8. 似合う、と言う
公証院の表階段の脇に、朱の紙が一枚。
昨日貼られたものである。西の油屋。三日を過ぎた一件が一つ、こうして誰にでも読める形になっている。
朝のうちから、読んでいく人の足が止まらない。
「あれ、うちの通りの方です」
ニナが小声で言った。
「お知り合いですか?」
「いえ。でも、みんな知ってます」
みんな知っている、というのが九の条の全部である。牢もない。罰金もない。ただ、みんな知る。
その足で、わたしは伯爵邸へ向かった。
箱の蝶番が固い。
八年、一度も開けていないからである。指先に力を入れると、乾いた音を立てて蓋が起きた。
中に、髪飾りが一つ。青い石が三つ並んで、銀の台に留めてある。八二四年の冬至祭の前日に、彼から届いたものである。
届いた日の夜、わたしはこれを机に置いて、蝋燭を近づけたり遠ざけたりしている。角度で色が変わるのが面白い年頃だった。十六である。
「第二十一項でございます」
わたしは請求状を読み上げた。
「八二四年、十二の月二十四日。文言――『明日の舞踏会で、その髪飾りをつけた君を、いちばんに褒める』」
場所は、伯爵邸の広間である。八年前の舞踏会と同じ部屋を、今日は昼に開けてもらっている。
誰もいない広間の床が、蝋で光っている。八年前は人でいっぱいだった。天井の高さというのは、人のいない日にいちばんよく分かる。
足音が返ってくる。八年前は、この床に音を吸われて、自分の靴の音など聞こえない。あの晩、わたしは壁ぎわに立って、扉のほうばかり見ていた。
見ていた場所が、いま自分の背中の側にある。
「一則により、期日と場所の条件は落ちます」
ヴェルト監察官が判定書を開く。
「残るのは、髪飾りをつけた受約者を褒める、という行為です。ただしこれは、四則にあたります」
「四則、と申しますと?」
「履行に受約者の行為が要る一件です。あなたが三日のうちに髪飾りをつけなければ、〈協力なし〉として請求を取り下げます」
「取り下げますと、どうなりますか?」
「同じ請求の列には戻りません。果たされないまま、帳に残ります」
ヴェルト監察官は、判定書の余白に指を置いた。
「消えるのとは、違うのですね」
「違います。消せるのは七の条だけで、それはあなたの意思です。四則の取り下げは、意思ではなく、時が過ぎただけです」
「……時が過ぎただけ、でございますか?」
「はい」
わたしは箱の中を見る。
果たされないまま帳に残る一件は、いま三つある。第七項、第百五十四項、第三百二十二項。ここで着けなければ、四つ目ができる。
――四つ目は、作らない。
わたしは髪飾りを取り出した。石が三つ、昼の光で鈍く光る。
「監察官」
「はい」
「……似合いますか?」
言ってしまってから、聞く相手を間違えたと気づく。
「判定は、褒め言葉の当否ではありません」
「……そうでございますね」
わたしは鏡のかわりに窓を使った。硝子に映った自分は、思ったより痩せている。
八年、この髪飾りを一度も着けていない。着ける機会がなかったのではない。着けたら、褒められるのを待つことになるからである。
待たないために、着けなかった。それは、待っていたということである。
八年かけて、わたしはずいぶん器用な待ち方を覚えたものだと思う。
留め金を差す。髪が一筋、指に絡んだ。
石は思ったより軽い。八年、箱の中でこれだけの重さだったのかと思う。
扉が開いて、彼が入ってくる。
彼は三歩のところで止まった。それから、少し目を細める。
「……似合う」
「履行と認めます」
ヴェルト監察官が帳に一行入れた。それで終わりである。
八年待った一言は、三音でできていた。
似合う。それだけである。
十六のわたしは、この三音のために髪型を決めて、ロッテに頼んで、所見に書いた。書いたものを、翌朝から八年、めくり返している。
わたしは自分の胸のあたりを、内側から探してみる。何かが動くはずだと思って、探してみる。
何もない。
「……ありがとうございます」
「いや」
「八年、着けずにおりました」
「……なぜだ?」
「着けますと、待つことになりますので」
彼は何も言わない。言えることが、たぶん一つもない。
「第二十一項でございます。請求は、二十件目」
「……項の数と、請求の数が合わない」
「第七項が抜けておりますので」
「……ああ」
「残りは、二百九十九件でございます」
数を口にしたのは、この人が初めてだった。
「そうか」
そうか、としか言えないのだろう。この人には、この一件が何であったかを知る手立てがない。知っているのは、書いた者だけである。
――八年で、わたしは何を手に入れただろう。
帳が九冊。公証人補の資格が一つ。それも父の中風で、家業を継ぐために取ったものである。
あとは、何もない。
八年、わたしは何も。ただ、書いておりました。
その一行を、声にはしない。出したら、この人が謝る。謝られると、こちらが受け取らねばならなくなる。
広間を出て、廊下へ。壁の燭台が等間隔に並んでいる。
「アルヴェーン補」
ヴェルト監察官が、半歩うしろから言った。
「よくお似合いです」
わたしは足を止める。
「それは……?」
「これは判定ではありません」
「そう……」
振り返らずにおいた。振り返る顔を持っていなかったからである。
公証院へ戻ると、表階段の脇に人が三人立っていた。樫の板に、朱の紙が三枚に増えている。
「お嬢様、その髪飾り」
「はい」
「よくお似合いです」
「……ありがとう」
わたしは首を横に振ってみせた。
「あ、これ、判定じゃないです」
「存じております」
ニナは言ってから、少し赤くなる。判定ではない言葉を、今日は二度もらったことになる。
「明日から雨だそうです」
ニナが空を見上げて言う。
三日のちの請求を、わたしは思い出した。第二十四項――「雨の日は、記帳所まで迎えに行く」。
◇
〈言の帳〉八二四年の巻 アルヴェーン第二十一項
日付 十二の月二十四日 宵鐘
場所 ブランデル伯爵邸 北の客間
文言 「明日の舞踏会で、その髪飾りをつけた君を、いちばんに褒める」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、侍女ロッテ
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 青い石が三つ。明日は編み込みを高く結い、右に寄せます。ロッテに頼んでおきました。




