第五十九話
“???”
“一日二回行動で驚いたんだが、なんぞこれ?”
“こんニキ~”
“SNSの配信告知から来たんだが”
“絵面が……”
“トールニキは俺らを困惑させるのが趣味なんか?”
“『ちょっと相談がある』とかいう告知から、この絵面は……”
“猫獣人の幼女と猫獣人のお姉さんと人間のお姉さんがおるな”
“ティアたんかわいい”
“ちょっと待て。幼女がいるぞ”
“俺たちはトールニキを通報した方がええんか?”
“すまんトールニキ。説明してくれ”
“なんで俺らはカレー食ってるニキ一家を見せられてるんだ?”
“トールニキ、家族一人も生き残ってないんじゃ?”
配信のチャット欄は疑問符の嵐で、そりゃあそうだろうと河合咲穂はコメント閲覧のために配信を流している自分の携帯端末を見ながら思った。
普通、雑談配信というのは自室で一人で、なんというか救われていなきゃいけないわけではないが、視聴者多数と配信者一人があれこれ話すものだ。
それが早坂透の自宅で、園山家のテーブルまで持って来て、全員の前にカレーの皿が置かれており、まだ誰も手をつけていない。
家主の早坂透。彼に取り憑いている聖剣霊ティア。猫獣人の母、シェンナ・シャイリィ・園山。猫獣人の娘、ミカ・シャイリィ・園山。そして河合咲穂。
「あははは! めっちゃ視聴者いる! トール、おまえマジでバズってんじゃん!」
けらけらと笑い出すシェンナだったが、この配信の言い出しっぺにしてはあまりにも他人事だった。
「それは俺もビビってんすよ。未だに実感ねーし。っていうか、配信始まってるな。あーっと……俺にも上手く説明できないんだが、なんかこうなった。とりあえず飯食うから、おまえらもなんか食ってくれ」
“なんの説明にもなってなくて草”
“俺らは一体なにを見せられてるんだよw”
“晩飯はカレーとみた”
“ティアたん以外の新キャラは誰?”
“トールニキはなにを相談したいんだ?”
「悪い。ひとまず腹減ってるガキがいるから、飯食い始めるわ」
「……トール、食べてもいい?」
カレーの皿をじっと見続けていたミカが、透の発言に獣耳をぴくりと動かし、手に掴んでいるスプーンを持ち上げた。
「ああ、いいぞ。いただきます」
「いただきます。お母さんのカレー、好き」
「いっただきまーす。んー、チョー普通のカレー」
「ボクもいただきます。あっ、これスパイスの料理なんだ。へぇ。美味しいね!」
「……えっと……すみません、いただきます……」
正直言えばカレーを食べる気分ではなかったし食べている場合でもないのだが、流されて目の前にカレーを配置されてしまった以上、食べないのは失礼だ。携帯端末で確認すれば現在の視聴者数は一万八千人。配信開始直後でこれなのだから、まだまだ視聴者は増えるだろう。
そんな人数の前で、この後の話に緊張しながらカレーを食べるのは咲穂としては非常に難易度の高いタスクだったが、口に入れたカレーの懐かしい味に、ほんの一瞬だけ全てを忘れそうになった。
“普通に食い始めて草”
“腹減ってきた”
“飯テロ配信か?”
