コネ元だった伯父の汚職がバレてスガイダンジョンの迷宮支所へ左遷された。けれど、職を失ったわけじゃないし給料だって下がったわけじゃない。
そもそも、不満があったなら辞めればよかったのだ。
ただ時間を浪費して、早坂透の足を地味に引っ張り続けていた。
おなかが痛い。
その痛みも卑怯の証みたいな気がして、どんどん気が滅入ってくる。膝を抱えて、頭を下げて、雨垂れの音を聴きながら――ちょっと前までの私なら、こういう人を見たら「死んだ方がいい」なんて思っていただろうな、なんて考える。
生きてる価値ないよ。
死んだ方がいい。
でも死にたくない。今なら判る。自分は死んだ方がいいなんて、あの『大蛇』を見た後では、気軽に言えなくなっている。渦中では、そこまで思わなかった。でも生き延びてしまった今は、思ってしまうのだ。
死にたくない。やっぱり死にたくない。せっかく生き延びたのに。奇跡みたいに生きられたのに。助けてくれたのに。
「また違う女だ……!」
不意に、声がした。
声の調子が幼くて、雨の中なのに子供が遊んでいるのかな、なんて思いながら咲穂は顔を上げる。声の主はすぐ目の前にいた。
猫獣人の、母子だ。
顔の横ではなく頭の上に獣耳があり、尻の少し上くらいから尻尾が伸びている。獣人の服には尻尾用の穴が空いていて、犬獣人の尻尾の方が穴が大きいからオシャレに困るんだよね、というような話を高校の頃に犬獣人のクラスメイトから聞いたことがあった。尻尾のつけ根を隠すのに上着の裾が長い服を選びがち、とか。
子供の方は、たぶん小学校低学年くらい。中途半端に伸びた髪がぼさぼさで、けれど顔のつくりが整っているせいで、そういう髪型というふうに見えた。
その隣に立って子供の手を握っている母親の方は――ギャル出身の水商売、という感じがした。かなり失礼な偏見だが、そう見えたのだから仕方ない。
なにしろホットパンツにチューブトップ、腹の真ん中までしか届かない裾の上着を着ていて、身体の線にはメリハリがついている。ウェーブのかかった髪は毛先だけ明るく脱色されており、手首にはブレスレット、足元はアンクルストラップのサンダルで、猫獣人らしい尖った爪にはラメ入りのペディキュアが塗られている。
「あのー、もしかして、そこの家のやつと知り合い? アタシら、隣に住んでるんだけど、なんか用事なの?」
母親の方が言った。
不審とか怪訝とか警戒とか、そういう他意のない、ただの問い。
「あ……はい。すみません。いつ戻って来るか判らないということで、家の前で待たせてもらってました。えっと……怪しい、ですよね……?」
「家主の名前、言える?」
やはり他意のない問い。娘の方はむっとした顔で咲穂を睨んでいたが、わずかに心配そうな気配もあった。たぶん、いい子なのだろう。
「早坂透さん、です」
「おっけー。そんじゃ、アタシん家で待ってなよ。あんた、あいつの女なの?」
「いえ! い、いいえ! そんなことは……!」
「あはは。そんな必死で否定しなくてもいーじゃん。トールはいいやつだよ。判り難いけどさ。ところであいつの女じゃなかったら、どういう知り合い?」
当たり前みたいに隣家の――というか、彼女の家のドアを開けながら、そんなことを言う。咲穂が家に入ってくるのは当たり前、みたいな態度に驚きながら、さすがに座り込んだままなのは失礼だと立ち上がる。
「あの……早坂さんの、この間までの勤務先の……スガイダンジョンの支所で受付をしていました。今日は早坂さんに話がありまして」
「いや、アタシ面接官じゃないから。とりあえず上がんなよ。そんなところで座り込んでたらそのうち濡れるし。ケツも冷えるじゃん」
にっかりと少年みたいな笑い方をする。
ほんのわずかに救われたような気持ちになって――その救いの分だけ、おなかの痛みは強くなった。この人も、私がどういう人間か知ったなら、軽蔑するだろう。こういう親切な人に軽蔑されても仕方のない人間なのだ、私は。
「ずっとそこに座ってたら、トールが気にする。入って」
娘の方が言って、咲穂の手をきゅっと掴んできた。
小さくて、温かな手だった。
◇◇◇
猫獣人の母はシェンナ・シャイリィ・園山。
娘の方はミカ・シャイリィ・園山。
シェンナの方は世界融合後に生まれ、その後の『連鎖迷宮暴走』の時代に幼年期を過ごし、両親を亡くして、あれやこれやと悪い人に騙され、その悪い人が別の悪者の餌にされ、あちらこちらへ流されるうちにミカを妊娠出産し、今ではいわゆるキャバクラのキャストとして働いている、という。
アパートは1LDKで、外観から想像できるよりは古くなかった。キッチンはやはり年代を感じさせたが、最近のアパートよりもキッチンスペース自体は広く取られていて、換気扇が回る音がちょっと大きい。
「あんた、あれでしょ。トールに冤罪おっかぶせようとしたって女でしょ? スガイダンジョン支所の受付って、聞いたことあるわ」
キッチンに立って今日の夕飯を作りながら、シェンナがあっけらかんとした口調でそんなことを言った。リビングの小さなテーブルの傍で床に腰を下ろして小さくなっていた咲穂は、びくりと肩を振るわせるしかなかった。
