話を買う女【3】
「前も同じこと聞いたよね、オネーサン」
「あの時は逃げられたけどね」
別に逃げたわけじゃないけどさ……とボヤきながら、彼は封筒をカウンターの上に積み重ねた。封筒の山を指で軽くとんとんと叩きながら、彼は話を続ける。
「これは、聞かせてもらった話の対価。まあ、はっきり言っちゃうと、俺が興味あるのはあなたの話だけで、あなた自身には何の感情は持ってないよ、ってこと。……それから」
私の手からもう一枚封筒を引き抜くと、彼は少し寂しそうに笑った。……私の手には、あと二枚しか封筒は残されていない。
「これを渡したら、俺とあなたはもう何の関係もありません、ってこと。変に気を持たせるようなことしても、あとで傷つくだけだしね。……相手も、俺も」
改めて彼の口から聞いてみて、私はようやく気がついた。……水族館で感じた、あの何とも言えない私たちの距離感。あれは私の気のせいじゃなくて、彼からの無言のメッセージを私が受け取っていたからに他ならなかった、と。
……じゃあ、私の手にあるこの封筒が全部なくなったら。やっぱり、前と同じ距離感だけが残されて、もう何も残らないんだろうか。
「……けじめって言ってたの、そういうこと?」
「格好つけると、そうなるかな」
空になったグラスと入れ替わりに、新しいカクテルが運ばれてきた。確かに、彼は異様にお酒が強い……自ら「ザルどころか空き枠だ」と言っていたほどに。
だが、今日の彼のペースは明らかに早すぎる気がする。さすがの彼でも、既に酔いが回り始めているんだろうか……私に謎解きを持ちかけてからの彼は妙に饒舌で、何だか不思議と落ち着かないように見える。
グラスに口を付けながら、彼は横目で私をちらりと伺った。
「……だから、おかしいんだって。オネーサン、まだ気づかない?」
「はい?」
「封筒渡したらハイおしまい! のはずなのに、何で俺はオネーサンを水族館やラーメン屋なんかに誘ってるのさ、ってね」
彼はケラケラ笑いながら、カウンターの上の封筒の束を指で弾いた。グラスを一気にあおると、彼は私の返事も聞かずに、私の手から封筒の取り上げるように引き抜いた。
「……最後。俺は、どうしてストーリーを変更したんでしょうか」
「それ、作者が読者に出すヒントだとはとても思えないんだけど……」
「大丈夫。……むしろ、これで分かってもらわないと俺が困る」
そう言いながら、彼は何故か苦笑いした。
私も苦笑いするしかなかった……彼が困る以前に、既に私が困っている。今回の話がいつもの『宝石シリーズ』と展開が違っていたのは、彼がわざわざ書き直したからだというのは、さっきの話から分かった。だが、彼がもともとどんな話を書こうとしていたのか分からないんだから、どうしてストーリーを変更したのかなんて、私には想像のしようもない。
……私がそう文句を言うと、彼は一瞬きょとんとした顔で私を見た。
「……話してなかったっけ?」
「ない。大体、君はつい最近まで、自分の書いた本のことなんて全然話してくれなかったでしょうが」
「ごめん。とっくに話してたつもりでいたわ、俺」
「……前もそんなことあったよね」
「俺の家に来た時な。いや、別にからかったわけじゃなくて、本当に素でそう思ってたんだって。……だからさ、そんな呆れた顔で見ないでくれる?」
そう言うと、手元に置いたままのスマホにちょいちょいと指を走らせた。メッセージアプリを落とすと、別のアプリを起動させる……メモ帳のようだ。
画面にいくつも並ぶファイル型のアイコン。その中のひとつを選ぶと、彼は私の方へとスマホを押しやった。
「これ、なあに?」
「もともと考えてた話。思い浮かんだやつは、とりあえずこうして全部残しておくようにしてる」
「私の話はノートに書き留めてなかった?」
「聞き書きする時はね。設定とか練り上げる時は、こっちの方が便利。後から書き足したり、入れ替えたりするの、楽だからさ」
みっちりと文字が並んだスマホの画面を覗き込んでいる私に、彼は少し真面目な顔になって話しかけた。
「……もともとは、今回の話のメインは弟にする予定だったんだ」
「お兄ちゃんじゃなくて?」
「そ。容疑者の女に一目惚れした弟が、その容疑を晴らそうと一人で奔走するうちに、真実に辿り着いてしまう。兄は弟に陰から手を貸しながら、その姿を見守っている。……そういう展開にするつもりだった」
メモ帳に残されていた話は、実際はもっと細かい部分まで書き込まれていたものの、彼がかいつまんで話したこととほぼ同じだった。……だがその内容は、私が読んだものとは全く違う。
「……真実に気づいたのは、お兄ちゃんの方よね?」
「そう」
「それに、弟だけじゃなくてお兄ちゃんも、あの女の人のことが気になってるんだよね?」
