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4. 一日に、一件

 東屋(あずまや)の屋根から、雪解けの雫が落ちて首筋に入った。


 冷たいというより、痛い。三の月の水は、まだ冬の温度をしている。(えり)の内側を伝って背中まで降りていくのを、わたしは黙って通り過ぎさせる。


 第三項「東屋まで、一緒に歩く」。第四項「門まで送る」。第五項「明日の朝、(うまや)へ来る。仔馬を見せる」。三日で三件を、彼は淀みなく片づけていく。


 東屋までは、十四歩である。八年前に数えたときと、歩数は変わらない。


「こんなに近かったか?」


「近うございます」


「……そうか」


 近いから、いつでも行けると思っていたのだろう。いつでも行けるものへは、人は行かない。


 門まで送るのに要したのは、下がり鐘が鳴り終わるより短い時間である。門番のハンスが、扉を開けたまま黙って立っていた。この人は八年、わたしを門で迎えて、門で見送っている。


 わたしが一人で門を出るのを、この人は何度見たのだろう。数えていないのは、たぶんわたしだけではない。


 厩は藁と馬の匂いがする。彼が「これだ」と示した馬は、もう八歳である。


「……大きいな」


「八年でございますから」


「そうか。……そうだな」


 彼は馬の首に手を置いた。馬は身じろぎもしない。


「この馬に、名は?」


「……知らん。厩番に聞いてくれ」


 八年前、この人はこの仔馬をわたしに見せたがった。名も知らない馬を、見せたがったのである。


 見せたかったのは馬ではなく、たぶん、見せている自分である。それでもわたしは、あの朝、日が昇る前に髪を結った。


 四日目、彼は帳場へ自分から来る。


「……相談がある」


「請求の相談でしたら、監察官へ」


「まとめてやらせてくれ。一日で二十件でも三十件でもいい。ひと月で終わらせる」


 わたしは帳を閉じた。留め金が鳴る。


「早くお返しになりたいのは、存じております」


「なら」


「六の条により、認められません」


「なぜだ。俺は逃げると言っているんじゃない。早く返すと言っているんだ」


「存じております」


 この人は、嘘をついていない。八年、一度も。


 早く返したいというのも、いま本当に思っていることなのだろう。思っているうちは本当なのである。困るのは、それが明日まで持たないことだった。


「三百十三件、残っております」


「三百十三日だと? 冗談じゃない」


「八年、かかっております」


 彼は口を開いて、閉じる。この四日で三度目になる。


 ヴェルト監察官が階段を下りてくる。手に、朱の墨壺(すみつぼ)を持っていた。


「六の条は、一件は一件として果たす、と定めています」


「その墨は」


「九の条の用意です。三日を過ぎた一件があれば、朱で書いて、表に貼ります」


「……貼る……のか?」


掲示(けいじ)は、表階段の脇の板です。誰でも読めます」


 彼が黙る。牢だと言われたほうが、まだ受け取りやすい顔をしている。


 わたしは彼を見ていて、ふいに分かった。この人が怖いのは罰ではない。人に読まれることである。八年、この人の言葉は誰にも読まれてこなかった。読まれないから、消えていたのだ。


 その日の第六項は、少し違っていた。


「『今度の花市(かし)へ、一緒に行こう』。八二四年、五の月九日の記帳です」


花市(かし)なら、行こう。いつだ?」


「二則により、次に来るその日でございます。花市は五の月十日。五十一日先です」


「五十一日?」


「六十日以内ですので、繰り延べになります。その日まで、この一件は果たせません」


 彼は指を折って数えようとして、途中でやめる。


「……この帳には、季節があるのか?」


「ございます」


 自分の声が少し高くなったのに気づく。彼が制度の中身に触れたのは、これが初めてである。


 八年、この人はわたしの帳を一度も覗いていない。覗かないまま、三百二十二回、載っている。


 その帳に、今日はじめて、季節を見つけた。八年遅れの発見にしても、遅すぎるにも程がある。それでもわたしの声は、少し高くなっている。


 帳場を出るとき、書記のニナが小声で言った。


「お嬢様。今日、東の丘のお使いの方が二度、見えていました」


「用件は?」


「監察官は、お会いになりませんでした」


 帰り道、ヴェルト監察官が並んで歩く。


 夕方の光が、川の面で細かく割れている。まぶしいというより、目の奥をつつかれるような光り方だった。


「監察官は、約束をなさらないのですね」


「はい」


「一度も、でございますか?」


「私は、できることしか申しません」


 橋の欄干に、鳩が二羽並んでいる。


「できることでしたら、申してもよろしいのでは?」


「できるかどうかは、その日にならないと分かりません。ですから、申しません」


「……ずいぶん、不便でいらっしゃる」


「不便です」


 彼はそれを、欠点として言わなかった。天気の話と同じ調子である。


 旧市街の家の前に、ブランデル家の馬車が停まっている。


 御者は前を向いたままで、扉は閉まっている。窓の内側に、人の影が一つ。


 わたしの父の家に伯爵家の馬車が来る理由は、思いつくかぎり一つしかなかった。


       ◇


〈言の帳〉八二四年の巻 アルヴェーン第六項


 日付 五の月九日 朝鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 表門


 文言 「今度の花市へ、一緒に行こう」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十五歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 明日。広場の南側、鉢の店の三軒目。白い花の鉢を見に行きます。(くつ)は新しいほうを。父に断っておくこと。

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