「トールの敵?」
ミカがじとりと咲穂を睨んで言う。
「いえ……今は、違います。そもそも私なんて、早坂さんの敵にもなってませんでした。ただの迷惑な、邪魔な女です……」
「むぅ?」
あまりにも咲穂が落ち込んでいるからか、ミカは困ったように首を傾げてしまった。悪人であったとしても、弱っている相手を叩くのに躊躇を覚えるというのは、善人の証だ。きっとシェンナがきちんとした母親なのだろう。
……でも、考えてみれば、咲穂の母は悪人ではなかったと思う。まともな母親だし、父にしたって普通の、善良な父親だ。
「はっはーん。あいつが『現場ニキ』になってチョー活躍したから、立場悪くなったって感じ? 謝りに来たんだ?」
けらけら笑うが、そこに含まれている嫌味が少なすぎる。
ちょっとした弄り、という感じで、軽蔑がない……ように咲穂は感じた。
「謝りに、とは少し違うかも知れません。謝罪するつもりはもちろんあります。謝りたいとも思ってます。でも、早坂さんは、そういうのは欲しがってないかと……」
「まぁねぇ。謝罪するってこと自体には、トールは興味ないんじゃない? 相手に謝らせることに価値を感じてないっていうかさ。ミカがトールのコップ割ったときも『悪いと思ってんならそれでいい』とか言ってたしね」
「トール、下手くそだけど優しい」
むふぅ、と自慢するように胸を張るミカは、ものすごく可愛かった。
しかし咲穂が知っている早坂透は幼女と仲良くしているイメージなんて全くないのだが……隣家の住人なのは判るが、一体どういう関係なのだろう。
「えっと……早坂さんとは、仲が良いのですよね……?」
「あーね。アタシの出勤のとき、ちょくちょくミカを預けてんの。ミカは初見のときからトールを気に入ってたし、アタシもトールのことは信用してるしね。持ちつ持たれつっていうには、こっちがもたれかかってる感じだわね。身体で払ってやってもいいのに、あいつ、アタシの身体には興味ねーのよ」
にゃはは、と猫獣人らしく――たぶん意図的に――笑うシェンナ。咲穂としては笑っていいのかどうか、ちょっとよく判らなかった。
「お母さん、トールに手ぇ出しちゃ、ダメ」
「出さねーっての。アタシは友達とはヤんねーのよ」
「でも、トール……最近、忙しい。ティアがずっとくっついてる。昨日は変なエルフが来てた。今日は変なお嬢サマが来てた。声、大きかった。あと、咲穂も来た」
女ばっかり。
しゅん、と気落ちするミカにかける言葉の持ち合わせがなかった。
「あいつ、女難の相でも出てんじゃね?」
「じょなん?」
「女で苦労するやつってこと」
「お母さんは、オトコ難?」
「……ミカ。本当のことを言うと人は傷つくときもある」
「でもお母さんのオトコ難のおかげで、わたしが生まれた。わたし、お母さんに会えた。オトコ難でよかったかも」
「んふふふふ! ミカ、本当のことを言うと人は喜ぶこともあるよ!」
「わたし、お母さん喜ばせるの、好き」
「アタシもミカが大好きだよぉ!」
「酔っ払って酒臭いお母さんはあんまり好きじゃない」
「それはごめんて」
咲穂が黙っていても雰囲気は暗くならず、シェンナとミカは楽しそうにぽつぽつと会話を交わし、そのうちに懐かしい匂いが漂ってきた。
咲穂も自炊はするが、もうずっと自分では作っていなかった……カレーの匂い。
強烈な郷愁が胸に溢れて、ぐっと堪えなければ泣いていたかも知れない。
子供の頃、確かに両親に愛されていた。お母さんとお父さんにとっては世界で一番かわいい女の子だった。それが……今では、最低のクズだなんて……。
どうしてこんな人間になってしまったのだろう。
何処かでなにかを間違ったというより、たぶん、小さく小さく、何度も何度も間違え続けたのだろうと思う。
誰のせいかといえば、自分のせいだし、誤解を恐れずに言うなら世の中のせいだと――これは本音で思う。
正しいこと、善いことに、咲穂はまるで興味がなかった。アンセムのように善行を重ねる人たちには眩しさを覚えていたけれど、それは彼女たちが強いからだと、他人事のように考えていた。
だって、正しいことをした人は、損ばかりしている。
善いことをしようとすれば、嫌味ったらしい誰かが邪魔してくる。そんなのダサい。ダルい。やらなくてもいいじゃん。みんなこうしてる。むしろみんなの邪魔になる。学校でもそうだった。社会でもそうだった。ズルくて汚いやつばかりが勝ち馬に乗って、真面目で勤勉な善人は、いつも貧乏くじだ。
いつもそうだった。何処でだってそうだった。ちゃんとしてる人は、世界から少しずつ傷つけられているように見えた。SNSで他人に善を強いる人たちは善行を積んでいるようには見えなかったし、偉そうに他人を批判する人たちは自分で貧乏くじを引こうなんて素振りも見せなかった。
そんなの間違っている。
でも、世界はそんな形をしている。
だったら――私だって、間違っていていい。
いいわけがなかった。
きっと、それだけのことなのだ。
この世の『善きモノ』全てに謝りたい気持ちと、自分と同じ『最低のクズ』に中指を立てたい気持ちが胸の中で渦を巻いて、笑ってしまいそうだった。
笑えなかったけれど。




