第四十九話
「あいつらすぐ逃げるから、ちょっとボコしておくね」
本当に軽い口調で言った聖剣霊ティアが、ひょいっ、と跳び上がるのを、神楽坂千鶴は口を半開きにして見ていることしかできなかった。
そもそも――魔族とはなんだ?
あんな、肌が薄紫色に変色する亜人種など、千鶴は知らない。『世界融合』後に現れた様々な亜人種たちは、ほぼ全て把握されているはずだ。
最も目立つのはイルセリアのようなエルフ、メジャーなのは犬獣人や猫獣人、珍しいところでは竜の因子を持つという肌の一部に竜鱗が浮かぶ竜人なんかもいる。他にもぬいぐるみのような容姿のコボルトや、数は少ないが身長三十センチほどの、背に羽を持つ妖精族なんかもいるという。
だが、あのような亜人がいるのであれば、間違いなく目立つはずだ。それもあのように強力な人種であるならば、目立たないわけがない。
だったら、ティアが魔族と呼んだあの人物は――。
そこまで考えたところで、ティアが相馬賢吾の魔法によって構築された『石檻』を、聖剣でぶっ散らした。
藁の家を吹き飛ばす童話の狼みたいに。
S級探索者の魔法を、いとも容易く。
ぞっとして、思わず千鶴は魔法の主である相馬賢吾へ振り返った。相馬はハンチング帽のつばを撫でる余裕もなく、明確に焦りと苛立ちを表情に浮かべている。
つまり、わざわざ弱い魔法を使っていたわけではない、ということ。
そんなものは考えるまでもない。あの薄紫の男はかなりの使い手だった。千鶴とて本気を出していたわけではないが、それは向こうも同じだろう。いくらS級の相馬であっても、それなりに魔力を込めて『石檻』を構築したはずだ。
それを、あんな簡単に――?
千鶴ではとても無理だ。全力で斬撃を打ち込めばあるいは、とも思うが、あんな簡単そうには絶対できない。ほとんどの探索者が不可能な所業だろう。
竜殺しの女剣士、ティア。
「なんだぁ、テメ――オガァ! ブガ! ヴェ! テメ――ッ! ガ!」
檻から解き放たれた形になった『魔族』が、己を解き放ったティアを見て一瞬だけ怪訝を表明したが、すぐに痛苦を垂れ流すことになった。
宙から地面に落ちるまでの数瞬で、ティアが『魔族』へ連撃を叩き込んだからだ。ほんのわずかに聖剣が揺れる、そのたびにいくつもの小さな流星がぶち込まれて……滅多打ちだ。地面に落ちるまで、四十発以上は打ち込んだのではないか。
とんっ、というティアの軽い着地に少しだけ遅れて、成人男性の質量が地面に落下する、どぅ、なんて重い音が響く。
さらにティアは地面に転がった『魔族』の両足へ剣撃の流星を打ち込み、膝から下がひどい有様になるのを見届けてから、
「ごめんね、魔族って人の話を聞かないですぐ逃げるからさ、無力化させてもらったよ。キミが悪いやつじゃないって判ったら、後で回復魔法かけてあげるね」
なんて、本当に軽い調子で言った。
場には当然のように沈黙が落ち、雨粒が地面を叩く音だけ、響いていた。
「あー……状況がよく判んねぇんだけど……」
と、口を開いたのは、トール。
それで相馬賢吾と舞阪理沙が再起動した。
「S級探索者の相馬賢吾だ。『妖刀使い』早坂透で間違いないな? おまえが『妖刀』と『聖剣』の持ち主に相応しいか判断をするために来た。手間をかけさせて悪いが、いくつか質問に答えてもらいたい」
ちらちらと魔族を見ながら、舞阪と並んで歩いてくる相馬賢吾。何度も会ったわけではないが、ここまでピリピリしているのは千鶴も初めて見た。
緊張……そして警戒しているのだろう。
例の『石檻』を簡単に破られたのもそうだし、千鶴が苦戦していた『魔族』を一瞬でボロカスにもした――聖剣使いティア。そしてその主である早坂透。
「はぁ」
と、緊張されている側のトールは、やや訝りながら周囲をぐるりと見回している。警戒というよりは、なんだかよく判らない、という様子。
「イエスかノー、肯定か否定、はいかいいえ、そんな感じで答えろ。名前は早坂透、つい先日まで、そこのスガイダンジョンの掃除屋をしていた。偶然が重なり『聖剣』と『妖刀』の持ち主となった。間違いないか?」
「はぁ……ああ、まあ、はい」
相馬が視線だけを舞阪に向け、陰気な黒髪の女は小さく頷いた。
「報復心はあるか?」
「……はぁ?」
「世間や周囲に対する報復心だ。見返してやろう、痛い目に遭わせてやろう、自分と同じ苦しみを周囲や世間に与えてやろうという気持ちはあるか?」
「あぁ……えーっと、ノーっすね」
「公共の福祉に対する意識はあるか? 周囲が、世界が、多くの者が、現在よりも幸福であった方がいいと考えているか?」
「そりゃ、逆よりはいいんじゃないすか。イエス」
「同じく、公共の福祉に関する質問だ。公共の利便を考えるなら、多少の我慢や譲歩が必要だと思うか? そしてその我慢を受け入れるか?」
