2. 三百十九と、三
台車の車輪は、石畳では跳ねる。
橋を渡り、大聖堂の裏へ回って、王立公証院の表階段の下まで運ぶのに一刻かかった。轍のたびに紙が鳴る。八年ぶんが鳴っているのだと思うと、通りの人がこちらを見るのも仕方がない気がした。
目録の紙は、運ぶあいだに角がそろって折れている。八年かけて書いたものが、半日で古びる。
「三百二十一枚――あ、二十二枚です!」
書記見習いのニナが、帳場の床に山を作って数え直す。数を扱うのが性に合っているらしい。指が紙の端を弾く音は、雨垂れのように規則正しい。
「お嬢様、これ、ぜんぶ一人の方が?」
「はい」
「一人で、三百二十二」
「はい」
ニナは数え終えた山の高さを、手のひらで確かめている。
「……ひどくないですか、それ」
「そう、でしょうか?」
「ひどいですよ!」
ひどい、という言葉を、わたしは八年使っていない。使わずに済ませてきたのではなく、思いつかなかった。十七の子が三十を数えるあいだに見つけたものを、わたしは八年見つけていない。
三階の監察官室へ上げるのに、二人がかりで四往復した。
監察官のヴェルトは、卓の上へ九つの山を作らせる。年ごとに一冊、八二四年から八三二年まで。
「一枚ずつ読みます」
「……全部を、でございますか?」
「五の条は、履行の可否は監察官が判定する、と定めています。読まずに判定はできません」
蝋燭が二本、朝までに四本になった。
わたしは帰るようにと二度言われて、二度とも帳場の椅子に座り直す。石の階段は冷たい。外套の裾から冷えが上がってきて、腿の裏がしびれる。
上の部屋から、紙をめくる音が降りてくる。一枚、間があって、また一枚。
あの音のひとつひとつが、わたしの夜である。書いた日の天気も、書いた場所も、たいてい思い出せる。思い出せるのに、その日、彼が来なかったことのほうは、どれも同じ形をしている。
「アルヴェーン補。上へ」
夜が明けるころ、呼ばれた。
「三百十九件、受理します」
「……三件は」
「請求できません」
ヴェルト監察官は三枚を横へ置く。
「五の条は、一義に判定できない約束は請求できない、と定めています。第七項『君を、退屈させない』。これは状態の約束です。果たし終えたかどうかを、私に判定する手立てがありません」
「では、第百五十四項も」
「『必ず、幸せにする』。同じく状態の約束であり、加えて期限がありません。第七項は、判定できないという一点で落ちます。この一件は、判定できず、いつまでにという定めもない。二重に落ちます」
二重に、と彼は言った。落ちるのに、そんな念の入れようが要るものだろうか。
「三枚目は」
「第三百二十二項『いつか、この八年ぶんを、まとめて返す』。六の条に反します。まとめて果たしたものは認めません。加えて『いつか』は期日ではないので、読み替えもできません」
紙が三枚、卓の端に寄る。
わたしは指を組み、それが震えているのを机の下で押さえた。
八年でいちばん欲しかった一枚が、いちばん請求できないものである。
欲しかった、という言い方は正しくない。あの夜、北の回廊で聞いた言葉を、わたしは信じたのだ。信じたから書いた。信じていなければ、書く必要などない。
書いたものは、今日、紙の端へ寄せられている。
――八年、わたしはこの三枚のために、残りの三百十九枚を書いていたのかもしれない。
そう思いかけて、やめた。それを認めてしまうと、三百十九枚のほうが、ただの添え物になる。
「読替の四則を申し上げます」
彼は同じ調子で続けた。声の高さが、審査の前と一つも変わらない。
過ぎた期日を指す約束は、期日を請求の日から三日以内に読み替え、場所と立会いの条件は落とす。年に一度の祭礼を指す約束は次に来るその日とし、六十日を超えて先になるときは前の則へ落とす。「これからは」という続けざまの言い方は、一度の実行をもって履行とみなす。履行に受約者の行為が要るものは、その一件の履行期のうちに協力がなければ、取り下げて帳に残す。
「四則以外の読み方はしません。私が作った則ではないので、私には動かせません」
「……はい」
「残る二条も申し上げます。七の条。受約者が『履行を要しない』と帳に記せば、その一件は消えます。約束者の側からは、消せません」
