近い距離
アシュレイ商会を出て、私はそのまま騎士団の寮へと戻ってきた。
自室の扉を閉めて背中を預けた瞬間、静寂に包まれた部屋の中で、自分の心臓がうるさいほど激しく脈打っているのが分かる。
(ど、どうしよう……っ……!)
熱を持った右手をもう片方の手でぎゅっと握りしめる。手の甲に残っているはずの温もりや、アーサーが落とした唇の感触が、脳裏で何度も再生されては全身の血液が沸騰するように熱くなった。
「い、いやいやいや……! 商会長があんな、その、騎士に対する挨拶とか、特別なスキンシップの一環だったのかも……?」
必死に頭をぶんぶんと横に振って冷静になろうとするけれど、あの時の真剣すぎる瞳や、「本気で君をひとりの女性として。」という甘い声の響きが、どうしても頭から離れてくれない。
これまでの人生、恋をしたことがなかった私にとって、この未知数の胸の高鳴りはあまりにも刺激が強すぎた。
「頭を冷やそう、そうしよう……」
私はパタパタと自分の両頬を両手で軽く叩き、真っ赤になった顔をごまかすようにベッドへとダイブした。
しかし、布団に顔を埋めても、脳裏で暴れる甘い混乱はおさまる気配を見せないのだった。
「ううっ……やっぱり、全然眠れない……!」
ベッドの中で何度も転がり、悶々と考え事をしていたけれど、アーサーにされたことや言われたことが頭の中でぐるぐると回り続けて一睡もできる気がしない。
熱を持った体をどうにかしようと、私は深夜の静まり返った寮の廊下へ抜け出し、階下の共同水飲み場へと向かった。
コップに冷たい水を注ぎ、一気に飲み干す。
ふぅ、と小さく息をついて顔を上げたその瞬間――暗がりが広がる共用スペースの一角に、見覚えのある大きな人影が立っているのに気づき、心臓が跳ね上がった。
「ひゃっ……!? ウォルター先輩!?」
驚いて声を上げると、そこにいたのはシャツ姿でマグカップを手にしていたウォルターだった。彼も突然のことでわずかに目を見開いたが、すぐにいつもの険しい眉間に戻り、じっと私を見下ろしてきた。
「……リズか。こんな夜中にどうした。」
「い、いえ、ちょっと……喉が渇いてお水を飲みに……。ウォルター様こそ、こんな時間にどうされたんですか?」
私の問いに、ウォルターはわずかに視線を逸らし、気まずそうにゴホンと小さく咳払いをした。
「……俺も、少し眠れなくてな。夜回りのついでだ」
「えっ、ウォルター様でも眠れないことってあるんですか?」
驚きつつも、どこかピリピリとした空気をまとっている彼に、さっきまでアーサーのことでいっぱいいっぱいだった頭が少しだけ現実引き戻される。
すると、ウォルターは鋭い瞳をさらに細め、私の顔をじっと観察するように見つめてきた。
「……おい。お前その顔、やけに赤いぞ。何かあったのか?」
(ぎくっ……!? 顔が赤いって、絶対さっきのアーサー様のせいで熱が引いてないからだ……!)
「な、なんでもありませんっ! 何もありませんよ、ははは……!」
私は慌てて両手で自分の頬を必死に押さえ、すごい勢いで首を横に振る。
「ただの寝不足です! ほら、もう夜も遅いですし、ウォルター先輩も早くお休みになってくださいね! それではおやすみなさい!」
私の不自然すぎる言い訳と、あからさまに挙動不審な様子を目の当たりにして、ウォルターの眉間にはさらに深く険しいシワが刻まれた。
「……待て、リズ。」
逃げ出そうと一歩踏み出した私の背中を、低く押し殺したような声が引き止める。
振り返る間もなく、足音が静かに、しかし逃げられないほどのプレッシャーを伴って近づいてくる。ウォルターが目の前に立ち塞がった瞬間、圧倒的な体格差と、どこか切羽詰まったような熱を帯びた気配に、私は思わず息を呑んだ。
「な、なんですかウォルター先輩……私、本当に眠いので……っ」
引きつった笑顔で言い訳を続けようとする私を、ウォルターはただじっと、射抜くような鋭い視線で見つめている。その瞳には、私の隠し事に対する不信感だけでなく、言い知れない焦燥感の色が滲んでいた。
「……隠すな。あの男と二人きりで何を話した。お前がそんな風に動揺しているのは、あいつのせいだろう。」
図星を突かれた私は、反射的に目を泳がせる。
(ぐっ……! なんでそんなに勘がいいの、ウォルター先輩……っ!)
隠そうとすればするほど、ウォルターとの距離はさらに詰まり、逃げ場のない空間へと追い込まれていく。
あまりの至近距離と、一切逃げ場のない鋭い追及に、私の頭は再びパニックを起こしかけていた。
(どうしよう、なんて言い訳しよう……! 「ただのお礼です」とか言ったら、余計にあの時の手の甲のキスのことまで思い出して顔が真っ赤になっちゃう……!)
しどろもどろになりながら、完全に挙動不審でオロオロと視線を彷徨わせる私。その慌てふためき様と、明らかに動揺しきって限界を迎えている様子を間近で見つめ、ウォルターはふっと息を吐き出した。
先ほどまでの鋭く険しかった気配が、嘘のようにすっと和らいでいく。
「……ふっ」
ウォルターは呆れたような、それでいてどこか愛おしさを噛み締めるような、複雑な笑みを浮かべた。
そして、私の混乱しきった様子にようやく気が済んだのか、大きな手がふわりと私の頭に伸びてくる。
ガツガツと雑に扱われるのかと思いきや、その重みは驚くほど優しく、頭を撫でる指先はどこか名残惜しそうに何度か私の髪をなでた。
(……お前は、本当に隙だらけだな。)
瞬間、切なそうな心の声が聞こえる。ウォルターはこれ以上深く突っ込むのをやめ、スッと体を引いた。
「これ以上夜更かしするな。……おやすみ。」
それだけ言い残すと、ウォルターは自分のマグカップを手に、静かな足取りで自室の方へと歩き去っていく。
私はその場に取り残されたまま、大きく目を開けた。
頭の上にはまだ、ウォルターの大きな手の温もりがふんわりと残っているような気がして、さっきまでの激しい動揺とはまた違う、奇妙な気恥ずかしさが胸の奥をくすぐる。
(……なんか、今日のウォルター様、いつもより優しかったような……?)
ぐちゃぐちゃになった頭を抱えながら、私は自分の部屋へとすごすご引き返すのだった。