「作品中にはっきりとは書いてないけどね。まあ、ちゃんと伝わってたんならよかった」
何だか満足そうにそう言うと、彼は空のグラスを脇へ退けながらマスターに新しいカクテルを注文した。マスターは少し心配そうな顔をしていたが、彼はにこやかにひらりと手を振ってみせる。
「……つまり」
「うん?」
「話のメインをお兄ちゃんに変えたのは、単なる思いつきじゃなくて、何か意味があったってこと? その方が面白いからとか、そういうのじゃなくて」
「そういうことになるね。やっぱりオネーサン、ちゃんと分かるじゃん……まあ、問題はその先なんだけど」
「……お兄ちゃんに変更した意味まで当てろっ、てこと?」
「だね」
私は、手の中に残された封筒を彼に突き出した。
……答えは、何となく分からないでもない。でも、さすがにこれを口に出せるほどの確証もない。だから、彼と私の間にまだ『防衛線』が残されているうちに、もう少しだけ手がかりが欲しい。
「お兄ちゃんは、『中村晴信』なんだよね?」
「ん?」
「みんなの前で推理を披露する弟が『中村ショータ』。その陰に隠れてて、姿を見せたがらないお兄ちゃんが『中村晴信』。……違う?」
彼は柔らかく微笑んだまま、何も答えようとしない。以前に私が双子の正体を尋ねた時にも、やっぱり彼はちゃんと答えてはくれなかったが……たぶん、私の予想は間違ってないと思う。
「だから、あの話を弟じゃなくてお兄ちゃんがメインの話に変えたのは……」
「うん?」
「『中村ショータ』じゃなくて、君自身が主役じゃなくちゃダメだったんだよね? あの話を通して、何かを描きたかったから、とか?」
彼はようやく、私の手から封筒を抜き取った。これが、最後の一枚……私と彼の間にずっと存在し続けていた『防衛線』は、これでおしまいだ。
「……描きたかった、ってのとは違うかも」
「ハズレだった?」
「いや、すごくいいところまで来てる。……けど、これ以上はオネーサンには難しいかもな」
「え、何で」
「……俺の予想以上にオネーサンが手強かったから」
運ばれてきたグラスに手を伸ばすと、彼はそれを軽く掲げた……まるで、ほのかな照明の光をグラス越しに眺めているかのように。
「最初、弟をメインにしようとしたのはね、単に話が転がしやすかったから。よく喋るキャラだから、どんなセリフ言わせても違和感がない」
「ああ、そういう理由だったの」
「そ。ただでさえ苦手なことやろうとしてたからね。少しでも書きやすい方がいい」
「お兄ちゃんは、書きにくいってこと?」
「そこまでは言わないよ。一応、自分で作り上げたキャラだしね。……でも、まあ、恋愛絡みの話で動かすには、あまり向いてないと思う。何せ、俺だから」
サラッとそう言うと、彼は手にしたグラスを口に運んだ。半分ほど空けたところで、クスッと小さく笑うと彼は話を続けた。
「けど、だんだんムカついてきた」
「はい?」
「何でこいつが、って。俺、小さい人間だからね。何でこいつが相手なんだよって思ったら、どうしても書き直したくなった」
「……それは、あの」
「彼女は、オネーサンが息を吹き込んでくれたキャラだから」
半ばヤケになったような口調で、彼はそう呟いた。グラスに残ったカクテルを一気に空けると、彼はふうっと深くため息をつく。空になったグラスにじっと視線を落としたまま、彼の話はさらに続いた。
「前に言ったろ。俺、オネーサンの前だとボロが出まくりだって」
「言ってたけど……」
「下手に『防衛線』なんてやらかすくせに、割り切ることもできなくて。そのくせ、踏み出すこともできない。気づかれないようにこっそり隠して、でも、もう限界」
いつものようにケラケラと笑う声は、決して楽しそうには聞こえなかった。マスターが、無言で彼の前に水の入ったコップを置いた。どうやら、私の心配していたことは気のせいではなかったらしい。
「あのさ」
「うん?」
「もうなくなっちゃったから」
「何が」
「封筒。私が君の話を『買い取る』のは、これでおしまい。だから、もうないよ」
「だから、何が?」
「『防衛線』。だから、君のしたいようにしても大丈夫。私も、そうするから」
私も彼のことは言えない。はっきり言うのが怖いから、こんな訳の分からない遠回しな言い方しかできない。でも、彼ならきっと分かってくれる気がする……これが私の盛大な思い上がりでなければ。
彼がふっと小さく笑う声が聞こえた。
「……最初は、作り物のハッピーエンドで終わらせようと思った」
「うん」
「無理だった。ここまで頑張ってきて、ラストがこれかよって、自分で自分が情けなくなって……だけど、嘘もつけなかった」
「嘘って?」
「始まってもいないもんのラストなんて、どう頑張ったって見えないだろ」




