11. 湖まで歩く
北の門を出ると、道の土がゆるんでいる。
四の月の泥は、三の月のものより重い。靴の底に貼りついて、一歩ごとに足が二倍になる。抜くたびに、下から水の音がした。
湖までは、門から半刻である。
この道を、わたしは知らない。八年、東の丘へ向かう道ばかり歩いてきたのである。王都に北の門があって、その先に湖があることは、頭では知っていた。知っていて、一度も行っていない。
水の匂いは、風より先に来た。岸の泥と、去年の葦の匂いが混じっている。生ぐさいというより、まだ冷たい匂いである。
「第三十二項でございます」
わたしは請求状を読み上げた。
「八二五年、五の月八日。文言――『明日、湖まで一緒に歩こう』」
「一則だな」
「はい。期日を、請求の日から三日以内へ読み替えます」
「場所は、落ちないのか?」
「湖は文言そのものでございます。落ちますのは、期日と、立会いの条件だけでございます」
彼は自分の靴を見下ろす。今日は歩く支度をしてきている。八年前の室内履きとは違う。
岸まで来ると、浅いところの水が揺れていた。底の石が、日を受けて緑に見える。
風が渡ると、水の上の光が一斉に向きを変える。眩しいというより、目の奥がちりちりした。八年、わたしが見てきた光は、屋敷の窓から漏れる光ばかりである。あれは待つ側の光だった。
これは、待たなくても届く光である。
「これで、いいのか?」
「湖まで、お歩きになりました」
「歩いただけだ」
「歩くと、お約束なさいましたので」
ヴェルト監察官が判定書に一行入れる。
「履行と認めます」
それで終わりである。
わたしは指を折った。八二五年五の月八日から今日まで、二千五百三十一日。半刻の道に、それだけかかっている。
その数を出したところで、胸のどこかが軽くなるわけでもない。数は、出したあとの置き場所がない。八年、わたしは数を出しては、置き場所を探しそこねてきた。
帳を開く。八二五年の巻の、第三十二項。
所見の欄に、自分の字がある。
――湖の舟は、花市の日から出るそうです。明日は歩くだけですが、次は舟に乗せていただきます。
十六の春に、そう書いた。舟に乗ったことがなかったので、乗れたら書き足すつもりでいたのである。書き足す欄は、あの日から一度も使っていない。
書いた日の光まで思い出せる。北の客間の窓は西向きで、午後になると卓の上が蜂蜜の色になった。わたしはその色の中で、舟の絵を頭に描きながら、この二文を書いている。
絵のほうは、今も覚えている。白い舟で、櫂が二本あって、わたしは舳先に座っている。
顔を上げる。岸に舟はない。花市は五の月十日で、それまで湖の舟は出ないのである。
文言は果たされ、所見は果たされない。
帳は、文言しか守らないのだ。所見の欄は、三の条が「添えてよい」と書いているだけで、誰にも守る義理がない。八年、わたしはいちばん守ってほしいものを、守らなくてよい欄のほうへ書き続けていた。
喉の奥が、少し狭くなる。泣くのとは違う。飲み込むものが大きすぎて、通り道のほうが先に驚いているような感じである。
文言は、他人に読ませるために書くものである。所見は、自分のために書く。守られるのは前のほうだと、八年たって初めて分かった。
「監察官」
「はい」
「所見の欄は、なぜございますのでしょう?」
「三の条が、添えてよいと書いているからです」
「守られない欄を、なぜ置くのでしょうか?」
彼は判定書の背に指を置いたまま、少し黙る。
「……判定できません」
この人が判定できないと言うのを、わたしは久しぶりに聞いている。
水の面が、風で細かく折れる。丘が映っていたはずの場所が、いま白く割れている。
足の裏が冷たい。泥がしみているらしい。冷たさは、たいてい遅れてくるものである。
「アルヴェーン補」
「はい」
「舟は、まだ出ておりません」
顔を上げると、ヴェルト監察官は判定書を閉じている。
「……お読みになりましたか?」
「所見は記帳の一部です。読まずに判定はできません」
「はい」
「次がある、と書いた人を、私は笑いません」
それだけ言って、彼は先に歩き出す。
