3. 八十七
朝の霜が、中庭の石卓の縁に残っている。
掌で押すと跡が付いて、すぐ消えた。指の腹だけが、あとから沁みるように冷たくなる。石は、触れた瞬間より、離してからのほうが冷たい。
八年前と同じ場所に、石の隙間から菫が一輪出ている。あの日も出ていたはずである。花は毎年、律儀にここへ戻ってくるらしい。
「早くお着きですね」
ヴェルト監察官は、約束の刻より四半刻早く来ていた。石卓の上の雪は、もう払われている。
「なぜ、こんなに早く?」
「これは約束ではありませんので」
答えになっていない。彼は判定書を開き、それきり何も言わなかった。
鳥が一羽、屋根の樋を歩いている。爪の音がこんな距離でも聞こえるほど、庭は静かである。
「監察官は、履行の立会いを何度なさったことが?」
「今年は、これが二件目です」
「二件だけ、でございますか?」
「去年は一件でした。一昨年は、ありません」
誰も使わない制度だと、数のほうが先に言ってしまう。
わたしはこの八年、自分がずいぶん風変わりなことをしている自覚がなかった。父の家では、記帳は朝の洗顔と同じ順番で並んでいたからである。
下がり鐘の少し前に、屋敷の扉が開く。
「第一項でございます」
わたしは請求状を読み上げた。声が、庭の石壁に薄く跳ね返る。
「八二四年、三の月十一日、下がり鐘。ブランデル伯爵邸、中庭。文言――『先に庭へ出ていてくれ。すぐ行く』」
「……ああ」
「履行は、庭へ出ておいでになることです」
「それだけでいいのか?」
「それだけでございます」
彼は敷石を見下ろした。室内履きのままである。
「……庭へ出るだけで」
「八年前も、それだけでございました」
彼は履き替えもせずに降りてくる。雪を払ったあとに残る薄い濡れを、袖で拭った。誰にも言われていない。
八年前も、そうしていたのだろうか。わたしはそこまで見ていない。あの日は庭に立って、屋敷のほうばかり見ていた。窓のどこかが動くのを、ずっと待っていたからである。
わたしは数えている。困ると数えるのは、子どものころからの癖である。
扉が開いてから、彼が石卓の前に立つまで、八十七。
「何か、数えていたか?」
「いいえ」
嘘である。
「……終わりか?」
「履行と認めます」
ヴェルト監察官が帳に一行入れる。羽根ペンが紙を擦る音が、鳥の爪より小さい。
八年前、わたしは日没まで待った。
あの日の日没の色を、まだ覚えている。空の下のほうだけが、煮詰めた杏のようだった。靴の中まで冷えて、指の感覚が消えて、それでも動かなかったのは、動いたら「待っていなかったこと」になる気がしたからである。
八十七。
あの色に、この数がどうしても収まらない。
八年待った日没と、八十七を数えるあいだと、同じ約束の裏表だというのが、頭では分かる。分かるだけで、身体のどこも納得していない。
収まらないものを、わたしは八年、置く場所のないまま持っていた。それが今日、置き場所を得て、かえって行き場をなくしている。
風が来て、菫が揺れた。花のほうが、この家の主人より長くここにいる。
「明日も来るのか?」
彼が背中で言った。
「三百十八日、参ります」
翌日は第二項である。
「『明日、手紙を書く』。八二四年三の月十九日の記帳です。一則により、期日は請求の日から三日以内へ読み替えます」
「今、ここで書けばいいのか?」
「文言のとおりです」
彼は帳場の紙を一枚もらって、卓に向かった。
三行書いて、手が止まる。ペンの先が紙から離れて、また戻る。それからもう一度、頭から読み返し、同じ三行をこちらへ寄こす。
「……短くて、すまない」
「拝見します」
八年前に届くはずだった手紙が、八年遅れて三行で来る。畳んで、懐に入れる。
「履行と認めます」
ヴェルト監察官の声は、昨日と同じ高さである。
「監察官。字の乱れは、ございましたか?」
「ありません」
「三行では、乱れようもございませんね」
「三行でも、乱れる人は乱れます」
それ以上は言わない。この人は、聞かれたことにしか答えない。
帰り道、橋の上で風が来た。三行の紙が懐で鳴る。
この人は、書けたのだ。八年、書けなかったのではない。三行なら、いつでも書ける。
わたしは八年、書けない人を待っているのだと思っていた。忙しいのだ、と自分に言い聞かせて。忙しい人には時間がないのだから、責めるほうが筋違いなのだと。
そうではない。書ける人が、書かなかっただけである。
橋の欄干に手を置くと、石が朝より温い。日が高くなったらしい。
懐の三行を、もう一度読んだ。「元気か」「体を大事に」「また書く」。
――また書く。
わたしは指を止めた。これは、約束の言い方である。
「監察官」
橋のたもとで、わたしは振り向いた。
「手紙の中に、新しい口約束がございました場合は」
「二の条によります。あなたがその場で『帳に付けます』と告げ、相手が否と言わなければ、載ります」
「……本人が、目の前におりませんでも」
「告げていないなら、載りません」
橋の下で、水の音が高くなる。
「では、これは」
「載りません」
わたしは紙を畳み直す。載せなかった一件が、これで一つできたことになる。
八年で、はじめてのことだった。
載せない、という選び方があると、わたしは今日まで知らなかったのである。
◇
〈言の帳〉八二四年の巻 アルヴェーン第一項
日付 三の月十一日 下がり鐘
場所 ブランデル伯爵邸 中庭 石卓の前
文言 「先に庭へ出ていてくれ。すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十五歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 日没まで。石卓の上に菫が一輪。風あり。靴が濡れました。明日は、いらっしゃるかもしれません。




