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第30話「虚像の秩序」と「意識の未来」

 地下神殿の中にあった大きな門のような扉を愛鈴とユフィリアで開いた時でした。左手で口元を覆ってしまいながらも俯いてしまいたくなるような、今までとは比べものにならないほどの黒い霧が流れ込んできたのです。それは記憶に残りました。でもその時にーーしっかり右手で握っていたはずのユフィリアの姿が消えています。


「ぼくの周りで粛々と降り続く雨はなかなか止むことはないのかもしれないね」


 もう愛鈴にとってはユフィリアが消えてしまったことは困惑というよりも不安でした。濃霧のような黒い霧を左手で乱雑に払うようにして行く先も見えない地下神殿をすぐにひとりで進み始めましたが、ユフィリアのことを探そうとしてもどこにも彼女の姿は見当たりません。誰よりも愛鈴が彼女のことは知っているはずなのに。方向感覚も失われていく霧の世界で迷ってしまいました。そんな中で愛鈴が何かを感じて辿り着いたのはーー虚像の空間です。どこか科学的だと思いました。神殿という名前とは不釣り合いなほどに。これがいま本当にこの世界に存在しているものでないことはわかります。こんなにも青年と女性の近くにいるのに。まるで愛鈴は読者の視点でふたりを見ているような。そんな隔たりを感じていましたから。


「もちろん信仰でしかもたらされないものはあるよ。そんな世界をぼくだって望んでいた。でも安寧と秩序はその範囲ではないだろ? あの”感染者たちの凍結文書”が本当に正しいのならーーもう間も無くでこの世界は取り残されてしまう。君だってそのことにはもう気付いているはずだ。いつまでぼくたちはこのまま逃れられることのできない現実から逃れればいい? ーーぼくは君だけを信じているんだ」


「落ち着いてよヴィクリス。わたしにだってあなたの考えていることはわかるわ。理解だってできる。でもまだわずかながらも時間は残されているしーーあなたの考えている方法は一歩間違えれば大きな過ちへと収束してしまうわ。それがどうしてあなたが守りたいはずのこの世界の人々にとって不幸せでないと言えるの?」


「ぼくは君の建前の感想が聞きたいんじゃない。もうそこに回避できない未来は迫っているんだ。偶然ではない根拠だってある。だから君の本当の思いを聞きたい」


「わたしはあなたが何に心を奪われているのか知りたいの。まずはそれを教えて」


「ぼくは何にも心なんて奪われていない。それは珍しい君の独りよがりな考えだ」


「あなたはいつだってもっと惑うような瞳というかーーそんな優しさを持った人だったわ。この世界の歴史を真っ白な灰にしてもいいなんて考える人ではなかった」


「ぼくはもっと君のことを賢い女性だと思っていた。その澄んだ美しい瞳を見て」


 青年は愛鈴の方をずっと向いていましたが、少女は青年と向き合うような形だったのでーー愛鈴は彼女がどんな表情をしているのかなんてわからないはずでした。ずっと後ろ姿を見ているだけだったので。でも彼女の後ろ姿だけでもなぜか愛鈴は彼女の心が分かってしまったのです。素肌に彼女の哀愁が触れてしまったような気までして。それは偶然ではなく。まるで時計仕掛けのように。愛鈴は自分まで無力感を味わってしまったような気がして、この場にいることも躊躇われたのですが、青い瞳をしていて純白の髪の青年がこちらに向かって歩いてくるので、愛鈴はまさか自分が気付かれているのかと思いましたが、”上映されている映画の観客”でしかないのにそれをありえないとすぐに考え直し、その時の青年が出て行った自動扉がこちらにあるんだろうと納得をしましたが、青年とすれ違う際に愛鈴だけは青年を横目で見ていると、今まで後ろ姿を向けていた少女が去っていこうとする青年へと彼の名前を呼びかけるようにして振り返ってーー愛鈴の心臓は大きく脈打ちました。なんだかここに長居をするのは気まずかったのはもちろん、……そもそもぼくはこの不思議な空間を早く出てそろそろユフィリアのことを探さないといけない……という考えがあった愛鈴がーーユフィリアのことも忘れて立ち竦むほどに。


 もちろん愛鈴はあの少女と出会ったことはありません。もしも一度でも出会っていたら、少女が誰なのかも多少は予想できたはずですから。でも愛鈴は彼女のことを誰よりも知っていました。彼女は愛鈴が眠っている時に見る夢に数えられないほどに現れ、愛鈴がどうすればいいのかわからなくなった時には優しく微笑んでくれ、彼女の温かい命が自分の中にいるということを忘れたことはありませんから。


 愛鈴にとっては自分の心の中以外で初めて彼女の姿を見て思わず、ユフィリアのことどころか先ほどの青年はもちろん、あの少女はもうこの世界にはいない存在なんだということも意識の中から失ったようにして、彼女の方へと駆け寄ってーー。


「お母さん? ねぇお母さんでしょ? ほらっ。ぼくはーー」


 もちろん想いは詰まっていましたが、想いが詰まったせいで声も詰まって、伝えたいことがありすぎるせいで伝えたいこともわからなくなった愛鈴が涙を浮かべたようにして、初めてこんなに近くなれた自らの母親のもとに歩み寄っても、彼女の瞳には愛鈴は映ることはなく、いまにも触れて見たいのに目の前の母親には触れ合えないことに、愛鈴が心が苦しくなってしまったように胸元を強く掴むとーー。

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