王宮の医者
翌日からはいつもの日常――すなわち、過酷な騎士団の訓練の日々が戻ってきた。
朝から夕方まで、汗を流しながら剣を振り、仲間たちと模擬戦をこなす。いつものルーティンに戻ったことで、アーサーに言われた言葉や手の甲に残ったキスの感触といった甘い混乱も、忙しさにかき消されていくようだった。
(そうだ、私は第二騎士団の一員なんだから、今は恋愛なんて考えてる場合じゃない……!)
頭の片隅でモヤモヤとくすぶる焦燥感を、力任せに素振りの回数へと変換していく。
目の前の訓練に集中し、一つひとつの課題をクリアしていくうちに、私の心は徐々に落ち着きを取り戻し、いつもの調子を取り戻していったのだった。
ガツン、と木刀を受け止めた衝撃が、右の肘から肩にかけて嫌な痺れを残した。
「いっ!」
模擬戦の最中、ちょっとした体勢の崩れを突かれて受けた一撃。大した怪我じゃない――そう思って制服の袖を捲り、そのまま訓練を続けようとした私だったが、それを許さない男がいた。
「おい、そこまでだ。」
凄まじい低音を響かせながら、ウォルターが鬼のような形相で歩いてくる。そして私の右腕を見るやいなや、眉間に深いシワを寄せた。
「……すぐに医務室へ行く」
「えっ、あ、これくらい全然平気です! 薬草を塗っておけばすぐに治りますし、訓練の続きが――」
「行くぞ。」
私の言い訳を遮るなり、ウォルターは有無を言わせぬ力で怪我をしていない方の腕を掴み、強引にその場から連れ出そうとした。
「ちょ、ウォルター先輩、そんな大げさな……! 痛くもないですし、すぐ治りますから!」
「うるさい、黙って従え。お前のその『これくらい平気』というのは悪い癖だ。」
周囲の団員たちが「あーあ、またウォルターの過保護が発動してるよ。」「リズはもう少し自分の体に優しくしたほうがいいよな。」なんてヒソヒソと笑っているのが聞こえる。
結局、私はウォルターに引っぱられるようにして訓練場を連れ出され、そのまま医務室に行くはめになったのだった。
(ウォルター先輩、心配性っていうか、本当に過保護だなあ……)
ため息をつきつつも、私のためにそこまでピリピリしてくれる先輩の背中を、私は大人しく眺めるしかなかった。
ウォルターと一緒に医務室へ向かう途中、団長に呼び止められた彼は「すぐに終わるから、先に医務室に行っていろ」と告げたため、私は一人でトボトボと廊下を進んでいた。
医務室の部屋の前に到着し、軽くノックをする。
「失礼します……。」
声をかけてそっと扉を開けると、そこにいたのは白衣をまとった、青い髪を一つにスッキリとまとめ上げた、切れ長の黒い瞳を持つ華奢な男。年齢は私と同じか少し上くらいだろうか。繊細な美しい紫色を漂わせるその青年は、私が入ってきたのを見ると、手元のカルテのような書類からふっと視線を上げた。
「やあ、君は第二騎士団のリズだね。怪我でもした?」
鈴を転がしたような、どこか涼やかで落ち着いた声。彼が椅子から立ち上がると、すらりとした長身が際立つ。
「あ、はい! リズ・テイラーです。あの、訓練中に手が痺れてしまって。」
「ああ、なるほど。じゃあ診せて。」
彼はそう言ってふっと柔らかく微笑むと、手招きをして私をベッドへと促した。
「僕は王宮専属の医者を務めている、オルフェ・ランカスターだ。よろしくね、リズさん。」
オルフェと名乗ったその青年は、慣れた手つきで道具を準備すると、さっそく治療を始めたのだった。
オルフェの整った顔立ちは一見すると物静かな優男という印象なのだが、一度口を開くと、そのイメージはものの見事に崩れ去った。
「いやあ、それにしてもルベウス峠の任務、本当に大変だったみたいだねえ! 商会の護衛なんて面倒な仕事に巻き込まれて、君も苦労したでしょう? そういえばこの前の検診でもさ、誰も彼も筋肉痛だの打撲だので大騒ぎで、僕なんか一日中薬をすり潰してばかりで肩が凝っちゃってさあ、全く騎士団の連中は手がかかるんだから……って、あ、そこ痛む? ちょっと力を抜いてね、そうそう、このハーブ湿布は匂いが強いんだけど効き目は抜群だから我慢してよ、ねえ聞いてる?」
(……すごっ、息継ぎする暇もないくらいめっちゃ喋る……!)
