86.シュークリーム勝負
長いような短いような冬はそろそろ終わりに近づいていた。
春に近づくにつれて、チェルさんはヘビにならなくなった。今日で丁度二週間だ。と昨日チェルさんが言っていたので覚えている。
その割に付き合い始めた日など、私たちの記念日は覚えていない。この前もそろそろ三ヶ月ですねと話した時、「覚えているのか」なんて素っ気ない言葉が返ってきた。
お祝いするために覚えているんですよ。記念日です。と伝えたら、当たり前のことで祝う必要はないと一蹴されてしまった。
そこまで否定するのが不思議で理由を聞いてみると、続いている事を祝うのは終わりが来るようで嫌だと、寂しげな表情で言っていた。
チェルさんが人間に比べて寿命が長いからなのかな。今まで常識のように感じていたものを崩されているようで、チェルさんの価値観をスムーズに受け入れるのは難しい。だがそれはチェルさんも一緒だ。なので私だけが悩んでいるなんて言えない。
寧ろチェルさんのが大変だと思う。人間の感情は難しい。愛をチェルさんが頭の中に落とし込むまでに時間がかかっているのを間近で見ていた。
チェルさんにとって求愛は子供を作ること、嫁は繁殖相手だった。間違っていない。ただ人間と異なっているだけだ。
だからチェルさんが愛を知らないのは当然で、そんなチェルさんは愛を飲み込めず、良く悩んでいた。
二カ月くらい前、抱きしめると子供が出来ると寂しげな表情で私と少しだけ距離を取っていた時期があった。
その時のチェルさんは心が痛くなるほどに寂しそうな表情で私はそんなチェルさんを見守ることなんて出来ず、強引に抱きしめた。子供が出来たらと拗ねた表情で言っていたが、育てます。と言い切った。勇者が来るからとかそんなのは後で考えれば良い。私がチェルさんが一番だ。
そんな事が何日か続き、チェルさんは再び最初の頃のように私を抱きしめてくれるようになった。いや最初以上かもしれない。それからの私は部屋にいるときは、だいたいチェルさんの膝の上に座っている事が多い。恥ずかしいがチェルさんの満足げな表情を見ると、降ろしてもらうと言う選択肢はすぐに頭の中からなくなった。
それにチェルさんはちゃんと魔王様との約束を守っている。仕事の時は私を抱きしめることなく、きちんと執務室で仕事をしている。
当たり前かもしれないが、チェルさんが真面目に仕事をしている。と私を初めて仕事場に連れて来た日にディーネさん達がとても驚いていたのは良く覚えている。そして私はその様子を見て、ディーネさん達を困らせないようにしようと心に誓った。
私はチェルさんと一緒に仕事をしている。チェルさんとお付き合いを始めて、チェルさんの体調も落ち着いて来た頃、チェルさんは職場に少しずつ復帰することになった。だがチェルさんは私が横にいないと仕事が出来ないと魔王様に言って、私を執務室に連れて行った。
「エルも一緒に仕事をする」そう淡々とチェルさんが言った後、精霊の皆さんはなんとも言えない空気を醸し出していた。
特にディーネさんは目が笑っていなく、ちょっと怖かった。言葉にしてはいなかったが、ここは仕事場だ。そう思っているのは伝わった。
ディーネさんは実質、ここの責任者だしな。一応チェルさんの配下だが、チェルさんは上司としてあまり機能していないので、四天王会議なども全てディーネさんが出ていた。
私が居ることでディーネさんのストレスになるのはわかっていたが、チェルさんが寂しそうにしていると突っぱねることなんて出来ない。なので私はせめてもの気持ちで出来る仕事をしようと誓った。実績もあったし。それにこの執務室はあまり良い空気ではなくどうにかしたかった。
この仕事場が会話が思った以上にない。最低限どころではなかった。自分の裁量で出来る仕事と言えば聞こえが良いが、そうではない。
そしてその事にチェルさんは気にしていない。いや知らない。
なのでこの氷の様な空気をシルフィさんとノームさんだけが気にかけてくれる。なんとも言えない職場だった。
と言うことでまずはチェルさんが邪魔に感じない程度に間に入るようになった。チェルさんは私には優しい。それを見ていたディーネさんが良い意味で私達の関係を利用する事になった。少しずつシルフィさんが私に話しかける頻度が多くなった。
