第五十七話
魔法鞄からビニール傘を二本取り出して一本をティアに渡してやりながら、そういえば傘を返してなかったな、とトールは気づいた。
もちろん九条礼子の執事、柏崎丈一郎はビニール傘なんて返してもらっても困るだけなのだろうが、そういう感覚の違いは、まだトールには上手く飲み込めない。
とりあえずビルを出て、ティアには町娘姿に戻ってもらってから適当に歩き出してみたものの、普段は用事のない場所なので土地勘が働かない。なんとなくあっちが県庁舎で……と考えれば漫然とした判断はつけられそうだったが、面倒だった。
――まあ、いいか。
そんな投げやりな気分で余所余所しい街をいいかげんに歩く。そのうち県道か、大きめの市道に行き当たるだろう。ぽつぽつと傘に雨粒が当たる音を聴きながらしばらく歩けば、もしかするとささくれ立った気分も落ち着くかも知れない。
「あっ」
と、トールの少し後ろを歩いていたティアが声を出した。理由はすぐに判った。道の先、曲がり角のあたりで傘を差していないスーツの男が立っていたからだ。
肌の色が違うので一瞬判らなかったが、どうやら人間に擬態している状態のルガルドのようだ。憮然とした顔をして軽く手を挙げてくるので、トールとしてはどう返したものか、やや困った。ティアの暴行でぼろ切れと化したスーツが新調されているのはツッコんでいいものか、それもよく判らない。
「隠形しながらおまえらが入ったビルの様子を窺ってたんだが、同族の気配……気配の残り香みたいなものがあった。たぶん、ギルゲイルが来てたな」
当たり前みたいに並んで歩き出したので、トールとしては溜息を吐いてからビニール傘を渡してやるしかなかった。三人いて、一人だけ傘を差していないのは絵面が悪い。仕方ないのでティアの傘をトールが受け取り、ティアを引き寄せて傘に入れてやる。小学生なら茶々を入れられるところだ。
「キミたちって、同族の気配には敏感なんだね。その気配を追ってギルゲイルを見つけるのは、無理だったの?」
「貴様も一目見て……というか見えてなかったか。あの『石檻』の中にいた俺の気配で、魔族だと察しただろう。魔力の感じが、人間と魔族では違う」
「うん。それで、ギルゲイルは?」
「貴様はギルゲイルを知っているような口振りだったが、それなら判るはずだ。追跡を振り切ろうとしたときのやつを追うのは不可能だ」
「ほんっと、魔族って面倒くさいよね」
当人に向かって思いっきり溜息を吐くティアだったが、トールとしては魔族とかいう種族に対するわだかまりはないので、共感はできなかった。
「……聖剣ライトブリンガーに取り憑いている、以前の使い手とかいう話だったな。貴様、本当にかつての魔王を殺したのか?」
「かつての魔王、か。その言い方だと、ルガルドは魔王が死んでから生まれた魔族だね。こっちの世界で生まれた……ってわけでもないんでしょ?」
「ああ、そうだ。といっても、こちらに来た魔族の中では若手だがな」
ごく普通の調子で頷くルガルド。よくもまあ自分を一方的にボコした相手と静かにお喋りできるよな、とトールは呆れと感心が半々の気分だった。
しかし、それはそれとして――どうやら『魔族』という種族も、例によって前世紀末に地球へやって来たらしい。自力でこちらにやって来たとかではなく、獣人やエルフやドワーフなんかと同じように『世界融合』に巻き込まれたということだ。
その上で――トールはもちろん、おそらくは大抵のやつが『魔族』なんて亜人のことを知らないはずだ。今日の今日まで聞いたこともなかった。
つまり『世界融合』によって魔族にとっては異世界へやって来てから、ほとんど即座に隠れたということだ。
