表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/18

13. 一曲

 蝋の匂いは、量が多いと甘くなる。


 ゼーラント侯爵邸の広間には、燭台が二十四立っていた。数えたのは、入って三十を数えるあいだである。


 人の熱で、床の近くまで暖かい。八年前の舞踏会も、同じ暖かさだったと思う。


 あの晩、わたしは壁ぎわで足が痛かった。新しい靴だったからである。痛いのを我慢していれば、そのぶん何かが報われるような気がしていた。


 十六の考えることである。


「あの方よ」


「口約束を数える方」


 扇の陰から声がする。隠す気のない隠し方である。


 わたしは壁ぎわに立って、請求状を確かめた。


 第五十一項。八二五年、九の月六日。文言――「次の夜会では、必ず一曲」。五の月三日に請求し、期限は六日の暮れ鐘である。今日は五の月五日で、期限の前日にあたる。


「一則により、八年前の夜会という条件は落ちます」


 ヴェルト監察官が言う。


「残るのは、一曲踊るという行為です。ただし四則にあたります」


「わたしが応じませんと?」


「〈協力なし〉として、請求を取り下げます」


「四つ目は、作りません」


 わたしはそう答えた。果たされないまま帳に残る一件は、いま三つある。四つ目を作らないと決めたのは、髪飾りを着けた日である。


 彼が広間の向こうから来る。人の間を抜けてくるのに、思ったより時間がかかった。


「テレーゼ」


「はい」


「……一曲、頼めるか?」


「請求しておりますのは、こちらでございます」


「そうだったな」


 手を取る。八年前、わたしはこの手を待って壁ぎわに立っていたのである。


 手袋ごしでも、この人の手は熱い。八年、わたしはこの熱を知らずにいた。知らないまま、待っていたことになる。


 知らないものを、どうして八年も待てたのだろう。待っていたのは、この熱ではなかったのかもしれない。


「はじめて、触れました」


「……八年前も、触れていない」


「はい。存じております」


 曲が始まる。三拍子である。


 彼は上手い。八年前も上手かったと思う。踊りだけは、この人が約束どおりにできる数少ないものである。


 わたしは数えている。


 一、二、三。四、五、六。回る足の数を、勝手に数えている。数えないでおこうと思うのに、身体のほうが先に数え始めているのである。


 ――踊りながら、わたしは数を数えている。


 八年前のわたしは、この曲を数えなかったはずである。数えていたら、あんなに長くは待てない。


 数えるというのは、終わりを見る目のことである。八年、わたしは終わりを見ないようにして立っていた。いまは、終わりのほうから逆に数えている。


 燭台の火が、回るたびに横へ流れる。同じ部屋の同じ光が、立つ位置ひとつで別のものに見えるらしい。


「……何か、数えているか?」


「いいえ」


 二度目の嘘である。


 曲が終わる。彼が手を離す。


「履行と認めます」


 壁ぎわから、ヴェルト監察官の声がした。彼は踊らない。立会いのあいだ、一度も壁を離れていない。


    ◇


「よろしければ、こちらへ」


 声をかけてきたのは、ゼーラント様である。


 彼女は広間の中央に立ち、わたしの隣に来て、それきり動かなかった。動かないことで、扇の陰の声が止む。


「わたくし、数える方の味方ですの」


「……ゼーラント様」


「数えないと、なかったことになりますもの」


「ゼーラント様も、数えておいでですか?」


「わたくしは、まだ一件だけ」


 その一件を、あの方はまだ請求していない。


「一件は、一件でございます」


「そうね。一件は、一件」


 それだけ言って、彼女は微笑む。


 助けられた、と思う。八年、わたしは誰にも助けられたことがない。助けを求める先を、思いつかなかったからである。


 肩が触れそうな距離に、人がいる。八年、わたしの隣はいつも空いていた。空いているのが普通になると、埋まったときのほうが落ち着かない。


 頼まないと決めた人と、頼み続けた人が、同じ床に並んで立っている。どちらの選び方も、隣を空けたままにはしてくれなかったらしい。


 五の月七日。暮れ鐘。


 第五十二項――「明日、記帳所へ寄る」。五の月四日に請求し、期限は今日である。


 彼は来ない。


「一昨日は、朝から夜会のお支度でお出かけになりまして、お戻りは宵鐘すぎでございました。あくる日から二日は、旦那様がお客様を」


 ハンスが門でそう言う。それ以上は言わない。


「ハンス。お客様は、どなたがお呼びになりましたか?」


「……旦那様でございます」


 九の条により、朱記。二枚目である。


 朱の紙が樫の板に上がったとき、読みに来る人が前より多い。三日前は、こんなに立ち止まらなかった。


 紙は、朝の雨で端が波打っている。それでも字は読める。朱は、濡れても薄くならない墨で()るのだとニナが言う。


「お嬢様、二枚目です」


「……はい」


「数えないほうが、いいですか?」


「数えてください。数えるのが、わたくしどもの仕事ですから」


 わたしは、その紙をまっすぐ見られない。増えていくのを見るのが、こんなに疲れることだとは思わないでいた。


 九日、彼は記帳所へ寄る。〈後履行〉が、また一行、黒で並んだ。


 帰りに、公証院の門の前で馬車が待っている。


「これは」


「お乗りください」


「監察官の馬車でございますか?」


「院の馬車です。夜の橋は、灯が三つしかありません」


 わたしは乗った。乗ってから、聞いておくべきことを聞いていないと気づく。


「監察官」


「はい」


「これは」


「――これは約束ではありませんので」


 六度目である。


 馬車が橋を渡る。灯は、たしかに三つしかなかった。三つのあいだが、思っていたよりずっと暗い。


 八年、わたしはこの橋を歩いて渡っている。暗いと思ったことがないのは、暗いのが当たり前だったからだろう。


 車輪が石を打つ音が、身体の下から上がってくる。歩けば一つずつ拾う継ぎ目を、馬車は続けて鳴らしていく。同じ橋が、乗る側からはこんなに短い。


 この九日で、九件。うち一件が朱記になり、その一件も二日遅れで果たされている。


 残る請求は、二百六十三件である。


「明日は、花市でございますね」


「はい。五の月十日です」


       ◇


〈言の帳〉八二五年の巻 アルヴェーン第五十一項


 日付 九の月六日 宵鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 広間 柱の陰


 文言 「次の夜会では、必ず一曲」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス、侍女ロッテ


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 三拍子の稽古を四十日いたしました。ロッテが数えてくれましたので、間違いございません。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