“家庭カレーもいいよな”
“謎の光景すぎるんだが、なんの相談に乗って欲しいんだよw”
「あー……説明が難しいんけど、まず、そうだな、状況からいくか。そっちの端の人が、河合咲穂さん。昨日までスガイダンジョンの迷宮支所で受付やってた。そっちの猫獣人のお姉さんは、あー……猫のねーさんでいいか。こっちの子供は、ねーさんの娘。二人は隣人。なんかカレーのお裾分けしてくれた」
「いや説明めっちゃ雑じゃん。どーも、視聴者サン、現場ニキの隣人のシェンナです。こっちは娘のミカ。シングルマザーの夜職ってやつで、トールにはアタシが仕事のとき、娘を預かってもらったりしてるのね。毎回じゃないけど。今日は休みで、ミカと二人で帰って来たらトールん家の前で座り込んでる河合ちゃんを見つけたから、とりあえずうちで待たせてやったのよ」
職業柄なのか、シェンナの話はとても滑らかだった。
説明が上手いとか理論立っているとか、そういう上手さとはちょっと違う。スムーズに話が耳に入ってくる、というタイプの話巧者だ。
“まだよく判らん”
“ちょいエロいチャンネーがニキの隣人なのは判った”
“トールニキ、死んだ顔でカレー食ってんじゃねぇよw”
「いや……俺もなんでこんなことになったのやら……園山さんが配信しようぜって言うから配信つけてみたけど……つーか、なんか、河合さんが話あるとかなんとか。とりあえず、カレーは美味いっす」
「お母さんのカレー、美味しい」
むふぅ、と胸を張るミカが死ぬほどかわいい。
それは視聴者も同様に感じたらしく、チャット欄が猫獣人の幼女を讃える流れになってしまって、もはや本題はそっちのけだ。
というか、そもそも本題に入れていない。
「別に普通のカレーだけどね。で、まあ、トールの視聴者さんに相談なんだけどさ、河合ちゃんの話、聞いてあげてくれない? たぶんトールだけで聞いたら、面倒くさがってテキトーに許しちゃうと思うから」
“許すとは?”
“いや、ちょっと待て。トールニキの掃除屋時代の受付だろ?”
“あ”
“冤罪女じゃね?”
“魔核の提出量が異常だからって不正を疑ったっていう?”
“報告握り潰し女でもあるな”
“カレー食ってんじゃん!”
“いや、まあ、出されりゃ食うか”
バレた、と感じて心の内側が怯えるのと、ようやく怒られるのだ、という奇妙な安心感を覚えるのが同時にあった。
咲穂は三分の一ほど食べ進めていたカレーを、それ以上食べるのはやめてスプーンを置き、グラスの水を一口飲んでから、テーブルの前に回ってカメラに近づいた。それから、きっちり正座して息を吸い、言う。
「早坂さんの視聴者のみなさん。ご紹介に与りました。河合咲穂です。みなさんの言うとおり、早坂さんに冤罪を着せようとしていた受付の女が、私です」
“なに開き直ってんだクソ女”
“毎日こつこつ掃除屋やってたトールニキの足引っ張っておいてカレー食ってんじゃねーよ。なにしに来たんだ?”
“待て待て。カレーの件は置いておけ。出されてんのに食わなくても失礼だからな。ってか、マジでなにしに来たんだ?”
“ニキがバズったからゴマすりに来た?”
“じゃあ冤罪女なのバラす意味なくね?”
「あー……なんか、園山さんが、視聴者にジャッジしてもらった方がいいんじゃね、とか言って。魔核の提出量がどうとか、報告握り潰されたとか、俺としてはもうどうでもいいんだけど。バズる前から配信して冤罪は晴らしてたし」
本当に死ぬほどどうでもよさそうに言いながら、早坂はカレーを食べ続けた。たまに隣に座っているミカの頬についているカレーをティッシュで拭ってやったりしているのが早坂透のイメージと離れすぎていて咲穂は混乱したが、些事だ。
「あの……その件の謝罪についても、もちろんあります。早坂さん、これまでの無礼の数々、本当に申し訳あり――」
「土下座するつもりだったら家から追い出す」
液体窒素みたいな声音で早坂が言った。するりと流れるように吐き出された声音が、全てを凍らせるほど冷えている。
心臓が痛くなる錯覚を感じるほどの怖気。
理屈ではなく――今、死んだ、と思った。
あの『大蛇』よりも、もっとずっとどうしようもない死の感覚。
が、早坂はすぐに「ちっ」と舌打ちをして、カレーのスプーンを咥えてからもごもごと口を動かし、スプーンから口を離して首を横に振った。
「……いや、悪い。今のはちょっとした八つ当たりだった。でも、他人に土下座させて嬉しいって趣味はねぇから、こっちのことを考えるつもりがあるなら、そういう土下座みたいなのはやめて欲しいっす」
「……はい。大変失礼しました。重ねてのお詫びになりますが、これまでの無礼、今回の不躾な訪問も、本当に申し訳ありません」
“……怖っ!”
