第10話:トレーニングコーチと主人公みたいなイベント
継羽満月のトレーニングのコーチをする。 正直に言うと、僕だってそこまで知識があるわけじゃない。こういうための専門的な科学の学科を学んだわけでもないし、ただ前の世界でトレーニングをしていたから、多少の知識があるというだけだ。それに、このバカげた世界にはフィットネスみたいな施設まで揃っているから、かなり便利だった。
そういうわけだから、初心者相手に教えるくらいなら何とかなるはずだ。
「くっ……んっ……くっ……!」
継羽ののどから、苦しそうな声が漏れていた。今、継羽はベンチプレスをやっている。男の中の男の伝説的なフォームで、簡単に言えば胸の中央の筋肉をメインで鍛えるトレーニングだ。
「3」
「……くっ」
「3」
「ぐっ」
「3....!」
「さ、3って何回言うんですか……!?」
「黙ってやりなよ。3って言ったら3なんだから。ほらほら、次!」
「はあ? 理不尽です! これ、わざと仕返ししようとしていませんか!?」
「何のことでしょうか、継羽満月さん? 俺にどんなことをしたからそんな風に思うのか、言ってみてよ。ハハハハハ! 全部吐き出しちゃいなよ、この魔女め」
「……チッ」
継羽は目を逸らし、仕方なく続けようとした。
「次!」
「も―もう無理です」
「行け!」
「死んじゃいます……!」
「オッケー、じゃあここまで」
僕は15キロくらいの重さのないバーを持ち上げるのを手伝ってあげた。継羽は起き上がって、荒い息を吐きながら座り込んだ。
こいつのこんなひどい姿を見るのは、初めてのことだった。
「ハァ……ハァ……本気で殺すつもりですね、ルイス・グリーンフィールド」
「これくらいの重さで殺すつもりだなんて言っちゃう? へっ、おかしくて笑っちゃうよ、このもやしっ子。死ぬなら、せめてこの5倍以上の重さで死になよ。そっちの方が人間としての尊厳があるでしょ」
「何ですかそれ。偉そうにしちゃって、自分のことを誰だと思っているんですか」
僕は袖をまくって、はっきりと浮き出た筋肉を見せつけた。
「先輩だよ」
「……ちびっ子のくせに」
「何だって!?」
「なんでもありません……ふぅ」
継羽は大きなため息をつくと、立ち上がって背伸びをした。
「これをやって何になるのかよく分かりませんけれど、これで今日の分は終わりですよね?」
「今日の分が終わり? 何言ってるのさ」
「……えっ?」
「まだ舌も出ていないじゃないか」
「……」
継羽は嫌な汗をかいて、2歩後ずさりした。僕は上胸を鍛えるマシンを指さした。
「次、行くよ!」
「…!!」
こうして僕は、継羽に思い知らせてやったのだった。
@@@@@
「完全に殺す気でしたよね。あれはもうトレーニングとは言えませんよ、ルイス・グリーンフィールド」
継羽は僕からわざとイス2つ分離れて座っていた。僕たちがお昼ご飯を食べているのは、お客さんとお店の人の間に壁がある小さなお店だ。二人とも、まださっきの運動着を着たままだった。
何を食べているかって? 継羽は栄養満点の一番ヘルシーなメニューを食べていて、僕はシンプルな大盛り牛肉丼だ。まあ、そんなことはどうでもいい。大切なのは— 継羽の体から汗が流れて、服が少し透けて見えていることだ。でも、肌がはっきり見えているわけではない。なのに、彼女の周りの雰囲気がなんだかいやらしく見えてしまう。特に開いているウエストの部分に小ちゃな汗のしずくが流れていて、お腹のあたりがピンク色にキラキラ輝いている。それに、おへそまで可愛く見えるのだ。
そう、おへそが可愛く見えるんだ。頭がおかしくなりそうだ……重要なのはね、人間なんだから汗をかいたら臭いはずなのに、今の継羽からは良い匂いがするんだ。
そう、すごく良い匂い。椅子2つ分離れて座っているのに、匂いが届くくらいだ。
「まったく、お嬢様ってやつは苦労というものを知らないんだから」
「ええ、泥遊びがお好きな愚か者様は、どうぞご自由になさってください」
「すごい言い草だな。それで? なんで俺から離れて座ってるのさ?」
僕は質問した。近くに座ってほしいとか、そういうわけじゃないよ。良い匂いだなとか、お肌がツヤツヤして素敵だななんて少しも思っていない。
変な下心なんて絶対にない。子孫繁栄の本能に素直な男だとしても、僕はちゃんと選ぶんだ。本気で選ぶんだからね! ただ不思議に思ったから、聞いてみただけ—なんだからね!!