傘を差してトールとティアの近くを歩いているルガルドは、スーツを着た青年にしか見えない。肌の色は日本人のそれで、顔の造形はやや彫りが深いが、それでも外国人だと声を大にするほどではない。元の薄紫のときとは、明確に雰囲気が違うので、周囲に溶け込むような擬態に慣れている……のかも知れない。
「おまえら、元の世界でも隠れて生きてたのか?」
問いに、ルガルドはやや驚いたように眉を上げる。
「トールだったよな。どうしてそう思う?」
「魔族なんて今日まで聞いたこともなかった。ってことは、他の異世界人……獣人とかドワーフとかエルフとかも、こっちの世界で魔族には会ってないってことになる。少なくとも、一般人は。だけど、この世界で誰に知られることもない場所なんて、ほとんどないはずだろ。どっかの無人島にたまたま現れた、とかでもなけりゃ、ドワーフとか獣人みたいに、こっちの人間に見つかって、社会と関わることになる」
だから魔族たちは見知らぬはずのこちらの世界で、魔族であることを隠してこちらの世界の人間と接触したのではないか。そのようにして他人と接することが、彼らにとっては当たり前だったのではないか。
そしておそらくは、しかるべき時と相手を選んで自らの情報を開示した。
「かったるそうな顔してるくせに、頭は働き者みたいだな」
「おまえは頭脳派イケメンみてーな見た目のくせして、ちょっとガキくさいよな」
「ふん……。仲間にも言われるよ。敬語で話せと指示されてる。神楽坂千鶴にも最初は敬語で話してやったが、すぐ違和感を覚えられた。あの小娘、妙に勘がよかったな。だが、あの程度の実力であの勘働きだと、早死にするぞ」
「知るか。素敵な仲間とクソみてーな上司がいるだろ」
死ねばいいとは思わないが、知らない場所であのサムライポニーテールが死んだと聞かされても、ちょっと気分が悪くなるだけだ。いや、まあ、ちょっとで済むかどうかはトールとしても自信はないが。
ルガルドはそんなトールになにを言うでもなく、ぴゅうと口笛を吹いて、持っている傘をくるくる回した。世界融合時点で自我がはっきりしていたのならトールよりもずっと歳上のはずなのに、なんだか同い年くらいに感じてしまう。
「それより、おまえ、なにしに来たんだよ。俺の隣にはおまえを情け容赦なくボコボコにした聖剣使いがいるんだぜ」
「そりゃあ、まあ、そうだがな。しかしあのシロクロ女が俺の言を保証しただろう。あの女、真贋判定の『異能力』でも持ってるんだろ?」
「あー……人類の敵じゃない、ってやつか」
「それに俺の怪我は完璧に治してくれたしな」
無慈悲かつ唐突に暴行された件に関して、本当にわだかまりがなさそうだった。割と根に持つタイプのトールとしてはよく判らない感性だが、根に持った方がいいとアドバイスするつもりはなかった。根に持たない方がいいに決まっている。
「トール。おまえは無所属で自由に動くんだろ?」
「……あぁ?」
「神楽坂千鶴の性格は悪くねぇが、あの女のクランは迷宮庁の管轄にあるからな。迷宮庁は信用できん。じゃあ他に信用できるのは何処かって話になるが、これがマジでない。俺たちを匿ってるやつらですら、もしかするとギルゲイルの手引きをしてるかも知れん。だから強くてフリーなおまえと知り合っておこうと思った」
「強いのはこっちの聖剣女だろ」
相合い傘になっているせいでトールに寄り添うほど近くを歩いているティアが、妙な顔をして首を傾げた。聖剣は両手で抱きしめるようにして持っているが、その気になればコンマ一秒でルガルドの首を刎ねることができる……と思う。
「確かに、おまえの女は強い。だが、俺はおまえの方が恐ろしいな」
「俺の女って言うなよ」
「え? ボクはトールのものだけど?」
うんざりして訂正すると、当人からさらに訂正された。面倒になったのでこの件については流すことにして、トールはルガルドに顎をしゃくって先を促した。
