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第四話:比叡山潜伏、十兵衛の死と天海の生

山崎の戦いから二ヶ月が過ぎた、天正十年(1582年)八月。


比叡山の北側、鬱蒼とした杉林に囲まれた横川の地は、夜の帳に包まれていた。かつて織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したこの聖地は、いまだ黒く焦げた木の根が残り、怨念の残り香が漂っていた。


その一角にある荒れ果てた草庵の床に、一人の男が横たわっていた。


明智十兵衛光秀。


小栗栖の竹林で百姓の竹槍に貫かれ、溝尾茂朝の手によって首を落とされて死んだはずの男である。


「……ううむ……」


光秀は薄い布越しに、己の脇腹を触った。


生々しい肉の盛り上がりが、あの凄惨な夜の記憶を呼び覚ます。


あの日、茂朝が介錯したのは、光秀の身代わりとなった影武者の首であった。


重傷を負った本物の光秀は、徳川家康が密かに配した服部半蔵の伊賀者たちによって救い出され、この比叡山の闇へと運び込まれたのだ。





「目が覚めましたか、十兵衛殿」 


暗闇から声をかけたのは、一人の老僧であった。


名を随風という。


後に天海と名乗る前の、この地の高僧であった。


「私は……生きているのか。なぜ、私を活かした」


光秀の声は枯れ果て、覇気は失われていた。


「我が妻・熙子はとうに亡く、娘の玉とも生き別れた。坂本城に残した一族もみな、秀吉の手によって滅んだ。明智は滅びたのだ。これ以上、この泥をすするような命に、何の意味がある……!」


光秀の目から、一筋の涙が溢れ、床の藁を濡らした。


主君・信長を討てば、日ノ本に泰平が訪れると信じていた。


だが、待っていたのは「三日天下」という名の無惨な敗北と、さらなる戦乱の火種だった。


己のしたことは正しかったのか。 


それとも、ただ天下を乱した大逆人に過ぎなかったのか。 


絶望の業火が、光秀の胸を焼き尽くそうとしていた。


随風は静かに光秀の枕元に座り、お経を唱え始めた。 


その声は低く、比叡山の夜風に溶けてゆく。


「十兵衛殿。この比叡山を見なされ。信長によって焼かれ、数千の僧俗が刃に倒れた。だが、山は死んでおらぬ。根は生き、こうして再び芽を吹こうとしている。お主の命も同じよ」 


「私に……何をしろと言うのだ」



「明智十兵衛光秀は、小栗栖の土に埋まった。ならば、これからの命は『十兵衛』のものではない。この日ノ本を、永劫の戦火から救うための『道具』として、神仏に差し出す気はないか」


道具、という言葉に光秀の眉が跳ねた。


「秀吉の天下は長うない。奴の根底にあるのは、己の欲望と虚飾だ。奴が死ねば、再びこの国は血の海に沈む。その時、真に戦を終わらせる器を持つ男を、我らが陰から支えるのだ。その男の名は、徳川家康。お主を救うよう私に命じた男よ」


随風は懐から、一丁の剃刀を取り出し、光秀の前に置いた。


「武士として、怨念を抱いて死ぬか。それとも、過去をすべて捨て、黒衣の鬼となって泰平の礎石となるか。選ぶが良い」


光秀は、じっと剃刀を見つめた。


己の手に刻まれた、数々の戦の記憶。 


信長を討った時の、あの血の温もり。 


武士としての誇りを捨てることは、己の人生のすべてを否定することに等しかった。 


しかし、このまま死ねば、日ノ本は再び覇王たちの奪い合いの場となる。 


「……信長公」


光秀は呟いた。


「あなたの覇道は間違っていた。だが、私の覚悟もまた、生ぬるかった。私は、地獄へ行くわけにはいかぬ。この国が真の安寧を得るその日まで、泥水をすする鬼となろう」


光秀は震える手で剃刀を掴むと、自らの長い髪を掴み、一気に根元から切り落とした。


ざらざらと、武士の象徴であった髪が床に落ちてゆく。


随風は満足げに頷き、水を張った器と剃刀を受け取ると、光秀の頭を丁寧に剃り上げ始めた。


青々とした頭皮が露わになるにつれ、明智十兵衛光秀という男の輪郭が、歴史から消滅していく。


「今日より、お主の名は『天海』だ」随風が静かに告げた。「天の海のごとく、すべてを包み込み、すべてを隠せ。お主の知略、お主の怨念、そのすべてを徳川の天下という名の巨大な伽藍の、地下深くに埋め込むのだ」


「天海……」


剃り上げられた頭を撫でながら、男は新しく与えられた名を噛み締めた。


その瞳からは、先ほどまでの絶望の涙は消え失せ、冷徹極まりない、智将の光が宿っていた。



この夜、比叡山の暗闇の中で、一人の武将が死に、一人の怪僧が誕生した。


後に徳川三代を裏から支配し、日本の歴史を決定づける「黒衣の宰相・南光坊天海」の長い旅路は、この焼け落ちた聖地の片隅から始まったのである。


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