↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アレキサンドライトの彼女  作者: 遊久原奏


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/19

アレキサンドライトの彼女

彼はぶっきらぼうにそう言うと、私をちらりと横目で見た。どこか決まりの悪そうなその顔は、いつかの水族館で見た『中村晴信』の顔だった。


「……だから、始まらないまま終わらせるしかなかった。一応、バッドエンドでもないけど、メリーバッドエンドってのとも違うかな。……始まってすらいないもんな」

「幸せにはなれないって、そういうこと……」

「そ。まあ、話としては上出来だって、編集さんにお褒めはいただけたけどね」

「……あんまり嬉しそうには見えないけど」

「まあね」


彼はコップを手に取ると、一口また一口と水を口にした。薄暗い照明のせいではっきりとは見えないが、首筋や耳がほんのりと紅く染まっている気がする。

私は、ようやくカウンターの上のグラスに手を伸ばした。彼の話を聞くのに必死で、結局手もつけないまま……グラスの表面には、既に水滴がまとわりついている。少し温くなったカクテルを一口飲むと、私は思いきって口を開いた。


「……今からじゃ、もう無理?」

「はい?」

「お兄ちゃん、幸せにしてあげられない?」


……ゴホッと彼が勢いよく噎せた。

彼は口元を手の甲で拭いながら、目を丸くして私の顔をじっと見ていた。それから、何だか困ったように視線をうろうろとさまよわせて……再び私の顔をじっと見つめた。ひとつひとつ、言葉を探しては噛んで含めるように、ゆっくりと私に語りかける。


「……あのさ」

「うん」

「俺はこういうのに凄まじく疎いというか、鈍感というか」

「さっきそう言ってたね」

「だからさ、ひょっとして思いっきり勘違いとかしてる可能性もあるんで……ちょっと確認してもいい?」

「どうぞ」


ふうっと大きく息を吐くと、彼はどこか不安げな表情で再び口を開いた。


「……お兄ちゃんを幸せにするって、オネーサン、ちゃんと意味分かって言ってます?」

「分かってるよ?」

「俺がどういうつもりであの話書いてたのかも、ちゃんと伝わってます?」

「そのつもりだけど……」

「……もし間違えてたら、俺、一生立ち直れないんだけど」


埒が明かないという顔で、彼は深くため息をついた。ちらりと腕時計を確認すると、カウンターの上に置いてあった封筒やスマホをバッグに投げ込み、席を立つ。


「……ごめん、続きは外でいい?」


そう言うと、彼はさっさと支払いを済ませ、私の腕を掴んでバーを足早に出ていった。

バーを出ると、彼は地下鉄の駅とは反対の方へと歩き出した。どこに向かおうとしているのか分からないまま、私は彼に腕を引かれて小走りに大通りを抜けていった。

どれぐらい歩いただろうか……大通りから少し外れた、人影もまばらな裏通りの入り口で、彼は急に足を止めた。

くるりと振り向いた彼は、私の腕を掴んだまま声をひそめて私に話しかけた。


「あのね」

「はい?」

「お兄ちゃんを幸せに、って言うけどさ」

「うん」

「それは、俺のこと好きになってくれるってことなんだけど? いいの?」

「いいの、っていうか……だって、私はずっと君のこと好きだったよ?」


彼が一瞬身体を固くした。私の顔と私の腕を掴んだ自分の手に交互に視線を移しながら、何だか泣きだしそうな顔で彼は尋ねた。


「オネーサン、本気?」

「……何で」

「だって、今までいろいろ話しただろ?」

「うん。……って言っても、ちゃんと話してもらってから、そんなに経ってないけど」

「そんな奴だよ? それでもいいの?」


一度思いきって口にしてしまえば、もう何も迷うことはなかった。何をあんなにうじうじと悩んでいたのかと、私は何だかおかしくなる。


「……オネーサン、何で笑ってんの」


彼が、何だか不満気な声を上げた。どうやら、自分でも気づかないうちに顔が緩んでいたらしい。私は、むくれた彼を見上げて言った……彼にちゃんと伝わらないのなら、無意味に遠回しな言い方なんて、もう必要ない。


「……好きだな、って思って」

「はい?」

「ハルさんが好きだな、って。アザラシ見て嬉しそうな顔してたり、マイワシ見てお腹空いたって言ったり、ご褒美のラーメンを今でも食べに行ったり、雑誌が手に入れられなかった代わりにゲラを用意してくれたり。……そういうハルさんが、私は」

「ちょ、待った」

「うん?」

「……ハルさんは、やめ。やばい」


私の腕を掴んでいた彼の手から、すっと力が抜けた。いつの間にか逸らされていた彼の視線が、所在なさげに宙を泳いでいる。


「……今回はちゃんと、自分の気持ちを確かめてからだから。流されてないから。『中村晴信』って人がどんな人か、ちゃんと分かって、それでちゃんと好きになったから。……それじゃダメかな」

「ダメじゃない」


慌てたように、彼が声を上げた。彼は少し迷ったように黙りこくっていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……俺、いつかあの話の続きを書けたらって思ってる」

「『アレキサンドライトの彼女』の?」

「そ。今すぐには難しいかもしれないけどさ。でも、あのお兄ちゃんの幸せな結末は、いつか必ず書きたいって……だから」


彼は深く息をすると、覚悟を決めたように顔を上げて……はっきりとした口調で私に言った。


「……俺に、幸せな結末を見せてくれない?」


……そう言った後で、何故か彼は首を傾げた。

一体何が気に入らないのか、彼はえらく難しそうな顔をしながら、口の中で何かぶつぶつと繰り返している。


「俺が幸せにしてもらってどーすんだよ。……まあ、結果としては間違ってないけどさ。でも、何か微妙に引っかかるよな、そこが」

「……そこにこだわります?」

「まあ、一応ね。……男の矜恃ってやつ?」


苦笑いする私に、彼はいたって真面目に答える。ぶつぶつ呟きながら彼はしばらくの間考え込んでいたが、突然ふっと笑い出した。


「まあ、でも、オネーサンがいてくれれば、何でもいいか」

「……男の矜恃はいいの?」

「だって、どっちにしろ同じことだろ? 結末は二人で見るもんだし……ああ、でも、一応ちゃんと言っとかないとね。オネーサンの鈍感っぷりは、結構手強い」

「……結構酷い言われようなんだけど」


今度は私がむくれる番だった。そんな私を宥めるように微笑むと、彼は少し身を屈めて私の耳元へと口を寄せた。


「俺、オネーサンがいれば、幸せな結末が書けるから。だから、それまでは、オネーサン……俺と一緒にいてくれる?」

「……それまででいいの?」

「うん。まあ、いつ書けるかは分かんないんだけどね。十年後? いや、二十年後か? ……死ぬ間際かもしんないなぁ」

「……あのねぇ」

「ごめん。ちゃんと言います」


照れ隠しなのか、この期に及んでもまだとぼけたことを言う彼に、私は小さくため息をついた。半ば呆れ顔の私を見て、彼は何だか嬉しそうに笑っている。

ひとしきり笑った後、急に訪れた沈黙の中で、不意に彼の手が私に向かって伸びてきた。……気づいた時には、彼が今までになく私のすぐ近くにいた。彼の体温も、匂いも、跳ねるような鼓動も、密やかな息遣いまでもが、全て手に取るように分かるほどに。

耳元で、彼の声が響いた。


「俺、リコさんが好きだ」


少し低くて、優しくて、どこか切羽詰まったような真剣な声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。