7. もう、付けません
「もう、付けません」
帳場の記帳台ごしに、わたしはそう答えた。
夕方の斜めの光が、天板を端から端まで横切っている。この時刻の帳場は、埃が全部見える。
光の中で、埃はゆっくり回っていた。急いでいるものが一つもない部屋である。
「なぜだ?」
「二の条は、受約者がその場で『帳に付けます』と告げることを要件としております。告げるか告げないかを決めるのは、受約者でございます」
「君は、八年やってきたはずだ」
「やってまいりました。もう、いたしません」
彼は記帳台に手を置く。爪の際に、まだ藁の屑が残っている。厩の一件が、まだ手についているらしい。
この四日、彼は毎日ここへ来ている。第十五項から第十八項まで、四件。うち二件が「すぐ行く」だった。
「今日のは、何時に着きました」
「……昼鐘の前だ」
「昨日より、早うございます」
「早く来て、悪いか?」
「いいえ」
悪くはない。ただ、八年ぶんの遅れは、早く来ることでは埋まらない。
「すぐ行く」の履行とは、来ることである。四回とも、百を数えぬうちに済んだ。
「付けてもらえないと、俺は」
彼はそこで言葉を探している。
「……また、忘れる」
わたしは棚から八三一年の巻を出し、記帳台に開いた。
古い巻ほど紙が厚い。八二四年の巻は角が丸くなり、八三一年の巻はまだ角が立っている。
「去年の、最後の一件でございます」
彼は覗き込んだ。
第三百七項。十二の月二十九日。文言「すぐ行く」。所見の欄には、一語だけ書いてある。
――待つ。
わたしの字である。二十三の冬に、門の脇の柱にもたれて書いた。手がかじかんで、ほかの字が書けなかったわけではない。書くことが、それしかなかった。
「これは」
「所見でございます。三の条により、添えてよいことになっております」
「……一語しかない」
「一語で足りましたので」
彼は動かなかった。八二四年の所見は三行あって、八三一年は一語である。同じ人間の字で、同じ書式で、そこだけが痩せている。
自分の言葉が、他人の一年をこの形にした。それを彼はいま、はじめて目で見ている。
「……八二四年のは」
「三行ございます」
「三行、でございました」
「……それが、一語になったのか?」
「はい。だんだん短くなってまいりました」
書く量が減ったのは、書くことが減ったからではない。書いても仕方がないと知ったからである。
わたしは巻を閉じた。
この人は、記録されないと、自分のしたことを持っていられない。八年、その係をしていたのがわたしである。
「……付けてくれ、と頼むのは」
「二の条により、約束者からは頼めません」
「そうか」
「はい」
憐れだと思う。憐れだと思うだけである。
八年、わたしが持っていたのは、この人が置いていったものである。持っているあいだ、それを二人のものだと思っていた。返してみて分かる。あれは、はじめから片方のものである。
そこへ、宿〈三つ櫛亭〉の女将が入ってきた。
戸を押す音が大きい。帳場に人が来ること自体、この半月で二度目である。
「ここで、口の約束を書いてもらえるって聞いたんだけど」
「はい。金銭を伴わない行為の約束でしたら」
「うちの人がね。八年、すぐ帰るって言うんですよ」
わたしは顔を上げる。
「……八年、でございますか?」
「八年。子が二人、大きくなっちまった」
グレーテと名乗ったその人は、記帳台の前に座った。手が荒れている。洗い物の手である。
「明日また言うだろうから、そのとき言やあいいんですね。帳に付けます、って」
「はい。ご主人が否とおっしゃらなければ、載ります」
「否とは言わないよ、あの人は」
「……皆さま、そうでいらっしゃいます」
「そうかい。じゃあ、この帳は暇なはずだねえ」
暇である。去年、王都で四十一件しか載っていない。
――否とは言わない。
その一言は、この国のどこにでも転がっているらしい。
ヴェルト監察官が階段を下りてきて、記帳台の反対側に座った。監察官が自分の手で記帳を書くのは、格からいえばおかしい。
「公証人補が足りません。これは約束ではありませんので」
彼が羽根ペンを取る。左手が紙を押さえた。
その甲に、古い凍傷の痕がある。白く引き攣れて、指の付け根まで届いている。
冬に、長く外にいた手である。一晩や二晩ではこうならない。子どもの手のまま、何度も繰り返した痕に見える。
わたしは、何も聞かなかった。
聞けば、この人は答えるだろう。答えられる範囲のことしか、この人は言わない。答えられる範囲の外に何があるのかを、わたしはまだ知らない。
聞かずにおいたのは、こちらの都合である。八年、聞かれたくないことを持って歩いた者どうしの、それは行儀のようなものだった。
帳場を出ると、表階段の脇に人が集まっている。
樫の板に、朱で書いた紙が一枚。ブランデルの名ではない。西の通りの、油屋の名だった。
◇
〈言の帳〉八三一年の巻 アルヴェーン第三百七項
日付 十二の月二十九日 下がり鐘
場所 ブランデル伯爵邸 表門 馬車寄せの脇 東の柱の下
文言 「すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、御者一名、門番二名、厩番一名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・二十三歳)
所見 待つ。




