10. まとめては、返せません
建議は、朝のうちに届いた。
二階の書庫に写しが回覧されている。紙と膠の匂いのする部屋で、院の者が三人、同じ紙を順に読んでいる。
書庫の窓は北向きで、昼でも暗い。燭台を寄せないと字が読めない。この部屋にある帳の何割かは、もう百年、誰にもめくられていないはずである。
「〈言の帳〉廃止の建議。差出、ブランデル伯爵ほか十一名」
ヴェルト監察官が表題を読み上げる。
「理由を、申し上げます。第一に、使われぬ制度は害になる。去年一年で四十一件、うち三十九件が一人の受約者によるものであり、王国の制度として体を成していない」
「……はい」
「第二に、口約束で回っている社交が止まる。相手を疑って紙に書かせる作法が広まれば、貴族間の取り決めがすべて滞る」
わたしは、それを読んで黙った。
筋が通っている。腹立たしいことに、通っている。
このひと月で起きたことを、わたしは一つずつ思い返してみる。わたしがこのひと月でしたことは、王都に「書かせる」という作法を持ち込むことだった。グレーテが来て、油屋の名が朱で貼られている。それは、この建議が言うとおりのことである。
「アルヴェーン補。院長がお呼びです」
院長は白髪の老人で、机の上に建議と、わたしの目録の一枚を並べて置いていた。
「これを止めたいなら、あなたが理由を言いなさい」
「はい」
「制度を守れ、では足りん。なぜ一日一件でなければならんのか。それを言いなさい」
わたしは、少し考える。
六の条の文言は覚えている。数件をまとめて履行したものとは認めない。一件は、一件として果たす。けれど、なぜそう書いてあるのかを、わたしは今日まで考えたことがない。
「……まとめて返せるなら、八年は、十一日で終わります」
「うむ」
「一日に三十件なら、十一日で三百十九件。それでも帳の上では、全部果たしたことになります」
院長は目録の一枚を指で押さえる。
「八年だ、と言うのだね」
「一日ずつ、八年でございます。三百二十二回、別々の日に、別々の場所で言われました。まとめて言われたのではありません」
「……なるほど」
「一日一件は、債務者を苦しめるための定めではございません。八年を八年として返させるための定めでございます」
「うむ」
院長の指が、目録の紙を離れた。
「まとめて返していただきますと、わたしの八年が、十一日だったことになります」
その一言には、口に出してから自分でおどろく。誰にも教わっていない。八年、待っているあいだに、どこかで身体が覚えたものらしい。
院長は建議を裏返し、何も書かずに置く。
その四日、彼は毎日来た。第二十八項から第三十一項まで。朱記のあと、彼は一度も遅れていない。
二日目の一件は、こうである。
「第二十九項。八二五年、三の月五日。文言――『明日は、朝いちばんに来る』」
「一則、だな」
「はい。請求の翌日から三日以内でございます」
彼は翌朝、明け鐘とともに来た。門番によれば、その前から石段に座っていたという。
八年前の「明日」は、来なかった。八年後の「明日」には、門が開く前から座っている。
同じ人である。変わったのは、期日が書いてあるかどうかだけである。
◇
三日目の夕方、帳場に女の人が立っていた。
旅装ではないが、外套の袖に銀の刺繍がある。波と鳥。あの日、椅子の背に掛かっていた外套と同じ紋である。
「テレーゼ・アルヴェーン様でいらっしゃいますね」
「はい」
「クラリッサ・ゼーラントと申します」
背が高く、まっすぐ立つ人である。謝りに来た顔でも、勝ちに来た顔でもない。
わたしは、この人に会うことを想像したことがなかった。想像しなかったのは、想像すると自分が惨めになると知っていたからである。
実際に立たれてみると、惨めではない。ただ、背が高いと思っただけだった。
「わたくしの帳も、付けてくださいますか?」
「……ゼーラント様の」
「ええ。あの方の口約束を、わたくしの分も」
わたしは記帳台の前へ椅子を出す。
「差し支えなければ、理由を伺えますか?」
「わたくし、あの方に何も頼まないの」
彼女は座らずに言う。
「頼まなければ、破られないから。八年ぶんの請求書を見て、そう決めましたのよ。……でもそれ、たぶん、間違いよね」
「……」
「頼まないというのは、いないのと同じですもの」
「……お辛くはありませんか?」
「辛くはないの。それが困っているのよ」
辛くない、という言い方に、わたしは覚えがある。八年、わたしもそう答えてきた。父にも、ロッテにも。
わたしは筆を取る。
八年、わたしは頼み続けた女である。この人は頼まないと決めた女である。行き着く先が同じなら、どちらの八年にも意味がないことになる。
――そうではない。
わたしには、帳が九冊ある。この人には、何も残らない。
「お付けいたします」
ゼーラント第一項。八三二年四の月十二日。文言は、その日の夕方、彼女の前で本人が口にしたものである。
夜の帳場で、ヴェルト監察官が判定書を閉じた。
「アルヴェーン補」
「はい」
「あなたは、何を待っておいでですか?」
わたしは手を止める。
待っている。八年、ずっとそう言われてきた。父にも、侍女にも、あの人にも。
「――もう、待っておりません」
「では」
「取りに行っております」
彼は何も言わなかった。判定書の背を、指で一度撫でただけである。
「監察官も、待ったことがおありですか?」
聞いてしまってから、これは職務の外だと気づいた。
彼は答えない。窓の外の東の丘に、灯が一つ点いている。
「……これは約束ではありませんので」
答えない、という答えである。
帰りに、表階段の脇を通った。
樫の板に、朱の紙が八枚並んでいる。
四枚は、これまでのぶんである。西の油屋。その隣に二枚。いちばん上に、九日のブランデル。
残る四枚は、この四日で新しく貼られたものだった。北の仕立て屋、川向こうの靴屋、それから知らない家が二つ。ブランデルの名は、増えていない。
王都の人が、帳を使いはじめている。
わたしは指を折って数えた。残りの請求は、二百八十九件である。
二百八十九日。来年の一の月まで、この人は毎日、わたしに会いに来る。
八年、来なかった人が。
◇
〈言の帳〉八三二年の巻 ゼーラント第一項
日付 四の月十二日 下がり鐘
場所 王立公証院 一階 帳場
文言 「今度、君の生まれた町を見に行こう」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 クラリッサ・ゼーラント
居合わせた者 書記見習いニナ・ベルク、監察官コンラート・ヴェルト
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・二十三歳)
所見 受約者、その場で告げる。約束者、否と言わず。以上。