「ああ、話の続きか。連絡先を教えてくれ。俺の個人端末の連絡先と交換しよう。ルガルドの名に賭けて、おまえの連絡先を他者に洩らさないと誓ってもいい」
「……まあ、いいけど」
なんで魔族の方が個人情報リテラシーが高いんだよ、とトールは今日一日で何度も着信を知らせた携帯端末を取り出し、番号を交換しておいた。
「これは勘だが、たぶん、おまえを頼ることになる。ギルゲイルが俺たちを裏切って出奔したのは十年以上も前だが、影を見せたのですら今回が初めてだ。なにかしらの目処が立ったのかも知れん。おそらく、まともな組織ではやつを捉えられんし、出し抜くこともできねぇ。未だに目的も不明だしな」
「あー……なんか、クソ野郎なんだろ?」
「「そりゃあ、もう」」
ルガルドとティアの声が綺麗にハモった。嫌な二重奏だった。
「代わりといってはなんだが、なにかあれば俺に連絡して来い。変化や隠形は使えるし、気配隠しも上手い方だ。情報屋の真似事は得意だぞ」
「……でも、神楽坂千鶴には即バレしたんだろ?」
「雨の中を傘も差さず、ろくな気配も出さず、春先の変態みたいな格好でふらふら歩いて来る女がどうしてあんなに勘がいいんだ。あんなもん、不幸な事故だろう。まあ、おまえたちと出会えたのはある意味では幸運だったかも知れんが」
なんの衒いもないストレートな言い方に、トールは苦笑してしまった。
我ながらどうかしていると思うが、このルガルドという男は別に嫌いじゃない。どちらかと言えば、ぎりぎり好ましい方に分類されるかも知れない。
そう――あの巾木亮とかいうやつに比べれば。
いや、あれと比べれば大抵の人間が好ましくなってしまうのだが。
「ま、いいさ。できれば、あんまり面倒なことを頼んでくんなよな」
「あまり期待するな。俺としてもおまえを頼るのは最後の手段くらいに考えているから、頼るとなったら面倒事だ。ただ――そうだな、仲間と相談して、いくらか情報開示できるか聞いておく。今のままではろくな話もできねぇからな」
「ああ……『言えない』とかって話か?」
「魔族は誓いの類いを破れないんだよ。宣誓を裏切ると弱体化しちゃうんだ。嘘が吐けないんじゃなくて、誓ったことを反故にできないって感じだね」
補足を入れてくれるティアだった。ということは、トールの連絡先を第三者に洩らさないというのも、口だけではないのだろう。
だが――絶対にできないわけでもないはずだ。
約束というのは、約束を破るやつがいるから存在する。誰も約束を破らないのであれば、約束なんて概念がそもそも必要ない。
「じゃあ、誓いで縛った部下とか仲間を使って、誰かに誓わせて、弱体化を覚悟で誓いを破らせるってこともできるわけか」
「…………」
「……それ、ギルゲイルがやったよ」
ティアとルガルドが同時に『おまえマジかよ』の目つきでトールを見てきたが、もしかすると彼女たちが生きていた異世界の方が、人々の悪辣さはいくらかマシだったのではないだろうか。そう思ったが、権力者を相手にする前のティアの様子を思い出せば、別にそんなこともないのかも知れない。判らない。
「ま、まあいい。トール、俺はルガルドの名において、意識的におまえに不実を働かないことを誓う。仕方のない場面以外では、おまえの不利益に加担しない。おまえに頼るときは、それが最善であるか、それ以外にないと俺が判断したときだ」
きっぱりと宣誓を口にするルガルドに驚いたのは、ティアの方だった。
トールは、あまり驚かなかった。
たぶん――こいつはこいつなりに真剣で、切羽詰まっているのだろう。魔族であろうがなんだろうが、人類を害そうという気がないのであれば、ちょっと人種の違う他人というだけだ。積極的に嘘を吐くタイプには見えないし。
