話を買う女【2】
さっき彼がマスターに注文していたカクテルが、音もなく彼の前へと差し出された。
彼は一瞬手を止めて、軽く会釈するマスターにちらっと柔らかい視線を送った。しかし、カクテルには手をつけることなく……まるで話の調子でも取るかのように、彼は再び指で封筒を弾き始めた。
「そりゃ、俺がこうして小説書いていられるのは、運がよかったからだけどさ。でも、心のどこかでは、やっぱり思ってたよ……俺に実力がなけりゃここまで来られなかったはずだって」
「……私も、そう思うよ」
「……マジ?」
「本屋に並んでる君の本を見れば、それぐらいの自信持ったって全然構わないと思うけど?」
彼は無言で……でも、ほんの少し照れくさそうにはにかみながら、私の手から封筒を引き抜いた。気づけば、私の手の中の封筒はもう半分近くにまで減っている。
「だから、余計悔しかった……んで、編集さんに頼んだわけ。いつもと違うことやりたいって」
「……『アレキサンドライトの彼女』のこと?」
「そ、リベンジさせてって。恋愛絡みの話を書かせてほしいってさ。……まあ、いきなりつまづいたんだけどね」
「やっぱり、難しかった?」
彼は苦笑いしながら、小さく頷いた。カウンターの上に重ねた封筒は、少しずつ厚みを増していく。
「意地と勢いだけじゃ無理だった。資料に頼るのにも限界はあるし、こりゃ直接聞くしかないなと」
「……それで、『話を買い取りたい』と」
「そういうこと。初めは、一緒にお酒でも飲みながら、話聞かせてもらおうと思ってさ。マスターに許可もらって、ここのお客さんに声かけてたんだけど」
意外な協力者の名前に、私は思わず目を瞬かせた。カウンターの向こうでシェイカーを振っていたマスターが、ニコッと微笑みながら私に会釈をする。
カウンターの上の封筒の束に、引き抜いた封筒を重ねながら、彼は小さくため息をついた。
「ナンパと間違われて怒られたり、逆にこっちがナンパされて話にならなかったり……オネーサンが来てくれるまでは、もうそりゃ散々だった」
「……そりゃ、こんな所でいきなり声かけてきたら、普通はそうなるでしょうよ」
「うん、俺も後から気づいた」
「いや、最初から気づこうよ、ね?」
くすくす笑いながら、彼はようやくグラスに手を伸ばした。口を湿らせるように、少しずつカクテルを口にすると、彼は私が手にした封筒を指さした。
「それからは、最初から謝礼の封筒渡して、取材だって前置きするようにした。まあ、それでもなかなか思うようには話聞けなくてさ……オネーサンがマジで天使に見えたわ」
「……その割には、今でもずいぶんと面白がって弄ってくるよね」
「いや、実際面白かったし」
ジロっと睨みつける私を気にも留めずに、彼はくすくすと肩を震わせて笑っている。半分ほど中身の減ったグラスを置くと、再び手を伸ばして封筒を一枚引き抜いた。
「……でも、オネーサンに助けられたのは本当。俺の中で、ヒロインの作り物っぽさが少しずつ消えてくのが、自分でも分かってさ」
「そういえば、最初の頃は何かぎこちなかった気がする、あのヒロイン」
「俺の思う通りに動くお人形さんだったからね、最初は。それが、自分の感情でセリフ喋ってる『人間』になっていくの、書いてても分かってさ……嬉しかった」
「……私の愚痴がそんな風に君の役に立てたのなら、笑われた甲斐もあったと思うことにするわ」
「オネーサン、顔が笑ってないよ」
続けてもう一枚封筒を引き抜くと、今度は二枚まとめて封筒をカウンターの上に重ねた。
気づけば、私の手に残された封筒はもうだいぶ少なくなっている。……これが全て私の手の中からなくなる前に、彼の真意を全て聞くことができるんだろうか。
私の視線に気づいたのか、彼はふと笑うのをやめて、積み重なった封筒の山をじっと見つめた。
「オネーサンを水族館に誘ったのは、そのお礼のつもりだった……だけどさ」
「うん?」
「今から思うと、もうそこからおかしいって、気づくべきだったんだよね、俺」
「……はい?」
思わず間の抜けた声を出してしまった私には何も答えずに……あらぬ方を見ながら、彼が独り言のように呟いた。
「いつもと違う話をして、いつもと違う顔を見て……あ、これはやばいって。けど、もう逃げられなかったんだよな」
「……はあ」
「自分でも、何やってんだろ、俺……って思ったけど。それでも、どうしようもないもんなんだって、ようやく分かって」
「あの、ちょっと待った」
何だかよく分からないことを呟き続ける彼を、私は慌てて止めた。口を噤んだ彼が、ようやく私の方へと視線を戻す。
「……ごめん、分かるように話して。さっきから、君が何のこと話してるのか、全く見えてこないんだけど」
「そりゃ、分からないように話してるからな、俺」