「イエス。なんの我慢も譲歩もできねーやつを社会に解き放つなよって個人的には思うっすけど。レジで静かに順番守って待つとか、赤信号ではきちんと止まるとか、みんなが無視したら動物園以下だろ」
このトールの回答に、相馬はわずかだけ唇の端を持ち上げた。傍目で見ていても、張り詰めていた緊張感がいくらか解れたのが判る。
なにか、通じるものがあったのかも知れない。
相馬賢吾の口調や態度は決していいものではないのだが、そのことに対してトールは不快を覚えていないように見える。どういうところでトールが苛立つのか千鶴には微妙に掴みきれず、なんだかもやもやした。
そして千鶴の懊悩とは無関係に、質問は続く。
「良識はあるか? たとえば『法に触れなければなにをしてもいい』という考えは良くないと思うか?」
「今度は道徳の問題すか。肯定。そういうことを言い出すやつのせいで法律が増えて面倒くせーことになると思うっすけどね」
「奇遇だな。俺もそう思う。次の質問だ。尊厳を穢された場合は反撃してもいいと考えているか? 場合によっては殺してもいいと思うか?」
「イエス」
即答だった。ビニール傘を差しているトールの表情が、わずかに険を帯びる。
ただ――舞阪理沙は、首を横に振った。
「グレー。どんな場合でも殺していいとは考えていない」
「……いや、そりゃそうでしょ。んなもん状況次第っすよ」
「これはシロ」
「では、最後の質問だ。おまえが得たその力を使って、他人よりも上位に立ちたいという欲望はあるか? 他者を見下して悦に入りたいという気持ちはあるか?」
「ノー……っすね。完全にゼロじゃないかも知れないけど、わざわざ高い位置に登ってやることが他人見下すって、割とつまんねーと思いますけど」
「シロ」
「なるほどな。すまんが追加で質問だ。ウチのカミさんが、というやつだな。今、おまえはその気になれば俺を殺せると考えている。イエスかノーか」
「……イエス」
「シロね」
「バケモノだな。ああ――時間を取らせて悪かった。質問は以上だ。早坂透、おまえが危険人物であると判断した場合、俺たちはおまえから『聖剣』と『妖刀』を取り上げるつもりだった。魂と繋がっているという話だったから、たぶん殺して奪うことになっただろうな。そうならなくてなによりだ」
ふっ、と息を吐いて苦笑を洩らし、相馬賢吾はハンチング帽のつばを指先でなぞった。その指先がいくらか震えていたのは、たぶん気のせいではない。
S級探索者の相馬賢吾が――早坂透に、怯えている。
それは千鶴にとって、奇妙な誇らしさを胸に湧かせる事実だった。
「判定は、セーフだ。早坂透は『聖剣』と『妖刀』の持ち主として不適格ではないと判断する。以降、おまえが二本の剣の持ち主であることを、迷宮庁から権利を委託された俺、相馬賢吾が保証する。つまり、誰かになにかいちゃもんをつけられても従う必要はないということだ。たとえ内閣総理大臣であってもな」
「はぁ……。いや、まあ、気持ちは判るんすけど……あのクソエルフ、俺が危険じゃないかどうか見に来たとか言ってたんすけど、ダブルチェックってやつすか?」
「いや、あのクソエルフはただの出しゃばりなだけだ。参考にはしたが、あくまで判断は俺がすることになっていた。迷宮庁からの依頼だ。こっちの陰気な女は舞阪理沙といって、他人の嘘を見抜くことができる『異能力』の持ち主だ」
「あー……『俺は嘘しか言わない』とか――」
「あ痛たたたた! 痛っ! いきなりなにすんのよ!」
急に舞阪が両手で両方のこめかみを押さえながら怒り出し、千鶴はかなり驚いた。この女がここまで声を荒らげたのを初めて見たからだ。
「いや、パラドックスのときはどうなんのかなーって……すんません」
「クソみたいな頭痛に襲われるわよ! シロでもクロでもグレーでもないこといきなり言いだして、マジ怖いわねあんた! 相馬、こいつヤバいわよ!」
「……クロだな。ヤバくはない」
「クソっ! あたしのモノマネすんじゃねーわよ! どいつもこいつも人のことを便利な嘘発見器にして! なんでこんな厄ネタの……んっ、んんっ! ふぅ……そうね、この男は、とりあえず危険ではないようね……」
「いや、もはやダウナー陰キャは無理だろ……」
トールの冷たいツッコミが響いたが、舞阪は頬を引きつらせながら無視した。
なるほど――ただの陰気な女だと思っていたが、演技だったわけだ。なんでそんな演技をしていたのかは判らないが。
と。
「おーい。話は終わった? こっちの問題も片付けた方がいいと思うよぉ」
ズタボロにした『魔族』のすぐ近くで、聖剣を器用にリフティングしながら、ティアが言った。暇だったようだ。
「ちょーっとだけ、お待ちくださいませ! 少しお時間をいただきますわ!」
と。
