表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
15/19

15. 次はいつ、と聞かれるのが

 朝の帳場は、(すみ)の乾きが遅い。


 川からの湿りが石の床に上がってくるので、書いた字がいつまでも光っている。指で触れないように、紙を斜めに立てて待つ。


 その待ち方だけは、八年で上手くなった。


 紙の上の光が、少しずつ痩せていく。乾くというのは、光が減ることらしい。八年、わたしはこの減り方をずっと見てきたことになる。


「テレーゼ」


 彼が帳場へ来たのは、朝鐘のすぐあとである。


「頼みがある」


「請求のご相談でしたら、監察官へ」


「そうじゃない」


 彼は記帳台に手を置く。


「俺の言ったことを、書いてほしい。これから言うぶんを」


「二の条により、約束者からは頼めません」


「……知っている」


「では」


「誰かに、頼めばいいのか?」


 わたしは筆を置いた。


 この人は、七の条も六の条も覚えていない。二の条だけを覚えている。八年、いちばん多く聞かされた条だからだろう。


 わたしの声で、三百二十二回。この人の耳に残ったのは、条の中身ではなく、たぶんわたしの声の高さのほうである。


「受約者になる方が、ご自分で『帳に付けます』とおっしゃる必要がございます」


「頼んで、いいものなのか?」


「頼むものではございません。受ける方が、受けたいと思われたときに」


「……そうか」


 そこへ、ゼーラント様が入ってくる。


 この人が帳場に立つのは二度目である。前は夕方で、記帳台の前に座らなかった。今日は自分から椅子を引いている。


「わたくしが受けますわ」


「クラリッサ……」


「あの夕方と同じに、帳に付けます、と申せばよろしいのね?」


「その場で、ご本人が口になさったときに。何度でも」


「では、そのたびに申しますわ」


 彼女はわたしのほうを見て、少し笑う。


「テレーゼ様。書き方を、教えてくださらない?」


「……わたくしが、でございますか?」


「八年、書いていらしたのでしょう?」


 わたしは矢立と、白紙の綴じを一つ出す。


 日付、場所、文言、約束者、受約者、居合わせた者。八年やってきた手順を、他人に教えるのは初めてである。


 声に出して並べてみると、三の条が記せと言う欄は、たった六つしかない。八年かけて覚えるようなものではないのである。それでもわたしは、この六つを毎晩、蝋燭が短くなるまで並べ直していた。


「所見の欄は」


「添えても、添えなくても構いません」


「あなたは、添えたの?」


「……添えました」


「三百二十二回、ぜんぶ?」


 わたしは一度、筆を置き直す。


「はじめのころは、三行ずつ。近ごろは、一語か、何も」


「……短くなったのね」


「短くなりました」


 彼女は、それ以上は聞かなかった。


「クラリッサ、とお呼びになって」


「……クラリッサ様」


「そう」


    ◇


 五の月十七日。第六十五項である。


「八二六年、三の月八日。文言――『今度、君の読んでいる本の話を聞く』」


「一則です」


 ヴェルト監察官が判定書を開く。


「判定は、本の話が終わるまで席をお立ちにならないことといたします」


「分かった」


 わたしは『諸国の橋の話』を持ってきていた。十七のとき読んでいた本である。


 橋の話をする。石の橋は、まん中がいちばん高い。荷車が渡ると、上りと下りで音が変わる。


「旧市街の橋は、八十七歩ございます」


「……八十七、か」


「数えましたので」


 彼は何も言わない。八十七という数に、心当たりはないはずである。あの日、わたしは何も数えていないと答えている。


 四半刻で、わたしは話を切り上げた。


「終わりでございます」


「もう、いいのか?」


「はい」


「履行と認めます」


 八年前のわたしなら、終わらせなかったと思う。終わらせずに、この人がいつ立つかを見ていたはずである。


 試さなかった。試さないでいられる自分に、少しおどろいている。


 試すというのは、まだ何かを期待している人のすることである。期待が減ると、人は親切になるらしい。親切になったぶん、遠い。


「テレーゼ」


「はい」


「……何も、聞かないんだな」


「伺っても、件数は減りませんので」


「言わせてくれ」


 彼は卓の木目を見ている。名を呼べなかった三日間と、同じ癖である。


「行けば、聞かれる」


「……はい」


「次の約束を求められる。俺は、それに答えられない。だから、行かなかった」


 次はいつ来るのか。八年、わたしがいちばん多く口にした一言である。


 わたしは、その言葉を口の中で置き直してみた。


 行けば聞かれる。聞かれると答えられない。答えられないから、行かない。行かないから、また言う。


 筋は通っている。八年ぶんの筋が、たった四行で通ってしまうのである。


 四行で済むものを、わたしは八年、三百二十二枚に伸ばして持っていた。伸ばしていたのは、この人ではない。わたしのほうである。


 胸のあたりが、じんと重い。怒りではない。怒るには、この理由はあまりに小さすぎる。小さいものが八年ぶん積もっただけだと分かってしまい、置き場所がまた見つからなくなる。


「存じております」


 それだけである。


 憐れだと思う。思うだけで、線はどこも動かない。憐れみというのは、こちらの何かを差し出す気持ちではないらしい。


 八年前なら、この一言で全部を許していたと思う。理由を聞けたというだけで、待った日々に名前がついた気がしたはずである。


 いまは、名前がついても、日々は戻らないことを知っている。


 帳場を出るとき、クラリッサ様が並んで歩く。


「あなた、あの人のことを、もう見ていないのね」


「……見ておりますが」


「見ていないわ。数えているだけ」


 その言い方に、わたしは返す言葉を持たなかった。


    ◇


 五の月十九日は、朝から雨である。


 第六十七項。八二六年三の月二十日の記帳で、文言は「雨の日は、傘を持って行く」。四の条のただし書きにより、雨の降った今日から三日以内が履行期になる。


「一昨日が第六十五項、本日が第六十七項でございます」


「番号が、二つ飛んだな」


「あいだに第六十六項がございました。昨日、果たしていただいております」


「果たすほうも、一日に一件か?」


「いいえ。履行の期が重なれば、同じ日に並びます。四の条が縛りますのは、請求でございます」


 彼は傘を二本、脇に抱えて来た。一本は自分のぶんである。


「二本、でございますか?」


「一本だと、俺が濡れる」


「……道理でございます」


 文言は「持って行く」だけで、差しかけるとは書いていない。彼は一本を差し出し、それきり半歩うしろを歩いた。


「履行と認めます」


 ヴェルト監察官の声が、雨の音の下で低い。


 柄が濡れている。持ってきた人の手のぶんだけ、木が色を変えていた。


 伯爵邸の門の前を通ったのは、その帰りである。


 ハンスが門を開けている。中で、伯爵閣下が息子を呼んでいた。


「レオンハルト。家訓の話をしよう」


 この十日で、十件。六十一項から七十項まで、彼は一日も落としていない。門番はもう名を覚えていて、来る前から扉を開けている。


 残る請求は、二百五十件である。


 門は、そこで閉まる。


 八年、この門はわたしの前で開いて、わたしの後ろで閉まってきた。今日は、わたしの前で閉まっている。


 外側から見る門は、思ったより高い。


       ◇


〈言の帳〉八二六年の巻 アルヴェーン第六十五項


 日付 三の月八日 昼鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 図書室 窓ぎわの卓


 文言 「今度、君の読んでいる本の話を聞く」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十七歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 『諸国の橋の話』を読んでおります。石橋の音の話をいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