「……あのねぇ」
彼の返事に、呆れてため息しか出ない。そんな私を見て、彼はえらく楽しそうな顔でケラケラと声を上げて笑った。
「じゃあ、ヒントあげる。現役のミステリー作家から直々に謎解きを出されるなんて、なかなかないよ?」
「確かにないけど、私は普通に話してもらえればそれでいいよ?」
「まあ、そう言わずに」
彼はまるで子どものように無邪気な笑顔で、勢いよく封筒を引き抜いた。目の前で封筒をひらひらと振りながら、彼は最初のヒントを口にする。
「一つめ。実はあの話、途中でストーリーを変更してる。さて、どこから変えたでしょう」
「……どこがヒントなの、それ」
「オネーサンなら分かるよ。あの双子が俺だって見抜いたオネーサンなら、ね」
彼に連れられて、『ご褒美』のラーメンを食べに行ったあの夜。確かに私は、彼にそんなことを言った……あの時は、何だかお茶を濁されたまま終わったけど。
「やっぱりそうだったんだ」
「まあね。……だから怖いって言ったんだよ。普段は全然気づかないくせに、そういうところはしっかり見抜かれる」
「……褒めてないよね、それ」
「褒めてる褒めてる」
不服そうに呟く私を軽く受け流すと、彼はカウンターの上に封筒を重ねた。
私は必死に、『アレキサンドライトの彼女』の内容を思い出した。何度も読み返したわけではないけど……特に話が矛盾していたり、おかしな表現があったような記憶はない。
でも、ひとつだけ……これまでの『宝石シリーズ』ならありえなかったことが、今回の話には描かれていて。『宝石シリーズ』を全て読んでいた私は、それにびっくりしたんだった。
「……双子のお兄ちゃん」
「うん?」
「今までは、必ず弟と一緒に謎解きしてた。だけど、今回は途中から一人で事件の調査を始めてる」
ずば抜けた推理力を持ちながら、主人公の一人である双子の兄は、決して表舞台には出ようとしない。いつも弟と一緒に事件に関わっては、自分が解いた謎を全て弟に披露させていた。
なのに、今回は違う。一目惚れした女性の容疑を晴らそうと奔走する弟……最初こそ、弟に花を持たせるかのように陰から手を貸していた兄だったが、途中から別行動を取っていた。
……容疑者の女性が隠していた、別の一面に気づいた時から。
「正解。あれね、実は一度書き直した。編集作業には迷惑かけないからって頼み込んで」
「……まさか、話を差し替えたってこと?」
「そ。水族館から帰って、すぐ編集さんに電話して」
「よく許可もらえたね、そんな無茶なこと……」
「まあ、編集さんにはめちゃくちゃ怒られたし、その後のスケジュールがとんでもないことになったけどさ。でも、出来上がったものを読んだら、編集さんも納得してた」
彼の言葉に、私はふと思い当たった。
水族館に行った後、彼がぱったりと連絡を寄越さなくなったのも。久しぶりに連絡が来たと思ったら、『ご褒美』のラーメンを食べに連れていかれたのも。それ以降、夜にこうして顔を合わせることが少なくなったのも。……彼が話を書き直したせいで、スケジュールが立て込んでいたからだったのか。
でも、どうしてそこまでして……唖然としている私の手から、彼が再び封筒を引き抜いた。
「二つめ。俺はどうして『話を買い取る』ことにしたんだと思う?」
彼はカウンターの封筒を置くと、グラスに残ったままになっていたカクテルを一気に飲み干した。
「……それ、さっき自分で言ったじゃない」
「ん?」
「ナンパに間違われたりしたからだ、って。取材だって、はっきり分かってもらうためだったんでしょ?」
「……では、その心は?」
「はい?」
相変わらずヒントになっていないヒントに、私は思わずこめかみを押さえる。ちらりと彼を睨みつけると、彼は苦笑いしながら封筒をもう一枚引き抜いた。
「別に意地悪してるわけじゃないよ?」
「……だったら、こんな謎解きじゃなくて普通に話してくれればいいんだけど」
「じゃあ、もう少しヒントあげる」
「……普通に話す気はないのね?」
彼はニッと笑うと、引き抜いた封筒を私に向かって差し出す。何のつもりかと訝しげな顔の私に、彼はいたって真面目に問いかけた。
「俺は最初、オネーサンの話をこれで『買い取りたい』って言ったろ? ……もちろん、取材に協力してもらったっていうお礼なんだけど、本当はちょっと違う」
「他に意味があるの?」
「あるよ。前に言ったでしょ、これは『防衛線』だって」
水族館に行ったあの日、彼は私に封筒を差し出しながらそう言っていた……何だかとても苦しそうに。
結局、私には分からなかった。彼が、何故そんな顔をしていたのかも。お礼をもらうような話もしていないのに、封筒を差し出した理由も。
「……ねえ。君は、これで何を守ってたの?」