継羽は警戒するような視線を向けて、手で自分の体を隠した。
「淑女が汗びっしょりになっているのですよ」
「気にしないけど」
継羽は目を細めた。僕はニコッと笑ってみせた。
「スケベ」
「だから何も考えてないって言ってるでしょ! 僕はこの魔女みたいな君に性的興奮なんて覚えないからね! 知ってるでしょ、僕が何度も言ってるんだから!」
「スケベです。信じません。スケベ悪魔、変態野郎ルイス」
「くっそー!」
「それから、一番大事なことですけれど」
継羽は手を上げて自分の鼻を覆うと、からかうようにニヤッと笑った。
「あなた、臭いです」
「…えっ」
臭い。えっ、僕が? 僕が臭いの? 前の世界の保健基準以上に、1日3回もお風呂に入るきれい好きの僕が?しかも食後は絶対に歯磨きをする僕が……ああ、汗のせいか。
理解はできる。でも、そうだとしても……臭いって悪口を言われたんだよ。中身が誰だか分からない、男か女かもはっきりしない怪しい奴が乗り移った悪役令嬢の口からだとしても、外見は同じ年くらいの『まあまあ』可愛い女の子なんだから……。
「継羽満月。紳士に向かって臭いと言うのは、ひどいことなんだよ。昔、人間の道徳がどん底まで落ちて救いようがなかった時代に、公衆の面前で処刑していたのと変わらないくらいだ。そう、まさに道徳のない領域を踏み越える行為なんだ」
「……」
「俺が何を言いたいのか、お前は考えているんだろうね。だったら教えてあげるよ、この魔女め」
僕はフォークを持ち上げて、継羽の顔を指さした。
「お前は一線を越えすぎなんだよ」
「臭い、オエッ、臭い、オエッ、臭い」
「うぐぐっ!!」
「うふっ、フフフフ! どうしたんですか? 顔が赤くなっていますよ。それに涙目になっていますけれど、汗が目に入ったのですか? かわいそうに。拭いてあげましょうか? あ、でもティッシュはこの安いお店の口拭き用しかありませんね。誰の手を通ってきたか分かりませんけれど。嫌でなければ、肌に触れるだけでヒリヒリするザラザラなティッシュをどうぞ」
ダメージを受けたのは僕だけじゃなかった。仕切りの向こうにいる、マフィアみたいな顔をしたハゲのおじさん店主もビクッと身体を揺らしていた。
仕切りの反対側にいるお店の人にも遠慮せずにペラペラ喋って、しかも大笑いしている……このクソ女、大笑いしてやがる!
僕は立ち上がって継羽の顔をじっと見つめた。彼女は黙り込んだ。
「絶対に許さないからね」
「なんですか、何をするつもりで——」
「覚悟しなよ、継羽満月!」
「ちょっと待って——」
僕は仕返しのために、わざと近くに座り直した。継羽はそれを見て下がろうとしたけれど、お店の隅っこに座っていたから下がれなかった。
この後に起こる反応は、継羽が顔色を悪くして吐きそうになるような感じになるはずだった。だけど、違っていた。
継羽は自分の鼻ではなく、僕の鼻を手で塞いできたのだ。いつもと違って、すごく慌てた様子だった。
顔はトマトみたいに真っ赤に染まっていて、口は何かをこらえるようにすぼまっていた。
継羽は手で僕の鼻を押さえたまま、僕の顔を押し返した。
一体何をするつもりなんだ? 少しすると、彼女の顔は元に戻った。澄ました顔に戻ったけれど、耳だけは真っ赤なままだった。
「何なんだよ、それ」
「嗅いじゃダメです」
「……」
「私が臭いとかそういうわけではありませんけれど、汗をかいている女の子の体臭を嗅ぐのはよろしくないことです」
「さっきの公開処刑よりもダメなことなの?」
「それ以上です」
彼女はハッキリと答えた。それを見て、仕方がないと思って引き下がり、元の席に戻った。
継羽はコホンと小さく咳払いをして、気持ちを整えた。
「…臭いと言ってごめんなさい」
継羽は目を細めた。
「臭くはありませんから」
「そうなんだ……ふーん。お前の方も臭くないよ。言っておくけど、すごく【良い匂い】がするよ」
褒めるつもりで言ったのだ。だけど——
「はあ!!!?」
そう言った瞬間、継羽から殺気がドッとあふれ出てきた。
「コソコソ嗅いでいたのですか? はあ???」
「いや、違くて……つまり、手が」
「手もダメです」
何なんだよ、それ! こっちは褒めてあげたつもりなのに!! それに、1メートル以上離れていても匂いがするんだよ! 自分が空気汚染を起こしているくせに、あれこれ文句を言ってくるなんて!
