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1. 三百二十二枚

 磨きすぎた床に、自分の靴の先が映っている。


 ブランデル伯爵邸の小広間へ通されるのは、八年で四度目である。ふだんわたしが通されるのは北の小間で、そこは蝋燭が二本と決まっていた。今日は燭台が四つ立っている。明るすぎる部屋というのは、それだけで何かの知らせに見えた。


 暖炉の(まき)が湿っている。煙の匂いが天井の低いところに溜まって、目の奥をうっすら刺した。窓の外の東の丘には、まだ雪が残っている。


 椅子の背に、外套が無造作に掛けてある。袖口に、見覚えのない刺繍(ししゅう)。銀の糸で、波と鳥。ブランデル家の紋ではない。


 この紋を、わたしは知らない。八年通って、この家のものはたいてい知っている。燭台(しょくだい)(すす)の落とし方も、廊下のどの板が鳴るかも知っている。知らないものが一つ増えると、部屋ぜんぶが知らない場所に見えた。


 膝の上で手を重ねる。指の腹に、まだ(すみ)の匂いが残っている。


 このひと(つき)、わたしは夜ごと紙を起こしていた。日付、場所、文言(もんごん)。三百二十一枚を書き上げたのは、三日前の明け方である。爪の脇に(くろ)い染みが入り込んで、(あく)(こす)っても落ちなかった。


 噂は、ひと月前から王都に流れている。だからわたしは、書いておくことにしたのである。


「……来てくれたか」


 レオンハルト様が立ち上がる。


「すまない」


 その一語で足りる話だと、こちらは知っている。


「君と過ごす時間が、どうしても作れない。それだけなんだ」


 ――八年、聞いてきた言い訳が、今日、別れの理由になる。


 おかしなものだと思った。同じ言葉なのに、今日だけは最後まで言い切られている。八年のあいだ、この文句にはいつも続きがあった。「だから、来週こそは」「だから、次の休みには」。


 続きのない「取れない」を聞くのは、これが初めてである。


 胸のどこかが、すとんと下へ落ちた。痛みではない。長く持っていたものを、床に置いたときの、あの感じに近い。


「かしこまりました」


「……そう、か」


 彼の肩から力が抜けるのが見えた。わたしが泣くか、詰るか、どちらかだと思っていたのだろう。


「では、清算(せいさん)をいたしましょう」


「清算?」


「はい」


 わたしは扉のほうへ声をかけた。


 廊下で待っていた従僕が、台車(だいしゃ)を押して入ってくる。車輪が敷居を越えるたび、積んだ紙の束が小さく跳ねた。紙が擦れる音は、雪を踏む音に似ている。


「……なんだ、これは」


「三百二十一枚ございます」


「三百二十一?」


「〈(こと)(ちょう)〉の清算目録(せいさんもくろく)でございます。レオンハルト様が八年のあいだにわたしへなさった口約束を、一件につき一枚、書き出したものです」


 彼は台車を見る。


 怒りでもない。後ろめたさでもない。心当たりのない顔である。


 その顔を見た瞬間に、わたしはこの八年の形が分かった気がした。八年かけてわたしが書いた紙が、この人には今日はじめて会う他人の顔をしている。わたしが持っていたのは、彼が置いていったものだった。置いた本人が、置いた覚えを持っていない。


「俺が、そこまで」


「二の条にございます。約束者(やくそくしゃ)がご自分の口でおっしゃり、受約者(じゅやくしゃ)がその場で『帳に付けます』と申し上げ、約束者が(いな)とおっしゃらなかったとき、その約束は帳に載ります」