“一瞬のガチギレ。俺でなかったら洩らしてたね”
“トイレ行っておいてよかった”
“まあ、現代社会で土下座なんて、容赦の強要みたいなもんだしな。まともな感性してたら相手に土下座させて気分がいいわけもないか”
「別に、さっきも言ったけど、もうどうでもいいすよ。河合さんは、あー……俺に許して欲しくて来たんすか?」
「いえ。許して欲しくはありません。電話口でも言いましたが、早坂さんにお話がありまして、こうしてお時間取っていただいた次第です」
「はぁ。んじゃ、どうぞ。飯食いながらでもいいすか?」
「もちろんです」
頷けば、早坂は本当にカレーを食べ進める作業に戻った。隣に座っているミカはそういう早坂の態度にはなにも思わないのか、普通にカレーを食べている。ティアの方は食べるのが速いのか既に皿は空になっており、興味深そうに咲穂を見ていて――この配信を提案したシェンナは、にまにま笑いながら早坂と咲穂を交互に眺めていた。
ふぅ、と息を吐き、言う。
「早坂透さん。私は、探索者として活動する早坂さんのお手伝いをさせていただきたいと思いました。話というのは、そのことです」
「……はい?」
本当に意味が判らなかったのか、早坂はきょとんと目を丸くして咲穂を見た。関西弁で喋る火星人が相撲を取っているのでも目撃したような顔だ。
「探索者としての早坂さんの、サポートをさせてください。今日は、そのお願いをしに来たんです。どうか私に早坂さんを手伝わせていただけないでしょうか」
「…………」
“クソ図々しくて草”
“手伝いってなに? ニキに冤罪かけるだけの簡単なお仕事?”
“そもそも、このクソ女はなんで冤罪かけたん?”
“底辺掃除屋だからって見下してたんじゃないのか”
“見るからにカースト上位って感じの顔してるしな”
“偏見の塊で草”
フリーズする早坂と、にわかに活気づくチャット欄。
そりゃあ、こんなことを言い出せば、こういうふうに言われるだろう。配信をしようとシェンナが提案したときから、こうなるだろうなとは思っていたが……実際に言われてみれば、目に入ってくる非難のひとつひとつが胸に刺さるようだった。
「あの、ちょっといい?」
おずおずと手を挙げたのは、ティア。そのあたりでミカがカレーを食べ終わったようで、空になった皿を手に持って台所に移動した。そのミカを追うようにしてシェンナも自然と配信画面からフェードアウトする。
「はい。もちろんです」
「手伝いって、なにをするつもり? あと、なんでそうしようと思ったの? ボクはあんまり知らないけど、トールのことは見下してて、ギルド……じゃないか。えーと、とにかく受付の仕事もやる気なかったんでしょ?」
「昨日のスガイダンジョンの『暴走』で死にかけたからです」
この咲穂の返答に、早坂がぴくりと眉を動かした。死ぬほどどうでもよさそうだった顔に、ほんのわずかな興味が芽生えるのが咲穂にも判った。
“死にかけた?”
“そういえばスガイダンジョンの迷宮支所はぶっ潰されてたんだっけ。冤罪クソ女が勤務してたのか”
“死にかけたからってなんで心入れ替えてニキの手伝いしようって話になるんだ?”
「自分語りになってしまいますが……構いませんか?」
「ああ、まあ。どうぞ。話してもらわなきゃ判んねーし」
“この女に時間使うのもったいなくね?”
“追い返して雑談でもしようず”
“あの後、お嬢とはどうなったん? また探索する?”
“ていうか、まだ今回の『迷宮暴走』に関して政府発表ないよな”
“そろそろ丸一日経つけど”
「あの……私、最低のクズなんです」
“おっと?”
