アレキサンドライトの彼女
彼はぶっきらぼうにそう言うと、私をちらりと横目で見た。どこか決まりの悪そうなその顔は、いつかの水族館で見た『中村晴信』の顔だった。
「……だから、始まらないまま終わらせるしかなかった。一応、バッドエンドでもないけど、メリーバッドエンドってのとも違うかな。……始まってすらいないもんな」
「幸せにはなれないって、そういうこと……」
「そ。まあ、話としては上出来だって、編集さんにお褒めはいただけたけどね」
「……あんまり嬉しそうには見えないけど」
「まあね」
彼はコップを手に取ると、一口また一口と水を口にした。薄暗い照明のせいではっきりとは見えないが、首筋や耳がほんのりと紅く染まっている気がする。
私は、ようやくカウンターの上のグラスに手を伸ばした。彼の話を聞くのに必死で、結局手もつけないまま……グラスの表面には、既に水滴がまとわりついている。少し温くなったカクテルを一口飲むと、私は思いきって口を開いた。
「……今からじゃ、もう無理?」
「はい?」
「お兄ちゃん、幸せにしてあげられない?」
……ゴホッと彼が勢いよく噎せた。
彼は口元を手の甲で拭いながら、目を丸くして私の顔をじっと見ていた。それから、何だか困ったように視線をうろうろとさまよわせて……再び私の顔をじっと見つめた。ひとつひとつ、言葉を探しては噛んで含めるように、ゆっくりと私に語りかける。
「……あのさ」
「うん」
「俺はこういうのに凄まじく疎いというか、鈍感というか」
「さっきそう言ってたね」
「だからさ、ひょっとして思いっきり勘違いとかしてる可能性もあるんで……ちょっと確認してもいい?」
「どうぞ」
ふうっと大きく息を吐くと、彼はどこか不安げな表情で再び口を開いた。
「……お兄ちゃんを幸せにするって、オネーサン、ちゃんと意味分かって言ってます?」
「分かってるよ?」
「俺がどういうつもりであの話書いてたのかも、ちゃんと伝わってます?」
「そのつもりだけど……」
「……もし間違えてたら、俺、一生立ち直れないんだけど」
埒が明かないという顔で、彼は深くため息をついた。ちらりと腕時計を確認すると、カウンターの上に置いてあった封筒やスマホをバッグに投げ込み、席を立つ。
「……ごめん、続きは外でいい?」
そう言うと、彼はさっさと支払いを済ませ、私の腕を掴んでバーを足早に出ていった。
バーを出ると、彼は地下鉄の駅とは反対の方へと歩き出した。どこに向かおうとしているのか分からないまま、私は彼に腕を引かれて小走りに大通りを抜けていった。
どれぐらい歩いただろうか……大通りから少し外れた、人影もまばらな裏通りの入り口で、彼は急に足を止めた。
くるりと振り向いた彼は、私の腕を掴んだまま声をひそめて私に話しかけた。
「あのね」
「はい?」
「お兄ちゃんを幸せに、って言うけどさ」
「うん」
「それは、俺のこと好きになってくれるってことなんだけど? いいの?」
「いいの、っていうか……だって、私はずっと君のこと好きだったよ?」
彼が一瞬身体を固くした。私の顔と私の腕を掴んだ自分の手に交互に視線を移しながら、何だか泣きだしそうな顔で彼は尋ねた。
「オネーサン、本気?」
「……何で」
「だって、今までいろいろ話しただろ?」
「うん。……って言っても、ちゃんと話してもらってから、そんなに経ってないけど」
「そんな奴だよ? それでもいいの?」
一度思いきって口にしてしまえば、もう何も迷うことはなかった。何をあんなにうじうじと悩んでいたのかと、私は何だかおかしくなる。
「……オネーサン、何で笑ってんの」
彼が、何だか不満気な声を上げた。どうやら、自分でも気づかないうちに顔が緩んでいたらしい。私は、むくれた彼を見上げて言った……彼にちゃんと伝わらないのなら、無意味に遠回しな言い方なんて、もう必要ない。
「……好きだな、って思って」
「はい?」
「ハルさんが好きだな、って。アザラシ見て嬉しそうな顔してたり、マイワシ見てお腹空いたって言ったり、ご褒美のラーメンを今でも食べに行ったり、雑誌が手に入れられなかった代わりにゲラを用意してくれたり。……そういうハルさんが、私は」
「ちょ、待った」
「うん?」
「……ハルさんは、やめ。やばい」
私の腕を掴んでいた彼の手から、すっと力が抜けた。いつの間にか逸らされていた彼の視線が、所在なさげに宙を泳いでいる。
「……今回はちゃんと、自分の気持ちを確かめてからだから。流されてないから。『中村晴信』って人がどんな人か、ちゃんと分かって、それでちゃんと好きになったから。……それじゃダメかな」
「ダメじゃない」
慌てたように、彼が声を上げた。彼は少し迷ったように黙りこくっていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……俺、いつかあの話の続きを書けたらって思ってる」
「『アレキサンドライトの彼女』の?」
「そ。今すぐには難しいかもしれないけどさ。でも、あのお兄ちゃんの幸せな結末は、いつか必ず書きたいって……だから」
彼は深く息をすると、覚悟を決めたように顔を上げて……はっきりとした口調で私に言った。
「……俺に、幸せな結末を見せてくれない?」
……そう言った後で、何故か彼は首を傾げた。
一体何が気に入らないのか、彼はえらく難しそうな顔をしながら、口の中で何かぶつぶつと繰り返している。
「俺が幸せにしてもらってどーすんだよ。……まあ、結果としては間違ってないけどさ。でも、何か微妙に引っかかるよな、そこが」
「……そこにこだわります?」
「まあ、一応ね。……男の矜恃ってやつ?」
苦笑いする私に、彼はいたって真面目に答える。ぶつぶつ呟きながら彼はしばらくの間考え込んでいたが、突然ふっと笑い出した。
「まあ、でも、オネーサンがいてくれれば、何でもいいか」
「……男の矜恃はいいの?」
「だって、どっちにしろ同じことだろ? 結末は二人で見るもんだし……ああ、でも、一応ちゃんと言っとかないとね。オネーサンの鈍感っぷりは、結構手強い」
「……結構酷い言われようなんだけど」
今度は私がむくれる番だった。そんな私を宥めるように微笑むと、彼は少し身を屈めて私の耳元へと口を寄せた。
「俺、オネーサンがいれば、幸せな結末が書けるから。だから、それまでは、オネーサン……俺と一緒にいてくれる?」
「……それまででいいの?」
「うん。まあ、いつ書けるかは分かんないんだけどね。十年後? いや、二十年後か? ……死ぬ間際かもしんないなぁ」
「……あのねぇ」
「ごめん。ちゃんと言います」
照れ隠しなのか、この期に及んでもまだとぼけたことを言う彼に、私は小さくため息をついた。半ば呆れ顔の私を見て、彼は何だか嬉しそうに笑っている。
ひとしきり笑った後、急に訪れた沈黙の中で、不意に彼の手が私に向かって伸びてきた。……気づいた時には、彼が今までになく私のすぐ近くにいた。彼の体温も、匂いも、跳ねるような鼓動も、密やかな息遣いまでもが、全て手に取るように分かるほどに。
耳元で、彼の声が響いた。
「俺、リコさんが好きだ」
少し低くて、優しくて、どこか切羽詰まったような真剣な声だった。




