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9. 朱

 雨が石畳を跳ねて、(すね)が濡れる。


 四の月の雨は、三の月より重い。当たった場所が、あとから鈍く冷えていく。


 記帳所の軒下に立って、わたしは雨だれを見ていた。(ひさし)の端から、一定の間隔で落ちている。


 この軒下には、八年で何度立っただろう。雨の日に迎えに行く、と言われた翌年から、雨が降るたびにここへ出た。出て、しばらくして、中へ戻る。


 その往復のぶんだけ、敷石(しきいし)の色が薄くなっている気がする。


 数えている自分に気づいて、やめた。


 第二十四項の請求は、四の月六日である。その日のうちに雨が降っている。四の条のただし書きにより、条件は成った。履行期は、四の月九日の暮れ鐘まで。


 今日が、その九日である。


「アルヴェーン補」


 ヴェルト監察官は、傘を一本、畳んだまま提げていた。開いていないので、外套の肩が濃く濡れている。


「お差しにならないのですか?」


「濡れても、判定はできます」


「あと、四半刻です」


「はい」


 通りの向こうから、馬車の音がした。


 ブランデル家の紋である。車輪が水を跳ねて、記帳所の前で止まる。


 御者が降りる。従僕が扉を開ける。


 ――誰も、出てこない。


「お嬢様。お迎えにあがりました」


 従僕が頭を下げる。


 わたしは扉の中を見た。座席に、人はいない。


「ブランデル様は、どちらに?」


「旦那様のお客様がお見えで、どうしてもお手が離せぬとのことでございます。かわりに、わたくしどもが」


「八の条」


 ヴェルト監察官の声が、雨の中でよく通った。


「帳の債務は約束した本人にのみ属します。代人による履行は認めません」


「……では、この馬車は」


「お帰りください。乗せた事実が残ると、判定が(にご)ります」


「……かしこまりました」


「お伝えください。あと四半刻です、と」


 従僕は困った顔をして、それでも扉を閉めた。馬車が去っていく。


 わたしは軒下に残った。雨だれは、まだ同じ間隔で落ちている。


 乗ろうと思えば乗れた。乗れば、濡れずに済んだ。八年前のわたしなら、乗ったと思う。乗って、家まで送ってもらって、その夜に「迎えが来た」と書いたはずである。


 書けるものなら、そう書きたかった。


 暮れ鐘が鳴る。


 一つ、二つ、三つ。鳴り終わるまで、通りに人影はない。


「四の月九日、暮れ鐘。第二十四項、不履行」


 ヴェルト監察官が判定書に書いた。


「九の条により、朱記といたします」


「……はい」


「朱記は消えません。のちに果たしても、〈後履行〉と並べて記すだけです」


 わたしは頷く。


 八年、この人の不履行に朱をつけたことは一度もない。帳に書いて、それで終わりにしてきた。書けば済むと思っていたのである。


 書いても済まないから、九の条があるのだ。


 橋のほうから、足音がした。


 走っている。水を蹴る音が、雨よりも大きい。


「テレーゼ!」


 彼だった。外套も着ていない。髪が額に貼りついて、息が続いていない。


 東の丘から、走ってきたらしかった。馬車で半刻の道である。


「間に、合わなかった」


「暮れ鐘は、鳴り終わりました」


「どれくらい、遅れた?」


「四半刻ほど」


「四半刻、でございます」


 彼はその数を、噛むように繰り返している。


「……ああ」


「朱記になります」


 彼は膝に手をついて、しばらく息をしていた。それから顔を上げる。


「本気だったんだ、いつも」


 雨が、彼の顎から落ちている。


「一度も、嘘は言っていない。すると言ったときは、するつもりだった。全部だ。三百二十二回、全部だ」


「存じております」


 わたしは、そう答えた。


 この八年で、いちばん本当のことを言われた気がする。だからこそ、答えはもう決まっている。


「……嘘だったなら、まだ許せました」


 彼が顔を上げる。


「本気だったから、許せないのです」


 雨の音が、急に大きく聞こえた。


 嘘なら、正せる。嘘だと分かれば、こちらも数え方を変えられる。けれどこの人は、毎回、本気だった。本気の言葉が三百二十二回積まれて、一つも果たされない。


 直しようがない。直しようのないものを、わたしは八年、直そうとしていた。


 わたしが書けば、この人は変わる。そう思っていたのである。三百二十二枚は、そのための紙である。


 変わらない。増えたのは、紙のほうだけである。


「テレーゼ、俺は」


「――もう、弁解は要りません」


 わたしは首を振る。


 この人の弁解を、わたしは八年ぶん聞いている。今日のは、三百二十三回目になるところだった。


「帳に付ける必要は、もうございません」


 彼は、口を開いて、閉じる。


 傘が、横から差し出された。


「傘をどうぞ」


 ヴェルト監察官である。自分は濡れたままでいる。


「監察官が濡れます」


「お返しは要りません。これは約束ではありませんので」


「……監察官の傘でございます」


「これから戻るだけです。濡れても、私は困りません」


 わたしは、返事ができなかった。


 その夜、公証院の表階段の脇に、朱の紙が一枚増えている。


 樫の板の、いちばん上。ブランデル伯爵家嫡男(ちゃくなん)、レオンハルト・ブランデル。


 東の丘の名前が、公証院の壁に貼られている。読みに来た人が、宵鐘まで途切れない。


 帰り際、門のところでハンスに呼び止められた。


「お嬢様。明日の朝、旦那様が院へ書き付けを出されるそうでございます」


「なんの書き付けですか?」


「……存じません」


「ハンス」


「わたくしは、門を開けるだけの者でございます」


 そう言ってから、ハンスは声を落とす。


「ただ、十一人ぶんの署名を集めておいででした」


       ◇


〈言の帳〉八二五年の巻 アルヴェーン第二十四項


 日付 四の月七日 朝鐘


 場所 アルヴェーン子爵邸 記帳所の軒下


 文言 「雨の日は、記帳所まで迎えに行く」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 父オットー、侍女ロッテ


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 雨の日が、少し楽しみになる。傘は二本、玄関に出しておきます。父は笑っておりました。

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