「……ふんっ」
継羽はプイッと横を向くと、ご飯をパクパクと口に放り込み始めた。僕もそれを見て真似をした。
僕たちは残りを全部食べ終えると、別々になってお風呂に入りに行き、午後の授業に向かった。
@@@@@
体に触らせてくれるのに、匂いを嗅がせるのはダメだなんて。へっ、本当に変な奴だな、あいつは。
中央棟の大教室で頬杖をつきながら、僕は呆れた気持ちであのクソ女のことを思い出していた。それから後ろを振り返って、あいつが後ろから意悪く覗いていないか確かめてみたけれど、見当たらなかったのでひとまず安心した。
この学校は大学に似た授業システムになっていて、自分の学科で学べるかどうかという条件のもとで、自由に通う授業を選べるようになっている。
主に授業は『魔法』『騎士』それから『その他の学問』の3つの学科に分かれていて、その他の学問は全学科の共通授業として中央棟に設置されていることが多い。
1学年目の今年、僕はゲームのヒロインたちがよく出る授業を選んで履修していた。授業の前後に彼女たちに近づこうとしていたのだ。
1ヶ月くらい頑張ってみたけれど、一度も成功していなかった。この授業も同じだ。 僕が受けているのは『魔法史』という共通授業で、ヒロインの一人である『フィレーナ・サルヴィア』
ゲームのファンから『しょんぼりちゃん 』と呼ばれている女の子が出る授業だ。
フィレーナとのイベントは、この授業や他の授業で偶然出会うことで発生する。ランダムイベントだ。フィレーナはあまり授業に出てこないし、来たり来なかったりするから、ルートに入るのがすごく難しいキャラクターの一人だ。
下手をすると一番大切なチャンスを簡単に逃してしまうのだけれど——僕は見事に逃してしまっていた。 この授業の初日、フィレーナに出会ったときのことを覚えている。話しかけようとしたのに、継羽というあのクソ女に先を越されてしまったのだ。しかも楽しそうに喋りながら教室の前まで歩いてきて、手を振ってバイバイしていた。あいつは別の場所で授業を受けるからって……。
あの初日の後、僕は彼女に会えていないし、会って話しかけようとしてもずっと無視されていた。 白馬の騎士気取りになっちゃってさ……。それなのにさ、継羽がフィレーナのルートに入って、彼女を毎回授業に来させるように成功しているはずなのに、僕はフィレーナがこの授業に来ているのを一度も見かけていないんだ。
まあいいや。 ヒロインのいない景色なんて、太陽のない世界と同じだ。でも、悲しい過去を持つクールな男である僕には、お似合いかもしれないね。
僕は一人でフッと微笑むと、目を閉じた。それからそのままぐっすり眠ってしまった——本当は目を閉じるだけのつもりだったのに、ここ数日の疲れが溜まっていたのだろう。
継羽のことや、ゲームの主人公のことでね。
もう一度目を覚ますと、そこは誰もいない教室だった。それと……一人の背の低いグレーの髪の女の子がいた。
肩までの長さのグレーの髪、空のような青い目、雪のように白い肌。『魔導剣』という特別な学科の制服を着ている。
5人のヒロインのうちの一人。人気投票で第2位を獲得し、キャサリンさんよりも上で、あのツンデレ野郎と並ぶくらい人気のあるキャラクター——呪われた運命に苦しむ少女、『フィレーナ・サルヴィア』だ。
いつも何かを追悼しているような雰囲気と、天使のような美しい容姿に、僕は思わずつぶやいてしまった。
「美しいな……」
しかも—彼女は僕の顔をじっと見つめていた。勘違いなんかじゃない。教室には僕たち二人しかいないし、彼女は僕の顔をじっと見つめているのだから。
な……一体何が起きているんだ!?