その背中を見ながら、わたしは所見のことを考えていた。
この人は、判定に要らない欄まで読む。読んでおいて、読んだと言わない。言えば、それが約束のかわりになると思っているのだろう。
わたしは、気づいたことを言わないでおいた。言わないでおくのが、この人への礼儀のような気がしたからである。
◇
公証院に戻ると、建議の写しが二階から下りてきている。
回覧の紙は、回るほど端が汚れるものらしい。今朝いちばんに読んだ者の指の跡が、もう三人ぶん重なっている。
「院長は、まだ何もおっしゃいません」
ニナが声を落とす。
「四日、机の上に置いたままです」
「読んでは、おいでですか?」
「毎朝、いちばんに」
「置いてあるうちは、退けてもおられませんね」
「……はい」
置いたままにするのは、決めないという決め方である。伯爵閣下は、それを見越して十一人を集めたのだろう。
紙の角が、湿気で少し反っている。書庫の紙はいつもこうなる。決まらないまま置かれた紙は、日ごとに読みにくくなっていくのである。
四の月十六日。空は晴れている。
彼は昼鐘の前に、父の家の記帳所の軒下まで来た。第二十四項――「雨の日は、記帳所まで迎えに行く」の、七日遅れである。
「遅れた」
「はい」
「……それでも、来た」
「はい」
彼は傘を提げている。今日は雨ではない。持ってくる必要のない傘を、この人は持ってきているのだった。
「四の月十六日。第二十四項、後履行」
ヴェルト監察官が判定書を開く。
「朱記は」
「消えません。九の条でございます」
彼が判定書を覗き込む。朱で書かれた行のすぐ下に、黒で一行が足されている。〈朱記〉と〈後履行〉が、上下に並んで残る形である。
「……並ぶのか?」
「並びます」
「消えるものだと、思っていた」
「果たせば消えるのでしたら、遅れた事実が、どこにも残りません」
彼は判定書を長いこと見ていた。読んでいるというより、二行の間隔を測っているような目である。
朱の一行と、黒の一行。上の行のほうが、少しだけ字が大きい。朱で書くときは筆に力が入るからだと、わたしは知っている。書いたのは、わたしではないけれど。
その日の夕方、公証院の表階段の脇に、黒い紙が一枚貼られる。朱の紙の、すぐ横である。
ヴェルト監察官の手は、朱の紙を剥がしにいかない。指は、黒い紙の端をそろえるだけだった。
剥がせる位置にある紙を、剥がさない手である。九の条を書いたのが誰かは知らないが、この人はその条を、手で守っている。
八年、わたしは自分の帳を自分の手で守ってきた。守っているつもりで、ただ抱えていたのかもしれない。抱えるのと守るのは、指の使い方からして違うのだと、この人の手を見ていて思う。
この七日で、七件。第三十二項から第三十八項まで、彼は一日も落としていない。朝の帳場の窓が白む前に、門番が「もうお見えです」と言いに来る日が三日続いた。
残る請求は、二百八十二件である。
四の月二十日の夜、わたしは八三二年の巻を開いて、ゼーラント第一項の頁を見た。
記帳されたまま、請求されていない。あの方は、まだ何も取りに来ていないのである。
翌朝、帳場の戸が大きく開く。
「連れてきたよ」
グレーテである。うしろに三人、立っていた。
この三人と、次の五日で来る七人ぶんを、順に記帳することになる。
「三人とも、うちの通りの方ですか?」
「いいや。橋の向こうから来た人もいるよ」
「……橋の向こうから、でございますか?」
「噂ってのは、水より速いんだよ」
◇
〈言の帳〉八二五年の巻 アルヴェーン第三十二項
日付 五の月八日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 北の客間 窓ぎわ
文言 「明日、湖まで一緒に歩こう」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、侍女ロッテ
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 湖の舟は、花市の日から出るそうです。明日は歩くだけですが、次は舟に乗せていただきます。