「判った。俺の方は別に誓いを破ってもペナルティはないけど、おまえの誠実さに対しては、なるべく誠実に対応するって言っておく」
「……いいのか?」
「おまえが本当にヤバいって感じた場面なら、どうせなんかひでぇことが起きる。たとえば『迷宮暴走』とかな。知らん顔して昼寝してたら後悔しそうだ」
我ながら愚かすぎるな、と思うけれど。
こればかりは、仕方がない。
九条礼子に迷宮探索の楽しさを教えてもらった。自分でもある程度は楽しく迷宮に潜れそうな気がしている。たぶん、やれるだろう。
だが――『迷宮暴走』が起きるというなら、そこに一枚噛めるというなら、どう考えても怪しい魔族と繋がったって構わない。そう思ってしまうのだ。
「そうか。感謝する、トール。それに聖剣使いも」
「ボクはトールがいいって言うなら、いいよ。あっ、でも、なにか情報を開示できるようになったら、早いとこ教えてよね」
「そうするさ。おまえと会えたのは、一番の収穫だったかも知れん」
にやり、と唇を曲げるルガルド。割と様になっているのがちょっとだけムカついて、逆になんだか笑ってしまった。
迷宮庁の迷宮監査官とかいう偉いやつには苛立つだけだったのに、魔族の男には少しの好感を覚えるというのだから――。
「では、俺は行く。なにかあったら連絡して来い」
言って、ルガルドは開いていたビニール傘を閉じ、トールに差し出した。気づけば雨は止んでいて、少し離れた空では赤く焼けた陽光が雲間から溢れている。
もう夕方で、次第に夜になるだろう。
小さく嘆息し、トールも傘を閉じた。
既にルガルドの姿は消えていた。
◇◇◇
適当に歩いているうちに大きな市道に出ていたようで、さらに少し歩いたところにあった規模の小さいスーパーマーケットの駐車場で客待ちしていたタクシーを拾い、家に戻った。
運転手はファンタジー町娘みたいな格好で聖剣を抱えているティアになにも言わないでくれたし、可能であれば話しかけてくれるなよという顔をしていたトールに気を利かせて運転に集中してくれた。他人の気遣いがありがたいと感じるのは、やはり精神的な疲弊のせいだろう。
とにかく――朝から、あれこれあった。
全体としては悪いことばかりではなかったが、最悪がひとつあるだけで気分はマイナスに寄りがちだ。人間の脳というやつは負の印象を強く覚える、という話を何処かで見た気がするが、何処で見たのかトールは思い出せなかった。
こういうときはさっさと飯食って風呂入って寝ちまおう。そう決意しながら、携帯端末でタクシーの料金を電子決済し、オンボロアパートの前で降ろしてもらう。
金の話をするのなら、もはや毎日タクシーに乗っても問題ないが、面倒くさすぎるので車を買わなきゃならないな――いや、あるいは佐渡山が弁償の話を振ってくるかも知れないよな、ああ、でもその話があるならとっくに連絡してきてるか……とかなんとか、そんなようなことを考えながら自室の前に辿り着き、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に指し込んだ。
かちゃり、と鍵が開く音。
ばぁん、と隣家のドアが開かれる音。
「よぉう、トール。なんか久々だなぁ。玄関先で女が座り込んでたから、うちで待たせてやったぞ。感謝しろよ。ちなみにアタシは、ミカをいつも預かってくれてるトールにはとても感謝してる。いつもありがとね」
にっかりと悪戯小僧みたいな笑い方をするグラマラスな猫獣人は、ミカの母親……シェンナ・シャイリィ・園山という。
そこでトールは、河合咲穂がなにか話をしたいとか言っていたのを思い出し、深く静かに少しだけ長い溜息を吐くことになった。
まだ今日が続くのかよ――と。