テキパキとした手つきで治療を進めながら、オルフェの口は一秒たりとも止まらない。私は圧倒されつつも、「は、はい……お疲れ様です……。」と相槌を打つのが精一杯だった。
彼の指先が私の肩や腕のコリをほぐすため、そっと肌に触れたその瞬間だった。
(――っとと、この筋肉の硬直具合は日頃の素振りが原因だねえ、まったく、真面目なのはいいことだけどもう少し加減というものを覚えたほうがいいんじゃないの? あ、そういえば今日の朝食のスープ、塩気がちょっと足りなかった気がするなあ、帰りに医務室の買い出しついでに食堂のおばちゃんに文句言いに行こうかな、いやでもあのおばちゃん怖いからやめておこう、そうしよう……って、おっと患者の治療中に余計なこと考えてる場合じゃないね、ちゃんと集中しないと! でもこの子、思ったより肌が荒れてないのはちゃんと睡眠取ってる証拠かな? えらいえらい……)
(……え……? これ、心の声だよね!?)
心の声だというのに、外に漏れている時と全く変わらないどころか、脳内でも絶え間なくペチャクチャと猛スピードでおしゃべりしている。
あまりの情報の過多と、心の声のうるささに、私はぽかんと口を開けたまま固まってしまうのだった。
(――って、この湿布の匂い、ちょっとハッカが強すぎたかなあ。でも消炎効果はこっちの方が高いし……あ、そうだ、今日の夕飯のシチュー、お肉多めにしてって食堂のおやじさんに頼んでおこうかな……)
「たしかにお肉は絶対に多めの方がいいですねぇ……って、あっ!」
思考に引っ張られるまま、うっかり独り言に答えるように口走ってしまい、私はあわてて自分の両手で口をふさいだ。
(……や、やっちゃった……っ!)
「あ、いまのはその、なんとなく、そんな気がして……!」
顔を真っ赤にしてしどろもどろで弁解する私を前に、オルフェはピタリと動きを止め、丸い黒い瞳を瞬かせた。しかし、その思考は止まるどころか、脳内から猛烈な勢いで声が流れ込んでくる。
(――えっ、嘘、いま僕が心の中で考えてた夕飯のシチューの話に完璧に返事しなかった!? なんでお肉多めが良いって分かったの? まさか僕の思考がダダ漏れてる……!? いやいやそんなバカな、え、でも待って、もしかしてこの子、僕の考えてることが読めるの? そんなことある!? え、めっちゃ気になる、どうやってやったの、ねえ、ねえ!?)
脳内での大パニックと質問の嵐をそのまま垂れ流しながら、オルフェはぐいっと私の顔に自分の顔を近づけてきた。
「ちょ、ちょっと待ってリズさん! 今の、僕が心の中で思ってたシチューの話だよね!? なんで僕が声に出してないことを知ってるの? え、テレパシー? それとも僕、無意識に声に出てた? いやそんなはずは……ねえ、どうやって人の考えてることが分かったのか教えてよ、ねえ、気になって夜しか眠れなくなっちゃうからさ!」
驚異的な早口でまくし立てながら、オルフェは私の両手をガシッと掴み、キラキラと好奇心に満ちた色で激しく揺さぶってくるのだった。