“出たよ、『どうせ私が悪いんでしょ』ムーブ。マジでクソ女だな”
“いや待て。その手の女は自分をクズとは言わない”
“しゃーない。トールニキも話聞く体勢に入ってるし、まず聞こう”
“なに言おうが冤罪クソ女であることにはかわりないけどな”
視聴者のコメントが刺さる。
胸は痛いが、ここで胸が痛まないよりはずっといい。
「スガイダンジョンの迷宮支所での勤務は、正直言えば苦痛でした。係長なんて一年以上は寄りつきませんでしたし、同じくスガイダンジョンの担当をしてた受付も、私以外はほとんど出社してませんでした。私にほとんどの業務を押しつけて、市役所で適当に時間を潰してたと思います。実際どうしてたかは知りませんけれど」
咲穂は話した。
シェンナのように話巧者ではないが、それでも、ずっと頭の中で考えていたことを口から吐き出すことは、できた。左遷された迷宮支所での勤務。そんな中で早坂透が掃除屋としてやって来て、毎日毎日スガイダンジョンの清掃をこなしている。魔核の数を見ればどれだけの魔物を殺しているかなんてすぐに判る。本当に、D級探索者未満の掃除屋ではありえないほどの魔物を、早坂透は殺し続けていたのだ。
「あんなの、意味がないって思ってました。早坂さんがやらなくたって『暴走』の兆候が現れたら探索者を派遣して深部まで探索させればいいって……でも、違うんです。私は、私が無意味で無価値だっていうことから目を逸らしてただけなんです」
スガイダンジョンの『暴走』に巻き込まれ、目の前で『大蛇』が暴れ回り、佐渡山課長がいなければ確実に死んでいた。
いざ助かってみれば、この世になにひとつ『善きモノ』を残さなかった女が、ただこれまでと同じように存在しているだけ。
いざ生き残ってみれば、あのとき死んでしまっても仕方がないと諦観していた自分のことが、もうあまりにも遠すぎる。絶対に同じ場面になんて立ちたくない。死にたくない。生きていたい。生きていてよかった……この無価値な女が?
これまでと同じようには、生きていたくない。
死にかけたときに後悔すらろくに浮かばない人生なんて、嫌だ。
「私は――私がこの世に生きていてもいいって、ほんのちょっとでも胸を張りたいんです。死にたくないです。もう、あんな目に遭うのは嫌です。だけど……昨日までの私なら、私みたいなやつを見て『死ねばいい』って思っていたはずです。自分のことなんか棚に上げて、こんなクズは死ねばいい、って……」
いつの間にか咲穂は俯き、手に持っている携帯端末の画面を見つめていた。配信のチャット欄に流れるコメントの半分ほどは咲穂を罵倒するもの。もうこんなやつの話なんか聞かなくていい。だからどうした。過去は消えない。図々しいにもほどがある。早坂透に構わないでどっか別のところで罪滅ぼしでもすればいいのに。おまえの話になんか興味がない。今更謝ったって遅すぎる。
この中に、私と同じようなクズが、どれくらいいるのだろう?
きっとそんなには多くない。
でも――たぶん、ゼロじゃない。
そしてそのことは、咲穂を免罪したりはしないのだ。
顔を上げる。
早坂は、ひどく真剣な顔で咲穂を見ていた。
「早坂さん。図々しいお願いなのは承知しています。ですが、私は早坂さんの役に立てると思います。私がスガイダンジョンの支所で無意味に時間を潰していた間、早坂さんは自分にできることをしていました。今更ですけど……本当に、尊敬します。どうか、お手伝いさせてください」
土下座はせず、それでも頭を下げる。
勝手な言い分なのは重々承知している。視聴者の何人かはたぶん心の底から怒っている。今更、冤罪女が罪滅ぼしなんて都合がよすぎるじゃないか。おまえのことなんか見たくもないし興味もない。頼むから消えてくれ。邪魔すぎる。調子に乗るなクズ女。トールニキがバズったから頭下げてるだけじゃないか。
その通りだ。言い返す言葉もない。早坂透が、あのままスガイダンジョンで掃除屋を続けていたなら、あんなふうに『迷宮暴走』が起きたりしなければ、間違いなく河合咲穂はそのままの人間だった。死を前にして後悔が浮かばないような、空っぽの女のまま……たぶん、引き返せる年齢を過ぎていた。
もちろん、今更になってこんなことを言い出したって遅いかも知れない。とっくの昔に分水嶺は越えていて、なにをしようが胸を張って生きられる瞬間なんて来ないのかも知れない。一部の視聴者が言うように、何処かに消えて申し訳なさそうに生きるのが正解なのかも知れない。
だったら私はあなたたちの溜飲を下げるためだけにこれからの人生、クズの看板を立てて生きていかなければならないのか?
