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6. 名前

「第十一項でございます」


 伯爵邸の応接(おうせつ)の間で、わたしは請求状を読み上げた。


 この部屋は、八年で三度しか通されていない。壁紙が北の客間より新しく、暖炉の位置が高い。座ると、火が膝ではなく胸のあたりに当たる。


「八二四年、六の月二十日。文言――『これからは、テレーゼ、と呼ぶ』」


「……三則、というやつか」


「はい。続けざまの言い方は、一度の実行をもって履行といたします」


「一度でいいのか?」


「一度で結構でございます」


 彼は椅子に座ったまま、口を開く。それから、閉じる。


「……いや」


「はい」


「明日にする」


「三日以内でございます」


「分かっている」


 彼は卓の木目を見ている。


「では、明日」


「ああ」


 一日目は、それで終わりである。


 帰りの馬車で、わたしは自分が落胆していないことに気づいた。落胆するには、期待が要る。八年で、その部分が薄くなったらしい。


 二日目、同じ椅子、同じ卓、同じ刻。


 卓の上には、昨日と同じ位置に茶が置かれている。この家の給仕(きゅうじ)は、八年、器の位置を変えない。


「……テ」


 最初の一音だけが出て、そこで止まる。


 わたしは待った。待つのは慣れている。慣れているという事実に、今日ほど嫌気がさしたことはない。


「なぜ、お出しになれないのでしょう?」


「……分からん」


「分からない、では困ります」


「君を呼ぶと」


 彼はそこで止まった。


「呼ぶと、なんでございますか?」


「……八年前に、戻る気がする」


 戻れるのなら、わたしが戻っている。八年ぶんの帳を抱えて、あの庭の石卓の前まで。


 戻って、十五のわたしに言う。この人は来ない。八年で三百二十二回、言うだけになる。


 ――言ったところで、あの子は書くのをやめないだろう。書くのをやめないから、わたしなのである。


「……すまない」


「あと二日でございます」


「……分かっている」


「二十六日の()れ鐘まででございます。過ぎますと、九の条が働きます」


「朱で、書くのか?」


 わたしは頷いた。壺の蓋は、開いたままである。


「書いて、貼ります」


 彼は返事をしなかった。


 三の月二十五日。彼は来て、椅子に座り、茶が冷めるまでいて、何も言わずに帰る。


「明日でございます」


「ああ」


 それだけが、その日に交わした全部だった。


 三の月二十六日。期限の日である。


 朝から風が強い。旧市街から橋を渡るあいだに、外套(がいとう)の裾が二度、めくれ上がった。東の丘の坂は、風が下から吹き上げてくる。


 こういう日に、八年前のわたしはよく髪を直していた。門をくぐる前に、必ず一度。今日は直していない。


 帳場から出るとき、書記が朱の墨壺(すみつぼ)を卓の端へ出していた。先日、監察官が卓の端へ出していたものと同じ壺である。今日は蓋が開いている。


「使うことになりますか?」


「三日目の暮れ鐘までに履行がなければ、使います」


 ヴェルト監察官は蓋を閉じない。閉じないことが、答えなのだろう。


 応接の間は、昨日より寒かった。彼は座らずに、窓のそばに立っている。


 窓の外は、東の丘の斜面である。日が落ちかけて、雪の残りが桃色になっていた。八年前もこの窓から同じ色を見ている。あのころは、この部屋に入れてもらえるのが嬉しかった。


 嬉しかった、という語を、わたしは久しぶりに思い出す。あのころの自分は、この部屋の椅子の座り心地まで覚えて帰ったものである。


 外で、暮れ鐘が鳴りはじめる。


 一つ。屋敷の窓が、低く震える。


 二つ。彼の肩が上がって、下りる。


 息を吸ったのが分かった。八年、この人が何かを言う前に息を吸うところを、わたしは何度も見ている。見ていて、そのあと何も来ないことにも慣れている。


 三つ。


「テレーゼ」


 八年ぶりだった。


 婚約の顔合わせの日に一度。あの庭で名を呼ばれたのが最後で、以来この人は、わたしを「君」としか言っていない。呼ばれないことに慣れると、名前というのは他人が持っているものになる。


 声はかすれてもいない。ごく普通の声である。八年、この人はこの三音を出せないでいたわけではない。出さなかっただけだ。


「履行と認めます」


「……それだけか」


「それだけでございます」


 ヴェルト監察官が帳に一行入れる。彼はこちらを見ない。判定書に目を落としたままである。


 見ないでいてくれる、と思った。


 顔を見られたら、たぶん困る。何を出していいのか、自分でも分からない顔をしている。


「……はい。ブランデル様」


 わたしは、そう返す。


 八年前、呼ばれたときのために返事を考えて、所見に書いた。「はい、レオンハルト様」。十五のわたしは、その十文字を何度も書き直している。


 今日、その返事は使わなかった。使えなかったのではない。口に入れてみて、味が変わっていたのである。


 うれしくない。


 そのことに、自分でおどろく。八年待った言葉を受け取って、胸のどこも動かない。動かないものを、わたしは八年、動くはずだと思って抱えていた。


 名を呼ばれるというのは、こんなに短いことだったのか。


 喉の奥が、少しだけ熱い。うれしさではない。(なが)く煮すぎた鍋の底が焦げるような、そういう熱さである。


 鐘は三つ鳴るあいだで、名は四音である。それだけのために、わたしは八年ぶんの返事を用意していた。


「テレーゼ」


 帰り際、彼が廊下を追ってくる。


「頼む」


「なんでございましょう」


「俺の言ったことを、また、付けてくれないか?」


       ◇


〈言の帳〉八二四年の巻 アルヴェーン第十一項


 日付 六の月二十日 昼鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 北の客間


 文言 「これからは、テレーゼ、と呼ぶ」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十五歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 呼ばれたときのために、返事を考えておく。「はい、レオンハルト様」。三度書き直しました。明日から、いつでも出せるようにしておきます。


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