 彼は口を半分ひらいて、そのまま止まる。


「……付けます、とは。いつも君が言っていた、あれか?」


「毎回、申し上げております」


 そのたびに彼が何と答えたかも、わたしは覚えている。覚えているどころではない。全部、日付つきで書いてある。


「俺は、なんと」


「『ああ、付けておいてくれ』と」


 窓の外で、雪の塊が屋根から落ちる音がした。低くて、短い。


「八年で、三百二十一回。一度も、否とはおっしゃっておりません」


 ――一度も。


 その一語を口にしたとき、自分の声が思ったより静かなのに驚いた。八年ぶんの「はい」を、わたしはこの人から、一つ残らず受け取っていたのである。


「待ってくれ。君は当時、まだ資格を持っていなかっただろう?」


「三の条に、記帳は公証人または公証人補(こうしょうにんほ)が、その日のうちに日付・場所・文言・約束者・受約者・居合わせた者を記し、所見(しょけん)を添えてよい、とございます。見習(みなら)いの分は、公証人が同日中に奥書(おくがき)を入れて確定いたします。八二六年までの八十八件には、父の奥書が入っております」


 父の右手が動かなくなったのは、その翌年になる。八十八件めのあと、父の署名は帳から消えた。


「婚約は、今日で終わりだ。それでも、これは残るのか?」


「八の条。帳の債務は約束した本人にのみ属し、婚約の解消によっては消えません。代人(だいにん)による履行も認められません」


「……まとめて、片づけたい」


「六の条。数件をまとめて履行したものとは、認めません」


「一枚に、まとめてはいけないのか?」


 わたしは目録のいちばん上の一枚を取り、彼の手のひらに載せる。


 紙は薄い。一枚では、重さがまるでない。八年ぶんを積めば台車が要るのに、一枚では風で飛ぶ。


「いけません。約束は、一つずつ、なさったものですから」


 彼は手のひらの紙を見下ろしている。指が、端をつまんだまま動かなかった。


「お渡ししたのは目録でございます。書式は請求書と同じものですが、これ自体は請求ではございません。四の条により、請求は公証院の発する請求状(せいきゅうじょう)一通による、一日に一件です」


「一日に、一件」


「はい。明後日、届出をいたします」


「……金は」


「一の条により、帳に載るのは金銭を伴わない行為の約束だけでございます。履行に銀貨(ぎんか)一枚を超える(つい)えのかかるものは、はじめから載りません」


 彼が、はじめてまともにこちらを見る。


「では、俺は何を払う?」


「お金は、一枚も請求いたしません。ご自分でおっしゃったことを、ご自分で、なさっていただきます。それだけでございます」


 彼はしばらく何も言わなかった。やがて外套を取り、扉のほうへ歩いていく。刺繍の波と鳥が、燭台の下で一度だけ光る。


 その背中を見て、わたしはようやく、自分が何を失ったのかを考えた。


 ――失ったのだろうか。


 八年、この人はここにいなかった。いない人を、今日から、いないことにするだけである。手放すものが見当たらない。それが、いちばん寒い。


「なあ」


 こちらは見ていない。


「いつか、この八年ぶんを、まとめて返す」


「――帳に付けます」


 声は、思ったよりはっきり出た。八年、同じ高さで言い続けた一句である。喉が勝手に覚えている。


 彼は扉の前で足を止めた。こちらは見ないまま、はっきりとこう言う。


「……ああ」


 三百二十二回目の「ああ」である。


 わたしは彼の顔を見る。聞こえていたのだ。聞こえたうえで、否とは言わなかった。二の条は、それで足りる。


 わたしは懐から帳と矢立(やたて)を出し、その場で書く。日付、場所、文言、約束者、受約者、居合わせた者。八年やってきた手順である。書き終えるのに、百を数えるほどもかからない。


 手が震えなかったことに、あとから気づいた。八年、この人の言葉を書くとき、わたしの手は一度も震えていない。


 それから目録の紙をもう一枚起こし、同じ文言を写した。


 冷めた墨は、乗りが悪い。それでも字は書ける。


「これで、三百二十二枚でございます」


       ◇


〈言の帳〉八三二年の巻 アルヴェーン第三百二十二項


 日付 三の月十一日 下がり鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 小広間 暖炉の前 東向きの椅子


 文言 「いつか、この八年ぶんを、まとめて返す」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス、侍女ロッテ、玄関に御者一名


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・二十三歳)


 所見 (記載なし)


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