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12. 三つ櫛亭の帳

 宿の土間は、いつも湿っている。


 橋のたもとで川風を受ける造りだから、床の乾く日がない。踏むと、(わら)と土の匂いが立つ。


 天井が低い。梁に手が届きそうな高さで、煤で黒くなっている。先だって伯爵邸の広間で天井を見上げたばかりなので、この低さの下に立つと、人の背丈というのは同じなのだと妙なことを思う。


「三人でいいのかい?」


 グレーテが指を三本立てる。


「もっといるんだよ。うちの通りだけで、もっと」


「順に(うけたまわ)ります」


「そりゃそうだ。一日に一件なんだろ」


「請求が一日に一件でございます。記帳のほうに、数の限りはございません」


「ああ、そっちは限りがないのかい?」


 わたしは帳を開いて、白紙の頁を見せる。


「ございません」


 グレーテが笑った。歯を見せる笑い方をする人である。


 この十日で、王都の記帳は二十六件になっている。去年の四十一件のうち、わたし以外の分は二件だけだった。その帳が、十日で二十六件を受けているのである。


 そのうち十七件が、貴族の家に仕える者からの記帳である。


「お仕えの方が、いちばん多うございます」


「そりゃあねえ。旦那衆は言うだけだもの」


「……はい」


「言われるほうは、覚えてるんだよ」


 覚えている、という言葉が、土間の湿りに落ちる。


 わたしは八年、覚えている側にいた。覚えていることが手柄だと思ったことは、一度もない。ほかにできることが、なかっただけである。


 この土間に立っている人たちも、たぶん同じである。覚えていたくて覚えているのではない。忘れられないものを、置く場所がなかっただけなのだろう。


 置く場所を作ってしまったのが、わたしである。


 四の月二十六日。その日の請求は、第四十四項である。


「八二五年、七の月十九日。文言――『今度、あの宿の葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲みに行こう』」


「……あの宿、とは」


「〈三つ櫛亭〉でございます」


 彼が土間を見回す。ここへ入るのは初めてらしい。


「一の条に触れませんか?」


 わたしはヴェルト監察官に尋ねた。


「葡萄酒は一杯、銅貨(どうか)四枚です。銀貨一枚を超えません」


「では、載ります」


「載っています。八年、載ったままです」


 グレーテが木の杯を二つ運んでくる。


 酸の匂いが立つ。上等な酒ではない。舌の脇が、少し痛くなるような酸っぱさである。


 十六のわたしは、この酒を上等なものだと思っていた。飲んだことがないから、そう書けたのである。所見に「(さかな)は塩漬けの魚を」と書いたときの、あの得意な気持ちを、まだ覚えている。


「八年前に、飲みたかった」


 彼はそう言って、一口飲む。


「今も、飲めます」


「……そうだな」


「履行と認めます」


 八年遅れの一杯は、それで終わりである。


 杯の底に、酒が少し残っている。わたしは自分のぶんを飲み干して、その酸っぱさを覚えておくことにした。


 喉が焼ける。八年待った味が、こんなに安い酸っぱさだったことに、腹も立たない。腹が立たないことのほうが、少し怖い。


 覚えておいて、どうするつもりなのか、自分でも分からない。書く欄は、もうどこにもないのである。


    ◇


「お嬢様。書ける人が足りません」


 帳場に戻ると、ニナが紙を抱えて立っている。


「今日だけで、六件です」


「明日は?」


「明日も、たぶん」


 公証人補は、王都に四人しかいない。うち一人は病で臥せっている。


「わたし、資格(しかく)を取ります」


「試験は年に一度、夏でございます」


「今年、受けます」


「……はい」


「お嬢様が八年で九冊なら、わたしは十年で三十冊です」


 ニナは真顔である。冗談を言っているつもりが、まるでない。


 わたしの九冊は、待った証しである。この子の三十冊は、そうではないのだろう。同じ帳でも、置き場所が違えば、まるで別の物になるらしい。


 ニナは、誰も待っていない。待っていない人が、待つ人のために帳をつける。それは八年前のわたしには、思いつきもしなかった形である。


 わたしの八年が、他人の道具になっている。


 そう思って、それを嫌だと思わない。むしろ、指の先が少しあたたかい。道具は、使われたほうが減らない。減るのは、しまい込んだ側である。


 夕方、ヴェルト監察官が記帳台の反対側に座る。


 この十日で、三度目になる。三度も見れば、おかしいという感じはもう薄い。人手が足りない場所では、格というのはいちばん先に濡れて縮むものらしい。


「油屋の女房(にょうぼう)どのが、字を書けません」


「代筆でございますか?」


「三の条は、記す者を公証人と公証人補に限っています。私は監察官ですので、下書きだけです」


 彼が羽根ペンを取る。左手が紙を押さえた。


「では、清書はわたくしが」


「お願いします。――これは約束ではありませんので」


 五度目である。わたしは数えている。


 この人は、親切をするたびにこれを言う。言わないと、親切が約束になってしまうと思っているらしい。


 八年、わたしは逆のものを受け取り続けてきた。約束だけを受け取って、親切は一度も受け取っていない。


 どちらが重いかを、わたしは考えたことがなかった。約束のほうが重いに決まっていると思っていたのである。


 いま、記帳台の向こうで紙を押さえている手のほうが、重い。


 この十日で、十件。三十九項から四十八項まで、日付だけが違う同じ手続きが並んでいる。雨の日が二日あって、その二日も彼は昼鐘の前に来ている。


 残る請求は、二百七十二件である。


 その夜、帳場に一通、届く。


 わたし宛である。厚い紙で、封に銀の(ろう)。波と鳥の紋である。


       ◇


〈言の帳〉八二五年の巻 アルヴェーン第四十四項


 日付 七の月十九日 下がり鐘


 場所 王都 旧市街 橋のたもと 〈三つ櫛亭〉の表


 文言 「今度、あの宿の葡萄酒を飲みに行こう」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 橋の上から、宿の看板が見えました。(さかな)は塩漬けの魚を頼むつもりです。


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