「消せるのは、わたしだけ」
「あなただけです。九の条。三日を過ぎて履行のない一件は、朱で書いて掲示に貼ります。朱記は消えません。のちに果たしても、〈後履行〉と並べて記すだけです」
彼は朱の墨壺を棚から取り、卓の端へ置いた。使う日のためではなく、見せるために置いたらしい。
「……罰は」
「ありません。帳に罰はありません。事実を貼るだけです」
わたしは、それを厳しいと思わない。八年、わたしの帳のほうがよほど何も貼らずにきた。
「アルヴェーン補。この帳が、なぜ誰にも使われないかを、ご存じですか?」
「面倒だから、と父は申しておりました」
「三つあります。一件ごとに手で書かねばならない。取り立てられるのは行為だけで、金にはならない。そして、貴族が野暮だと言う」
「……野暮、でございますか?」
「言ったことをする、と紙に書かせるのは、相手を疑うことだと。そういう作法になっております」
だから四十一件なのだ、と思った。数が少ないのは、約束が少ないからではない。書かせるのが失礼だとされているからである。
わたしは八年、失礼を続けてきたわけだった。
「年ごとの数を申し上げます。八二六年、三十五件。八二七年、三十八件。八二八年、四十一件。」
右肩上がりである。
「八二九年、四十四件。八三〇年、四十六件。八三一年、五十件」
「……多くなっております」
「去年、王都で帳に載った約束は四十一件です。うち三十九件があなたです。あなたの五十件のうち十一件は、王都の外での記帳でした」
わたしは口を開けて、閉じた。
王都で四十一件。ほかの全員を合わせて、二件。
八年、自分は几帳面なのだと思っていた。そうではないのだと、外から見せられて初めて分かる。几帳面な女が四十件書くのではない。四十件も言われる女が、四十件書くのである。
しかも数は、年ごとに増えている。増えていく数を、わたしは毎年、誇らしく綴じてきた。今年は五十件も預かっている、と。
喉の奥が塩辛い。泣くのとは違う。羞ずかしさというものに、こんな味があるとは知らなかった。
「アルヴェーン補」
ヴェルト監察官が、山の一つに手を置く。
「これは、恨みの字ではありません」
「……なぜ、そうお分かりになりますか?」
「八年、同じ書式で、同じ筆圧で書かれています。恨みは、字が乱れます」
彼は一枚を持ち上げて、光にかざした。裏から見ると、字の押されたところだけ紙が薄い。
「八二四年の分と、八三一年の分で、運筆が変わりません。人は、嫌になったものを、同じ丁寧さでは書けません」
「……書式は、父に習ったものです」
「習っただけの字は、途中で崩れます」
「崩れて、おりませんでしたか?」
「一枚も」
わたしは何も言えなかった。
この人は、わたしが何のために書いたかを、書式から読んでいる。八年、誰にも説明したことがない。父にも、彼にも。
――忘れたくなかったからです。
言おうとして、やめた。職務で来ている人に、言うことではない。
窓の外が白い。明け鐘が鳴る。
「請求開始は明日、三の月十四日。そこから一日に一件です」
彼は羽根ペンの先で数えた。指ではなく、ペンの先で。
「三百十九件。最後の請求は、来年の一の月二十七日でございます。三の月十四日から数えて、三百十九日」
三百十九日。口の中で繰り返してみる。
八年は、三百十九日かけないと返せない。数にしてみれば、返すほうがずっと短いのだった。
◇
〈言の帳〉八二四年の巻 アルヴェーン第七項
日付 五の月二十一日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 東の庭 藤棚の下
文言 「君を、退屈させない」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十五歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 退屈などしたことがございません。お待ちする時間も、この方の時間の一部だと思います。父には、この一件は帳に向かぬと言われました。それでも書きます。




