第13話:モブと謎のジムSIS
早朝、日が昇る前。
「おはようございます、アニキ!」
可愛らしい顔立ちに黒髪、青い瞳のレナードが、大きなリュックサックを背負い、完璧に整えられた制服姿で部屋の前に立っていた。
ご機嫌でニコニコとしたその様子は、起きたばかりで髪がボサボサの毛玉のように丸まっている僕とはまるで対照的だった。
「それでは、お邪魔しますね」
「おう、配置したいものは好きに置いてくれ。俺のプライベートスペースは分けてあるからな」
レナードは頷いて足を踏み入れると、荷物を置いて自分の寝袋を敷いた。当然、僕はベッドで寝て、割り勘をしている側は床になにか敷いて寝る。それが元の所有者としての基本的な権利というものだ。
僕が一人で勝手に納得して頷いていると、そのままシャワーを浴びて着替え、トレーニングウェア姿で出てきた。
「ん? 荷物はそれだけか?」
見た限り、レナードが持ってきたのは敷布団代わりに使うマットと衣類、それに杖や本、ペンや鉛筆といった学習道具くらいなものだった。
「あ、はい。残りは売払ってしまいましたから。アニキの生活スペースの邪魔になっては申し訳ないですし」
「別によかったのに。スペースなんていくらでも余ってるぞ」
「ハハハハ……」
レナードは動きを止め、その目は空虚になっていた。
「実は……先日行ったカジノ、借金システムがあったんです。全財産をスッたら終わり、というわけではなくて。当時の僕は浅はかにも、全額突っ込んでしまって」
「なるほどな」
「というわけで、ええと……そういうことです。家は没収されてしまいましたが、カジノ側の借金をそのまま放置するわけにもいきませんし。まずは分けた不用品を売り払うことにしたんです。幸い、馴染みの店主が全部買い取ってくれたので、どうにか息を吹き返せました」
「ふむ」
「……いくら借りてるのか、聞かないんですか?」
「じゃあ聞くけど、いくら借りてるんだ?」
「百万ユグドラシルです」
ちなみに、1ユグドラシルは僕の前世の国の通貨価値と同じだ。
「期日通りに返済しないと、学校や新しい宿舎まで追ってくる可能性があるんです。カジノの探偵はかなり荒っぽいらしくて――アハハハ」
そう言い終えると、奴は自分でボケツッコミをするかのように高らかに笑った。
「なあ、今すぐここから追い出していいか?」
「ええっ!!!?」
「冗談だ。黒スーツの男たちがドアを叩く事態にならない限り、追い出したりはしないとやる」
「お、追い出さないでください! もしアニキに捨てられたら……僕、これからどうすればいいのか分からなくなっちゃいます!」
「安心しろって、捨てないよ。だから冗談だって言ったろ」
冗談なんて嘘っぱちだ。追い出すと言った最初の瞬間は本気中の本気だった。だが、ふと思い出したのだ。キャサリンさんはこの男のことを知っている。もし興味を持たれて代わりに面倒を見るなんてことになれば、ゲームの主人公ルートに引き戻されかねない。
キャサリン様を守るため(主人公をブロックするため)なら、男の男臭さに耐えることくらい、いくらでも受け入れてやる。
「安心してください、緊急事態が起きても予備の計画がありますから」
「へえ?」
「一か八かの勝負です!」
「やめろ、一か八かとか言うのは」
「大丈夫ですよ! 今回はスラム街の近くにある、裏市場みたいな違法な場所に変えますから。カジノで親しくなったおじさんが教えてくれたんです。そこならたくさん稼げるし、全員得をして絶対にイカサマはないって!」
「まったく上手くいく気がしないんだが……足りないものがあるなら俺が面倒を見るから、わざわざギャンブルの危険を冒す必要はない」
頼むから、心からお願いだから、自分から借金を作るのはやめてくれ。あと見知らぬおじさんに騙されるのもいい加減にしてくれ。
「ア……アニキ!!!」
レナードは両腕を広げて、抱きつかんばかりに歩み寄ってきた。僕は慌てて手で制した。
「近寄るな。男の臭いは嫌いなんだ。特にギャンブル中毒のやつはな」
「ひどいです!!」
僕は大きくため息をつき、レナードから距離をとると、エプロンを取り出して身につけた。
「何か食べたか?」
「ええと」
「軽く何か作ってやるよ」
「ア……アニキ」
僕はレナードと自分の分の朝食を作り、部屋を出て元の体育館にいる継羽満月のもとへ向かった。
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継羽満月……来ていない。何の形跡すらもない。
まさか、バックレたのか?
