13. 一曲
蝋の匂いは、量が多いと甘くなる。
ゼーラント侯爵邸の広間には、燭台が二十四立っていた。数えたのは、入って三十を数えるあいだである。
人の熱で、床の近くまで暖かい。八年前の舞踏会も、同じ暖かさだったと思う。
あの晩、わたしは壁ぎわで足が痛かった。新しい靴だったからである。痛いのを我慢していれば、そのぶん何かが報われるような気がしていた。
十六の考えることである。
「あの方よ」
「口約束を数える方」
扇の陰から声がする。隠す気のない隠し方である。
わたしは壁ぎわに立って、請求状を確かめた。
第五十一項。八二五年、九の月六日。文言――「次の夜会では、必ず一曲」。五の月三日に請求し、期限は六日の暮れ鐘である。今日は五の月五日で、期限の前日にあたる。
「一則により、八年前の夜会という条件は落ちます」
ヴェルト監察官が言う。
「残るのは、一曲踊るという行為です。ただし四則にあたります」
「わたしが応じませんと?」
「〈協力なし〉として、請求を取り下げます」
「四つ目は、作りません」
わたしはそう答えた。果たされないまま帳に残る一件は、いま三つある。四つ目を作らないと決めたのは、髪飾りを着けた日である。
彼が広間の向こうから来る。人の間を抜けてくるのに、思ったより時間がかかった。
「テレーゼ」
「はい」
「……一曲、頼めるか?」
「請求しておりますのは、こちらでございます」
「そうだったな」
手を取る。八年前、わたしはこの手を待って壁ぎわに立っていたのである。
手袋ごしでも、この人の手は熱い。八年、わたしはこの熱を知らずにいた。知らないまま、待っていたことになる。
知らないものを、どうして八年も待てたのだろう。待っていたのは、この熱ではなかったのかもしれない。
「はじめて、触れました」
「……八年前も、触れていない」
「はい。存じております」
曲が始まる。三拍子である。
彼は上手い。八年前も上手かったと思う。踊りだけは、この人が約束どおりにできる数少ないものである。
わたしは数えている。
一、二、三。四、五、六。回る足の数を、勝手に数えている。数えないでおこうと思うのに、身体のほうが先に数え始めているのである。
――踊りながら、わたしは数を数えている。
八年前のわたしは、この曲を数えなかったはずである。数えていたら、あんなに長くは待てない。
数えるというのは、終わりを見る目のことである。八年、わたしは終わりを見ないようにして立っていた。いまは、終わりのほうから逆に数えている。
燭台の火が、回るたびに横へ流れる。同じ部屋の同じ光が、立つ位置ひとつで別のものに見えるらしい。
「……何か、数えているか?」
「いいえ」
二度目の嘘である。
曲が終わる。彼が手を離す。
「履行と認めます」
壁ぎわから、ヴェルト監察官の声がした。彼は踊らない。立会いのあいだ、一度も壁を離れていない。
◇
「よろしければ、こちらへ」
声をかけてきたのは、ゼーラント様である。
彼女は広間の中央に立ち、わたしの隣に来て、それきり動かなかった。動かないことで、扇の陰の声が止む。
「わたくし、数える方の味方ですの」
「……ゼーラント様」
「数えないと、なかったことになりますもの」
「ゼーラント様も、数えておいでですか?」
「わたくしは、まだ一件だけ」
その一件を、あの方はまだ請求していない。
「一件は、一件でございます」
「そうね。一件は、一件」
それだけ言って、彼女は微笑む。
助けられた、と思う。八年、わたしは誰にも助けられたことがない。助けを求める先を、思いつかなかったからである。
肩が触れそうな距離に、人がいる。八年、わたしの隣はいつも空いていた。空いているのが普通になると、埋まったときのほうが落ち着かない。
頼まないと決めた人と、頼み続けた人が、同じ床に並んで立っている。どちらの選び方も、隣を空けたままにはしてくれなかったらしい。
五の月七日。暮れ鐘。
第五十二項――「明日、記帳所へ寄る」。五の月四日に請求し、期限は今日である。
彼は来ない。
「一昨日は、朝から夜会のお支度でお出かけになりまして、お戻りは宵鐘すぎでございました。あくる日から二日は、旦那様がお客様を」
ハンスが門でそう言う。それ以上は言わない。
「ハンス。お客様は、どなたがお呼びになりましたか?」
「……旦那様でございます」
九の条により、朱記。二枚目である。
朱の紙が樫の板に上がったとき、読みに来る人が前より多い。三日前は、こんなに立ち止まらなかった。
紙は、朝の雨で端が波打っている。それでも字は読める。朱は、濡れても薄くならない墨で磨るのだとニナが言う。
「お嬢様、二枚目です」
「……はい」
「数えないほうが、いいですか?」
「数えてください。数えるのが、わたくしどもの仕事ですから」
わたしは、その紙をまっすぐ見られない。増えていくのを見るのが、こんなに疲れることだとは思わないでいた。
九日、彼は記帳所へ寄る。〈後履行〉が、また一行、黒で並んだ。
帰りに、公証院の門の前で馬車が待っている。
「これは」
「お乗りください」
「監察官の馬車でございますか?」
「院の馬車です。夜の橋は、灯が三つしかありません」
わたしは乗った。乗ってから、聞いておくべきことを聞いていないと気づく。
「監察官」
「はい」
「これは」
「――これは約束ではありませんので」
六度目である。
馬車が橋を渡る。灯は、たしかに三つしかなかった。三つのあいだが、思っていたよりずっと暗い。
八年、わたしはこの橋を歩いて渡っている。暗いと思ったことがないのは、暗いのが当たり前だったからだろう。
車輪が石を打つ音が、身体の下から上がってくる。歩けば一つずつ拾う継ぎ目を、馬車は続けて鳴らしていく。同じ橋が、乗る側からはこんなに短い。
この九日で、九件。うち一件が朱記になり、その一件も二日遅れで果たされている。
残る請求は、二百六十三件である。
「明日は、花市でございますね」
「はい。五の月十日です」
◇
〈言の帳〉八二五年の巻 アルヴェーン第五十一項
日付 九の月六日 宵鐘
場所 ブランデル伯爵邸 広間 柱の陰
文言 「次の夜会では、必ず一曲」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、侍女ロッテ
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十六歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 三拍子の稽古を四十日いたしました。ロッテが数えてくれましたので、間違いございません。




