第三話 深秘の盟約、逆臣の遺産
寛永十九年(1642年)。百歳を優に超えた天海の肉体は、すでに枯木のように衰えていた。
江戸城の一室で、天海は薄れゆく意識の底、かつて「明智十兵衛光秀」であった頃の古い記憶の檻を開いていた。
それは今から約五十年前、文禄四年(1595年)の夏の夜のことである。当時、比叡山で「天海」と名を変えて潜伏していた光秀は、京の公家・近衛信尹の屋敷にいた。
秀吉の治世。世間は太閤秀吉の黄金一色に染まっていたが、その足元は激しく揺らいでいた。
「十兵衛殿……いや、天海僧正。息災で何より。お主が仕掛けた『毒』は、今も豊臣の根を腐らせ続けておるぞ」
闇の中でそう囁いたのは、近衛信尹であった。
朝廷の最高位に近いこの男こそ、天正十年のあの日、信長の「暦の変更」や「神格化」を阻止すべく、光秀に本能寺の変を促した裏の勢力の筆頭であった。
あの日、光秀は一人で信長を討ったのではない。朝廷の権威を守ろうとする公家衆、そして信長のあまりの覇道に危機感を覚えた諸大名との「灰色の同盟」があったのだ。
「近衛様。秀吉は、実子・秀頼が生まれたことで、関白・秀次を疎み始めておりますな」
天海は静かに言った。その声に、かつての武将の鋭さが蘇る。
「うむ。お主の策通り、秀吉の猜疑心を煽り立てておいた。間もなく秀次派は粛清される。これで豊臣の強固な家臣団は真っ二つに割れる。お主が蒔いた種が、見事に実を結びつつあるな」
光秀が小栗栖で死なず、天海として生きていること。
それは、朝廷の守護者たちにとって、秀吉の天下をひっくり返すための「最強の切り札」の存続を意味していた。
さらにその夜、近衛邸の奥座敷に、一人の大名が極秘裏に姿を現した。五大老の一人であり、中国地方を統べる毛利輝元の重臣――小早川隆景である。
毛利家もまた、本能寺の変の際、光秀からの密書を受け取りながら「あえて秀吉の中国大返しを黙認した」という、奇妙な過去を持つ勢力であった。
「天海殿」
隆景は黒い頭巾を脱ぎ、深々と頭を下げた。「我が毛利は、あの時、秀吉の勢いを止められなんだ。だが、秀吉の朝鮮出兵により、日ノ本は疲弊しきっている。……これ以上の戦は、国を滅ぼします」
天海は隆景を見据え、静かに頷いた。
「隆景殿。毛利が秀吉を泳がせたのは、戦なき世を求めたからではなかろう。だが、結果はご覧の通りだ。秀吉の天下は一代で終わる。次なる器は、徳川家康公。私はすでに、内府(家康)殿の影に入り込んだ」
「徳川殿に、すべてを託されるか」
「そうだ。家康公ならば、朝廷を尊び、武を収め、理を以て国を縛る。それが、かつて私が本能寺で流した血の、唯一の贖罪よ」
天海、近衛信尹、そして小早川隆景。
かつて本能寺の変という巨大な転換点を裏で操り、あるいはその結果を利用した者たちが、秀吉亡き後の「徳川の世」を確実なものにするため、再び闇の中で手を結んだ瞬間であった。
豊臣家を内側から崩壊させるための毒。
その調合師こそが、天海であった。
「――天海様。天海様、お気を確かに」
耳元で響く声に、天海はふと我に返った。
目を開けると、そこは寛永の江戸城であった。
枕元には、年老いた春日局(お福)が、心配そうに天海の顔を覗き込んでいる。
「……お福か。古い夢を、見ておった」
天海はかすれた声で微笑んだ。
「朝廷も、豊臣に反旗を翻した各大名も、すべては私の手の平の上で踊ったに過ぎぬ。彼らは信長公を恐れ、秀吉を憎み、私を利用しようとした。だが、真に天下の形を書き換えたのは、私と、家康公、そしてお主だ」天海は震える手で、春日局の手を握った。「三代将軍・家光君は、立派に育たれた。武家諸法度を定め、参勤交代を敷き、大名たちから牙を抜いた。私がかつて毛利や近衛と結んだような『裏の盟約』など、もはや二度と結べぬほどの、完璧な統制の世だ。……光秀の復讐は、これで完全に成った」
窓の外からは、江戸の活気ある街の羽音が聞こえてくる。
そこには、小栗栖の雨も、本能寺の炎もない。
ただ、天海が命を賭けてデザインした、静謐なる三百年の泰平が始まろうとしていた。




