5. 消せません
「本日の請求は、第八項でございます」
朝の帳場で、ヴェルト監察官がそう言った。
「第七項は」
「請求できません。飛ばします」
紙が一枚、抜かれる。それだけのことである。列が一つ詰まって、明日が来る。
十五歳のわたしが藤棚の下で書いた一行は、こうして請求の列から出ていった。出ていっても、帳には残る。残るだけで、二度と呼ばれない。
――退屈などしたことがございません。
あの日、藤の花が下がっていて、匂いが濃かった。甘いというより、蜜を煮すぎた匂いである。十五のわたしは、その下で本気でそう書いた。
書いたときは本気で、いまは請求できない。この八年で、そういうものばかりが増えている。
第八項「明日、図書室の梯子を押さえてやる」。伯爵邸の図書室で、彼が八年ぶりに梯子を押さえた。
上の段の本は、十五歳のときよりずっと近くにある。背が伸びたのだと思う。
「危ないから、ゆっくり」
「はい」
八年前、この人は下でそう言って、それから呼ばれてどこかへ行った。わたしは梯子の上に残される。降りられないわけではない。降りていいのかが、分からなかっただけである。
あの日、わたしは上の段から図書室を見ていた。窓の桟に埃が一列。書架の背表紙の並び。天井に近い場所というのは、ずいぶん埃の匂いがする。
半刻ほど待って、それから自分で降りた。誰にも見られていない。
あの半刻を、わたしは帳に書かなかった。書く欄がなかったからである。帳には、約束と、その日の所見しか書けない。待った時間を書く欄は、どこにもない。
「あのとき、俺は」
「お呼びがかかっておいででした」
「覚えているのか?」
「第八項でございますので」
彼は手を離さない。わたしが床へ降りるまで、離さずにいる。
「終わりましたので、お手を」
「……ああ」
「履行と認めます」
ヴェルト監察官の声で、彼はやっと手を引いた。
その日の夕方、父の家へ帰ると、応接に伯爵閣下が座っている。
部屋の空気が、いつもより乾いていた。人が長く座っていた部屋の匂いがする。
「お嬢さん」
ブランデル伯爵は、わたしを名で呼ばない。八年、一度も。
「あの帳を、閉じていただきたい」
「七の条でございましたら、受約者が『履行を要しない』と記せば、その一件は消えます」
「そうしていただきたい」
「未請求が三百十二件。それに、花市を待っております第六項が一件ございます」
「……いくつになる?」
伯爵は数を確かめる人である。息子とは、そこが違う。
「未履行は、三百十三件でございます」
「その全部だ」
父は隣で黙っている。右手は膝の上に置いたまま動かない。左手だけで湯呑みを持ち上げ、口をつけずにそのまま置いた。
「アルヴェーン家は代々、この街の記帳所をお預かりしておられる。許可は毎年、更新でございましたな」
脅しの言い方ですらない。丁重に、事実だけを置いていく。この家の作法なのだろう。
わたしは自分の指が冷たくなっていくのを感じた。怒りではない。怒りは、もっと熱いものだと本で読んだ覚えがある。
「閣下」
息を吸う。吸ったぶん、声が出るように。
「消してしまえば、八年が、なかったことになります」
「なかったことにして差し上げる、と申している」
「わたしの八年でございます。閣下のものではありません」
言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。
わたしのもの。八年、そう思ったことが一度もない。あれは彼のもので、彼の都合で、彼が忘れていったものだと思っている。
違う。あれを書いたのは、わたしである。
伯爵は立ち上がり、扉の前で一度だけこちらを見る。
「息子は、嘘をついたことがない」
「存じております」
それがいちばん困っているのです――とは、言わずにおく。
馬車の音が遠ざかってから、父が湯呑みを押した。飲め、ということらしい。
「テレーゼ」
「はい」
「わしが言うたな。約束は、書いておけば、いつか誰かが果たしてくれる、と」
「お父様のお言葉です」
「若いころ、一度だけ助かった。書いておいたおかげでな」
父は自分の右手を見る。動かない指が、湯呑みの熱を受けて少し赤い。
「あれは、わしの話だ。お前に、待つ道具を渡してしまった」
わたしは首を振った。振ったきり、何も言えない。
「お父様。八十八件は、ご負担でしたか?」
「……重かったとは、言わん」
「はい」
「書いてくれと言われて、書かん公証人はおらん。それだけだ」
それだけだ、と父は言う。八年、それだけを八十八回。
娘が待ちぼうけを食った紙に、公証人として、確定の署名を八十八回。そのたびに父は、その紙を読んでいたはずである。
読んで、何も言わなかった。言えば、娘が書くのをやめると思ったのかもしれない。やめさせたほうがよかったのかも、と思っていたのかもしれない。
責める言葉が出てこない。責めないことのほうが、痛い。
「テレーゼ。あの帳は、誰のものだ?」
「……受約者の、ものです」
「そうだ。お前のものだ」
父は左手で湯呑みを持ち上げ、今度は口をつけた。
湯呑みの中で、茶がすっかり冷めている。それでも父は、二口飲んだ。
公証院へ戻る道で、ヴェルト監察官が黙って歩く。
橋にさしかかったあたりで、歩幅が少し落ちた。わたしの歩幅に合ったところで、また同じ速さに戻る。
言わずに、する人だ、と思った。
「監察官。放棄の書式は、どちらに?」
「二階の棚です」
「お出しになりませんの?」
「お求めがあれば出します。――ありませんね」
「わたしからは、お求めいたしません」
橋の下を、春の水が音を立てて流れていく。氷の解けた川は、冬より速い。
速い水は、色が濃く見える。底が見えないぶん、深そうに見えるだけかもしれない。
翌日は第九項である。「明日、庭の薔薇を一本」。八二四年六の月の記帳で、一則により期日は読み替えられる。彼はその日のうちに一本切ってくる。
棘の落とし方を知らない人の切り方だった。指の腹に、細い傷が三本。
「棘は、落としてから渡すものでございます」
「……そうか」
「次からは、そうなさいませ」
次があるとすれば、三百十一件のうちのどれかである。
その次の日が第十項。「今度、厩まで一緒に行く」。二日前に歩いたばかりの道を、二人でもう一度歩く。
二日で二件。残りは、三百十件になっている。
「明日の一件を、申し上げます」
彼は判定書をめくった。
「第十一項。八二四年、六の月二十日の記帳。文言――『これからは、テレーゼ、と呼ぶ』」
◇
〈言の帳〉八二八年の巻 アルヴェーン第百五十四項
日付 八の月十九日 宵鐘
場所 ブランデル伯爵邸 北の回廊 三つ目の窓の下
文言 「必ず、幸せにする」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 侍女ロッテ、従僕頭ハンス、燭台持ち一名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十九歳)
所見 幸せの見込みについては、記載を控える。日付と文言のみ記す。以上。