後方でことの成り行きを静観していた九条礼子が、話の切れ間を見つけてずんずんと歩いて来る。千鶴の方に。
妙に怒っているような気がするのは……気のせいではなさそうだ。
千鶴としては千鶴の剣神と一緒に迷宮探索を、それも楽しそうに行っていた九条礼子に怒られる筋合いなどない。むしろ千鶴の方が怒っていいはずだ。
そんなふうに思ってしまったからか、傘を差しながら大股で近づいてくる九条礼子に相対するように、千鶴は胸の前で両腕を組んで顎を突き出して仁王立ちし、かかって来いとばかりに睨みつけてやった。
が、九条礼子は全く怯むことなく至近距離まで近づいて来て、
「神楽坂千鶴! なぁんて格好をしてるのですか! 破廉恥ですわよ!」
そんなことを言った。
なんだか思っていたような展開ではなかったが、ではどんな展開になるのを予想していたのかといえば……特になにもないのだが。
「はれ――なんだ、いきなり。私の格好がどうしたというのだ」
「外套の下は肌着ではありませんか! 春に現れる変態でもあるまいし、貴女は『アンセム』のメンバーですのよ? お気をつけなさいな!」
言われてみれば肌着の上に外套を羽織っているだけの格好ではあったが、陸上競技のユニフォームみたいなものだ。千鶴としては特に破廉恥だとは感じていない。まあ、ステージに立って万人に見せびらかすような格好ではないが。
「き、貴様に言われる筋合いなどないはずだ。それに破廉恥というのなら、九条の娘、貴様の格好こそが破廉恥だろう。胸をひけらかすようなドレスを着て、トール様の手を握ってぶるんぶるんと揺らしていただろう! 私は配信を見ていたのだぞ!」
「まあっ! まるで下世話なおっさんみたいな意見ですわね! 別に、私の胸がでっかくなったのは私の責任ではありませんし、このドレスは何処へ行くにも無礼のないフォーマルですわ! それに、トールニキ様は私のおっぱいにはさして注目していらっしゃらなかったですわよ? 紳士ですわ、紳士!」
「はん! 単に貴様の脂肪の塊には興味がなかっただけかも知れんだろう。私の格好は恥ずかしくなどない! 私が恥ずかしいのは――」
――自分自身だ。
一体私はなにをやっているのだ、と千鶴は強烈な自己嫌悪を噛み締めないわけにはいかなかった。気に入らない女だからといって、心配してくれたのに、どうしてこんなふうに言い返してしまうのか。
これではイルセリアを咎める資格などないではないか。
ヒートアップしていた気分が一気に落ち込み、至近距離の九条礼子が心配そうに千鶴を覗き込んでくる。ひどい敗北感。それは別に、胸のサイズの話ではない。むしろ心のサイズの話だ。人間の器が、九条礼子に負けているのだ。
「いきなり黙りましたわね? ともかく、そのような格好は淑女のそれとは言い難いですわ。丈一郎! 簡易テントを――」
「既に建ててるっすよぉ」
気の抜けた声が九条礼子の後ろから響き、九条の執事は千鶴から目を背けるような立ち方で、いつの間にか建てていた簡易テントを指差した。
「ナインライン製、紐引っ張るだけでぱーんと膨らむテントっす。まあ、こういうのは片付けるのがめんどいんすけど。神楽坂のお嬢さん、着替えはお持ちですか? 見たところ、魔法鞄は持ってるみたいっすけど」
「……こちらを見ないまま言う科白ではないな。すまない、九条。それに執事も。着替えは持っているので、ありがたくテントをお借りする。トール様の前で恥ずかしくない格好に着替えねば」
「トールニキ様の……?」
「うむ。彼の人は、私の神に等しいからな」
言って、不思議そうな顔をして首を傾げる九条礼子に構わず、簡易テントに入った。ナインライン製ということはダンジョン用具として開発されているのだろう、立ったまま着替えができるほど背が高く、テントの生地も向こう側が透けないものだ。つまり向こうからもこちらは透けて見えない、ということ。
とにかく、ベルトのバックルを外して刀ごと魔法鞄に放り込み、肌着と外套を脱いで、それも魔法鞄に放り込む。タオルを取り出してざっと頭と身体を拭き、新品の肌着と、新品の上着に袖を通す。全て九条傘下のナインライン製なのは気に入らないところもあるのだが、品質は折り紙付きだ。
そうして着替えを済ませて外へ出れば、執事がビニール傘を差し出してきた。
「むっ……すまない、ありがたく使わせてもらう」
「いいすよ。お嬢のライバルがへたれてちゃ、面白くないんで」
含みのある言い方をする執事だが、千鶴はよく判らなかったので流しておく。
――と、
「おーい、そろそろいいかなぁ。ボクがボコボコにした彼、いじけちゃってるよ」
問題が残っているのを、千鶴は今更ながらに思い出した。
薄紫色の肌の、亜人。
ティアの言によるならば――『魔族』。
都合のいいことに、この場には嘘を見破れる女がいる。