違う。
私をぶん殴る権利があるのは、早坂透だ。
あなたたちが好き勝手言う分には勝手だし、言われても仕方がないとは思う。
でも、だからってあなたたちのために生きるつもりはない。
「あー……河合さん。ようするに『迷宮暴走』を目の当たりにして、人生観が変わった、ってことでいいんだよな。これまでと同じようには生きられなくなった」
早坂の簡潔なまとめに、咲穂は頷いた。
実際その通りだ。それ以上でもそれ以下でもない。
早坂は水の入ったグラスにカレースプーンを突っ込んでから、小さく首を傾げた。
「それで、手伝いってのは、具体的になんなんすか? 自分なら役に立てると考えたからそう言い出したんだと思うんすけど、実際、河合さんは俺の探索者活動のなにを手伝うつもりなんすか?」
「事務手続き全般です」
という返答に、早坂は一瞬だけ呆けたような顔をしてから、小さく苦笑した。咲穂はドクンドクンと煩い胸を手で押さえながら、続ける。
「支所で受付をしていたときから思っていましたが、早坂さんは事務手続きがあまり好きではありませんよね。面倒くさいと思ってる。実際、面倒ですし、早坂透という存在に事務手続きみたいなことをさせて時間を奪うのは、よくないと思います」
この人は、力を持っていない頃から、ずっとずっと自分のやるべきことを定めて、それをやり続けていた。なにが彼をそうさせていたのかなんて咲穂には判らないけれど、無意味で無価値な河合咲穂が見下していた人は、日々ほんのわずかずつであっても、意味を重ねて生きてきたのだ。
きっと、誰にも認められていなかった。褒められることもなかった。咲穂がそうしていたように、見下されることばかりだっただろう。
そんな人が、力を得た。
きっとなにか――この世に『善いこと』を蒔いてくれる。本人は『善いこと』をするつもりなんかないだろう。やろうと考えたことを実行するだけだ。そういう意味では以前となにも変わっていないとさえ言える。
だるそうな態度で、口は悪くて、中卒の元底辺掃除屋が……咲穂の知っている限り、この世の誰よりも尊敬できる人だ。
そんな人の時間を、誰かが代行できるような手続きやなんかに使うべきではない。
“就職希望……ってこと?”
“騙されるなトールニキ。こういう女は反省しない”
“ていうか迷宮支所勤務の公務員だろ。手伝うって、本当に手伝うって意味か? 今後のトールニキの活躍を考えたら、片手間じゃ無理だろ”
“ようするにトールニキに乗っかって美味しい思いをしたいってことじゃね?”
「仕事は辞めてきました。佐渡山課長が退職届を受け取ってくれました。職場だったスガイダンジョンの迷宮支所は物理的になくなってますし、引き継ぎはありません。辞めないで公務員を続けるとしたら、市役所でなにか事務仕事を任されることになるでしょう。けど、たぶん私は徐々に追いやられて辞めさせられたと思います。なにより――もう、あの仕事に未練がありません」
早坂透を――いや、探索者トールを、見る。
これまで迷宮支所の受付で接していたトールは、いつもだるそうで、やる気がなさそうで、咲穂のことなど見てもいなかった。それは咲穂がトールのことをまともに見ていなかったからだ。
「……まだ訊いてなかったと思うんすけど」
少し考えるようにして、トールは言った。
ごくごく真面目に、ひどく静かに。
「例の『迷宮暴走』で死にかけたとき、それから、生き延びたとき。どういう心境の変化があったのか――教えてくれないっすか?」
何故だろう?
その問いを発したトールの声音が、少し優しく聞こえたような気がした。