まったく、だらしない奴だな。
「まあ、そうだよな」
それほど驚くことではない。昨日あれほどきついトレーニングをしたのだ。普段全く運動しない人間が、次の日に動けるわけがない。気持ちはあったとしても、休ませるべきだ。
まあ、仮に来られたとしても昨日みたいなメニューはやらせず、軽い運動にとどめるつもりだったが。
今頃、あいつの筋肉は悲鳴をあげているに違いない。辛いかもしれないが、決して悪いことではない。むしろ、手軽で安価な「ドパミン」に依存している連中よりもずっと素晴らしい感覚だ。噛みしめるがいい、継羽満月―それこそが「エンドルフィン」、最高の幸せホルモンというやつだ。
僕は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと頷いた。まるで映画に出てくるアニキのように、舎弟を指導している気分だった。
せっかく来たのだから、自分の分のトレーニングをこなしていくとしよう。
そう思い立った僕は、臆することなくレッグプレスマシンへと向かった。だが、先客がいることに気づいて足を止めた。
女性だろうか? 小柄でフードをかぶり、マスクとサングラスをつけて身を隠しているかのようだ。
狙っていたマシンはここに1台しかない。他の種目を先にやるべきか? まあ、そうするしかないか。
振り返ろうとしたその時、目の前の小柄な女性がマシンにプレートを追加し始めた。何度も、何度も、止まる気配がない。気づけばマシンには、本体の重さを除いても200キロも積まれていた……おいおいおい!! 本気か!!?
説明しておくと、通常のレッグプレスマシンはプレートなしでも35キロほどの重さがあり、利用者はプレートをセットして好みの負荷に調整できる。
脚を鍛える素晴らしいマシンだが、自分の適正重量を正しく見極めなければ、脚が皮膚付きのミンチ肉になりかねないという欠点もある。皮膚付きの鶏ひき肉を想像してみてほしい。まさにそんな感じだ……あ、いや、砕けていない骨も混ざっているな!
体重50キロもなさそうな小柄な体格なのに、自分の体重の5倍から6倍近くもの重さを扱うというのか?
セーフティ機能があるとはいえ、この重量と、そのぎこちない動きで……本当に自分を守れるというのか。ここは剣と魔法の世界だが、マナで強化していない生身の身体なんて前世の人間と大差ないのだ。
「ふぅ、よし」
ふぅ、よし、じゃないだろ!
彼女はまさに始めようとしていた。押し上げることはできたとしても、降ろす時には確実に潰される――目の前の彼女はブレーキをかける様子もなく、マシンに脚をセットして準備を完了させようとしていた。
「待て!」
「えっ?」
「おい、その先は地獄だぞ 」
「……」
彼女はしばらくフリーズした後、サングラスの奥で目を輝かせた。
「ちょうど行きたかったところよ」
しかも微笑んで見せた。
誓って挑発するつもりはなかったのだが――彼女はセーフティに手をかけることもなく、そのままトレーニングを開始してしまった。
「キャーッ!!!!!」
「落ち着け!!!」
僕は間一髪で飛び込み、風魔法で押し上げつつセーフティを引き上げて救出した。
まさに生死の境目だった。
僕が大きく息を吐き出すと、相手は激しく呼吸を乱していた。顔を隠してはいるものの、どんな表情をしているかは容易に想像がついた。身体が大きく震えており、マシンにはぽたぽたと滴が落ちていたからだ。
「死ぬかと思った……ママ……」
目の前の彼女は、見知らぬ誰かさんだが、恐怖で涙を流して震えていた。……いや、恐怖というよりは、自分への情けなさからだろうか。
その気持ちは痛いほどよく分かる。
だから僕は責める代わりに微笑みかけた。
「失敗は問いであり、涙はトリガーだ」
「えっ」
「トリガーは、君を問いの答えへとより早く導いてくれる。さあ、今自分が何を求めているのか教えてくれ」
「……このマシン、どうやって使うのが正しいの……ですか?」
「ふむ、素晴らしい。涙から出た答えこそが本心であり、君の本心はとても誇らしいものだ」
「どういう意味……ですか?」
「助けを求め、やり直す準備ができている。それが実に素晴らしいということさ」
……僕は何を言っているんだ。雰囲気に流されてしまったというか、この歳になって恥ずかしいな。
僕が頬を赤らめていると、彼女は顔を上げて僕を見つめ、それからそっと視線を逸らした。
「お……お願い……します」
「オッケー」
