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14. 花市

 花の水は、日が高くなると匂いが変わる。


 朝は青いだけの匂いが、昼には少し甘くなり、夕方には濁る。城下の南の広場に、年に一度だけ市が立つ日である。


 敷石が熱い。靴の裏から、じかに上がってくる。


 人と、花と、水を撒いた石。三つの匂いが層になっていて、歩くたびに順番が入れ替わる。八年前の五の月十日も、この匂いだったはずである。


 はずである、としか言えない。あの日、わたしはここに来ていない。


「五十一日、お待たせいたしました」


 わたしはそう言った。


「第六項でございます。八二四年、五の月九日。文言――『今度の花市へ、一緒に行こう』」


「二則、だったな」


「はい。条件が成りましたので、本日から三日以内でございます」


「今日でいい」


 彼はそう答えて、広場のほうを見る。


 人が多い。鉢を抱えた人と、抱えていない人が、同じ速さで歩いている。


「どこへ行けばいい?」


「南側の、鉢の店の三軒目でございます」


「……なぜ、決まっている?」


「所見に書いてございますので」


 彼は黙る。


 八年前、十五のわたしは、行く前に店を決めていた。白い花の鉢を見に行く、と書いてある。父に断っておくこと、とも書いてある。


 三軒目の店は、まだあった。


 主人は白髪の老人で、八年前と同じ場所に鉢を並べている。白い花もある。


「これでございます」


「これか?」


 声が、思ったより高い。市の音の中でも、この人の声はよく通る。


「はい」


 彼は鉢の前で膝を折り、白い花を下から覗いた。八年前、この人はこの姿勢を一度もしていない。


 膝を折るというのは、時間を差し出す姿勢である。立ったままなら、いつでも行ける。


「……これを、見に来たかったのか?」


「そうでございます」


「鉢一つ、見るだけのために」


「鉢一つ、見るだけのためでございます」


 彼は白い花を見下ろす。花の名前も聞かないところが、仔馬の名を聞かなかった人らしい。


「花の名を、お聞きになりますか?」


「……いや」


「お聞きになれば、覚えます」


「覚えて、どうする?」


 その問いに、わたしは答えを持っていない。覚えて、どうもしないのである。


「名は、鈴蘭(すずらん)でございます」


「……聞いていない」


 聞かれる前に言ってしまうのは、八年で身についた癖である。


「申し上げたかったので」


 店の主人が、鉢を少しだけ手前へ寄せた。八年前も、こうして寄せてくれたような気がする。気がするだけで、所見には書いていない。


 二人で、鉢の前に立つ。


 それだけである。文言は「一緒に行こう」であって、買うことは履行に入っていない。


 立つだけの履行を、わたしは思ったよりも静かに受け取った。


 鉢の縁に、指を置いてみる。焼き物は日に温められて、人の肌より少し熱い。この温さを、十五のわたしは知らないまま「見に行きます」と書いたのである。


「履行と認めます」


 ヴェルト監察官の声が、市の音に混じって遠い。


 十五のわたしは、この日のためにこの店を書いたのではない。八年後の五の月十日に、二十三の自分が、元の婚約者と一緒に鉢を見るために書いたのではないのである。


 書いたときの気持ちは、もう手元にない。書いた文字だけが、正確に残っている。


 文字は、書いた人を待ってくれない。八年たてば、書いた人のほうが別人になる。それでも文字は、十五の声で同じことを言い続けるのである。


 ――白い花の鉢を見に行きます。(くつ)は新しいほうを。


 今日の靴は、履き古したほうである。


 帳とは、そういうものらしい。


    ◇


「アルヴェーン様!」


 呼ばれて振り向く。三つ櫛亭の隣の、蝋燭(ろうそく)屋の女房である。


「うちの、書いてもらってから、二度も帰ってきましたよ」


「それは、ようございました」


「書いただけなのにねえ」


「二度も、でございますか?」


「二度も。書いてあるから帰ってくるのかね、あれは」


 女房は前掛けで手を拭きながら、真顔でそう聞く。


「読まれるからでございます」


「読まれるとねえ、人は帰ってくるのかい?」


「……そのようでございます」


 書いただけである。罰も金もない。ただ、書いたものが誰にでも読める形になるだけである。


 それだけのことで、帰ってくる人がいる。八年、帰ってこなかった人もいる。


 その差を、わたしはまだ言葉にできない。言葉にできないまま、市の音の中に立っている。


 音は、明るい。()を言う声と、鉢の触れ合う音と、子どもの声。この明るさの中で、わたしは八年ぶんの一件を片づけたところである。


「伯爵閣下のほかに、十四名だそうです」


 ヴェルト監察官が、人混みの中で言った。


「建議の署名でございますか?」


「はい。ほか十一名から、三名増えました」


「……増えますね」


「増えます」


 彼は花の鉢の間を歩き、一本だけ切り花を買う。


 白い花である。誰にも渡さない。判定書の上へ横に置いて、風で頁がめくれないようにしただけである。


「花は、押さえになりますか?」


「押さえには、なります」


「……そうでございますね」


 わたしは八三〇年の巻を思い出していた。第二百十七項。文言は「今年の花市も、半刻一緒にいよう」の十五文字だけで、所見は一語である。


 ――待つ。


 あの一件は、まだ請求していない。順に並べれば、秋の終わりごろになる。


 同じ花市の約束が、六年で一語になった。あのころのわたしは、店の場所も、靴のことも、父に断ることまで書いていたのである。


 痩せていく所見を、わたしは毎年、自分の手で書いた。誰にも短くしろと言われていない。書くことがなくなったのではなく、書いても仕方がないと、指のほうが先に覚えたのである。


 その指で、今日も請求状を書いている。


 その日を入れて三日、彼は毎朝来ている。五十八項から六十項まで、市の片づく広場の隅で、三日とも同じ刻に。


 残る請求は、二百六十件である。


 三日目の夕方、広場の出口で、彼が足を止めた。


 鉢の白い花に、日が低く当たっている。


「……楽しかった」


 言ってから、彼は口を開けた。


 次の言葉が、出かかっている。それが何で始まる言葉なのか、わたしにも分かる。


 「また」で始まる言葉である。


 彼の顔から、色が引いた。


       ◇


〈言の帳〉八三〇年の巻 アルヴェーン第二百十七項


 日付 二の月九日 朝鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 表門 馬車寄せ 東の柱の下


 文言 「今年の花市も、半刻一緒にいよう」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス、御者一名、門番二名、厩番(うまやばん)一名、侍女ロッテ、庭師(にわし)一名


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・二十一歳)


 所見 待つ。


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