チェルさんがヤキモチを焼くかはわからないが、同性のシルフィさんに頼むように仕掛けたディーネさんは出来る男だ。
それにシルフィさんとは以前から話す事が多かった。私は勝手に仲が良いと思っている。だからシルフィさんは話しやすい。少ししてからノームさんも話に加わるようになって、更にディーネさんとサラさんも加わってチェルさんと六人で話す事が多くなった。チェルさんも嫌な顔はしていないので、良い空気になったと思う。
その結果、私はチェルさんの部下になっていた。もちろん魔王様公認だ。ディーネさんが動いてくれたらしい。お給料も貰うようになった。
勝手に私がしていることだったので、流石に最初は遠慮した。と言うかそれよりもチェルさんやシルフさん達のお給料だ。
だけどお金があるとチェルさんにプレゼントが出来る。と甘い言葉を言う魔王様がいけない。
それにチェルさん達を評価するなら、私も評価する必要があるとの事で私はお給料を頂くこととなった。
月三万マリノ。シュークリームが三百個くらい買える金額だ。最近はチェルさんと一緒に売店でおやつを買うのが日課だ。ちなみにじゃんけんで勝った方が払う。現在、私が三連勝中だ。
シュークリーム勝負をするくらいにとても穏やかな日々で。勇者が来ることを忘れてしまいそうだった。
このまま勇者が来なければ良いのに。それは私が姫である限り、無理なことなんだろうな。鏡に映る姫の姿を見ながらため息をついた。
今は着替えが終わり、変なところがないか確認中だった。チェルさんと同棲。もうとっくに寝癖なんかも見られているが、身だしなみは大事だ。
寝癖は取れている。髪もさらさら。問題なし。鏡に向けて笑顔の練習をしてから脱衣所から出る。そしてチェルさんの所へ向かった。
「エル」
チェルさんは私が着替え終わった事にすぐに気付いたようで、私がチェルさんの方向を向く頃には、チェルさんは私に向けて大きく手を広げていた。
チェルさんとのハグ。朝の日課だ。
急いでチェルさんの元へ向かうとその中に入り背中に手を伸ばす。それからチェルさんを見上げると、チェルさんは嬉しそうに微笑みながら私の背中に手を伸ばした。とても幸せになる日課だ。
見つめているとチェルさんの顔が近づく。キスと思い、唇を出し目を瞑る。すぐに唇ではなく私の首もとにヒヤリとしたチェルさんの唇の感触があった。
首もとへのキス。チェルさんの癖と聞いていたそれはヘビの求愛だった。習性と言う意味ではあっているかもしれないが、その言葉に私はとても振り回されていた。
それは今も変わらなかった。チェルさんは愛は消化できたが、ヘビの求愛は消化出来ていなかった。そのためチェルさんが私の首へキスをするのは珍しい。最大の愛情表現と思うが、愛と言う感情にチェルさんが悩んでいるのを見ていると、触れてはいけないと感じ、切り出すこともなかった。
「何か、ありましたか?」
チェルさんの顔が首もとから離れたことを確認し、目を開き見上げるとチェルさんは顔を近づける。
すぐにチェルさんがキスをしたことに気付き、再び目を瞑った。
「後一回、飯を食ったら話す」
チェルさんはゆっくりと私から離れ、ポツリと呟くように言った。表情はあまり優れていなく。聞かない方が良さそうだった。
「無理して言う必要はないですからね」
「いや。大事な話だ」
大事な話という言葉が気になる。
大事な話……――私が竜になることだろうか? ただそう言った良い話ではない感じがした。
良い話ではないと言うことは悪い話? 勇者が来た。それならもっと早く教えてくれるだろうし。後一回とは言わないはずだ。
内容が凄く気になるが、詮索したらチェルさんが困るのは目に見えている。ご飯を食べたら話すと言っていたし、待った方が良い。
「……はい」
「飯を食ったら必ず話す。だからさっさと飯を食いに行きたい」
チェルさんはそう言うと私の手を握りそのまま部屋を出る。
チェルさんの手はいつもよりも強い。先程の話のせいか、私が勇者に囚われてしまわないようにと、繋ぎ留めているように感じた。