その後、僕は彼女にマシンの正しい使い方を教え、すべてのマシンを使う前に毎回自分の限界を見極めるよう指導した。これにはかなりの時間がかかった。逆に、僕のトレーニングの補助もしてもらった。と言っても、ほぼ見せびらかすようなもので、形ばかりのセーフティを担当してもらっただけだが。
やりたかったトレーニングをすべて終えると、僕たちはジムの前で外の空気を目一杯吸い込みながら、ミネラルウォーターを勢いよく飲んだ。
「最高に気持ちいいな。運動した後のこの感覚こそ本物だ」
「……そうね……です」
彼女は終始、無理に丁寧な言葉遣いをしているようだった。本来は丁寧な話し方をするタイプではないのだろう。
「見た感じ同い年くらいだし、普通に話していいぞ」
「……私……今年で16歳」
「こっちも同じくらいだ。タメ口でいこう」
「そうなの……うん、わかった」
言い終えると、彼女はミネラルウォーターをちびちびと飲み始めた。マスクをほんの少しだけずらし、僕に見えないよう体を背けている。
引きこもりか何かなのだろうか。あのヒキコモリというやつだ。
「私―ここに来てまだ間もなくて……自分に自信が持てないの。だから何か自信を取り戻せるものを探していて、運動がいいんじゃないかって思ったの」
「へえ」
「でも何が何だかさっぱり分からなくて。誰も教えてくれなかったし、他の人がやってるのを見る機会もなかったから……ちょっと、大変で」
「ちょっと? あと少しで世を去るところだっただろ?」
「……ごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうにガックリと頭を下げた。どこかの誰かさんなら、同じ状況になれば嫌味で返してくるところだ。
「さっきのは冗談だよ」
「……冗談ね……下層の人間って、話し相手を低く扱うような会話が好きよね」
「おい」
「からかいよ」
その言葉を聞いて僕はビクッとなり、彼女の方を振り向いた。彼女はチョキのピースを作り、額から汗を流していた。
「ただのからかいだから」
「ブッ――はははは!」
僕が吹き出すと、彼女は不思議そうにしていたが、そのまま乗っかってきた――
「ハハハハ」
彼女の笑い声は、令嬢らしく実に上品で美しかった。僕たちはしばらく一緒に笑い合い、やがて僕は立ち上がると、寮へ帰る準備として体をほぐした。
「もう行くの?」
彼女は寂しそうな声でポツリと言った。
「まあな、朝の授業があるんだ」
「授業? フロントゥアクス 魔法学院の生徒なの?」
「まあね」
「……そう」
彼女は言うべきか迷っている様子だったが、意を決して口を開いた。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「なんだ?」
「名前、なんていうの?」
「教えない」
「えっ」
「人に名前を訊く時は、まず自分から名乗るのがマナーだろ」
「……ごめんなさい」
「からかいだよ」
「……」
彼女はジト目で僕を見つめると、
「ハハハハ」
上品に笑い声をあげ、僕の言葉を気にする様子はなかった。それを見て僕も思わず微笑んでしまった。
「名前は……そうね、『セレーナ』よ」
彼女は少し躊躇してから答えた。
「セレーナ……ふむ」
ヒロインのシレーナに似た名前だな。まあ、名前が被ることくらいよくあることだ。それにしても、王国の姫君に似た名前なら生徒の間で噂くらい流れていそうなものだが、一切聞かない。ということは、あの魔法学院の生徒ではないのだろう。
間違いない、引きこもりだな。
可哀想に、自信を取り戻せるよう応援してあげよう。
「僕はルイス・グリーンフィールド」
「ルイスね」
「ああ」
「……『ルイスくん』」
ルイスくん? ふむ、悪くはない響きだが、なんだかむず痒いな。
セレーナは立ち上がると、ぎゅっと拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように頷いて体育館を後にした。だが、曲がり角の手前で振り返り、僕に向かって手を振った。
「またね、ルイスくん」
小鳥のように愛らしく、守ってあげたくなるような声だった。
「また会いましょう」
言い残すと、彼女はパタパタと小走りで走り去っていった。……また会おう、か。
これって、いわゆる「ジムBRO」ができたってことなのだろうか?
あ、BROじゃなくてSISか。
なぜだか分からないが、少しだけ嬉しかった。




