15. 次はいつ、と聞かれるのが
朝の帳場は、墨の乾きが遅い。
川からの湿りが石の床に上がってくるので、書いた字がいつまでも光っている。指で触れないように、紙を斜めに立てて待つ。
その待ち方だけは、八年で上手くなった。
紙の上の光が、少しずつ痩せていく。乾くというのは、光が減ることらしい。八年、わたしはこの減り方をずっと見てきたことになる。
「テレーゼ」
彼が帳場へ来たのは、朝鐘のすぐあとである。
「頼みがある」
「請求のご相談でしたら、監察官へ」
「そうじゃない」
彼は記帳台に手を置く。
「俺の言ったことを、書いてほしい。これから言うぶんを」
「二の条により、約束者からは頼めません」
「……知っている」
「では」
「誰かに、頼めばいいのか?」
わたしは筆を置いた。
この人は、七の条も六の条も覚えていない。二の条だけを覚えている。八年、いちばん多く聞かされた条だからだろう。
わたしの声で、三百二十二回。この人の耳に残ったのは、条の中身ではなく、たぶんわたしの声の高さのほうである。
「受約者になる方が、ご自分で『帳に付けます』とおっしゃる必要がございます」
「頼んで、いいものなのか?」
「頼むものではございません。受ける方が、受けたいと思われたときに」
「……そうか」
そこへ、ゼーラント様が入ってくる。
この人が帳場に立つのは二度目である。前は夕方で、記帳台の前に座らなかった。今日は自分から椅子を引いている。
「わたくしが受けますわ」
「クラリッサ……」
「あの夕方と同じに、帳に付けます、と申せばよろしいのね?」
「その場で、ご本人が口になさったときに。何度でも」
「では、そのたびに申しますわ」
彼女はわたしのほうを見て、少し笑う。
「テレーゼ様。書き方を、教えてくださらない?」
「……わたくしが、でございますか?」
「八年、書いていらしたのでしょう?」
わたしは矢立と、白紙の綴じを一つ出す。
日付、場所、文言、約束者、受約者、居合わせた者。八年やってきた手順を、他人に教えるのは初めてである。
声に出して並べてみると、三の条が記せと言う欄は、たった六つしかない。八年かけて覚えるようなものではないのである。それでもわたしは、この六つを毎晩、蝋燭が短くなるまで並べ直していた。
「所見の欄は」
「添えても、添えなくても構いません」
「あなたは、添えたの?」
「……添えました」
「三百二十二回、ぜんぶ?」
わたしは一度、筆を置き直す。
「はじめのころは、三行ずつ。近ごろは、一語か、何も」
「……短くなったのね」
「短くなりました」
彼女は、それ以上は聞かなかった。
「クラリッサ、とお呼びになって」
「……クラリッサ様」
「そう」
◇
五の月十七日。第六十五項である。
「八二六年、三の月八日。文言――『今度、君の読んでいる本の話を聞く』」
「一則です」
ヴェルト監察官が判定書を開く。
「判定は、本の話が終わるまで席をお立ちにならないことといたします」
「分かった」
わたしは『諸国の橋の話』を持ってきていた。十七のとき読んでいた本である。
橋の話をする。石の橋は、まん中がいちばん高い。荷車が渡ると、上りと下りで音が変わる。
「旧市街の橋は、八十七歩ございます」
「……八十七、か」
「数えましたので」
彼は何も言わない。八十七という数に、心当たりはないはずである。あの日、わたしは何も数えていないと答えている。
四半刻で、わたしは話を切り上げた。
「終わりでございます」
「もう、いいのか?」
「はい」
「履行と認めます」
八年前のわたしなら、終わらせなかったと思う。終わらせずに、この人がいつ立つかを見ていたはずである。
試さなかった。試さないでいられる自分に、少しおどろいている。
試すというのは、まだ何かを期待している人のすることである。期待が減ると、人は親切になるらしい。親切になったぶん、遠い。
「テレーゼ」
「はい」
「……何も、聞かないんだな」
「伺っても、件数は減りませんので」
「言わせてくれ」
彼は卓の木目を見ている。名を呼べなかった三日間と、同じ癖である。
「行けば、聞かれる」
「……はい」
「次の約束を求められる。俺は、それに答えられない。だから、行かなかった」
次はいつ来るのか。八年、わたしがいちばん多く口にした一言である。
わたしは、その言葉を口の中で置き直してみた。
行けば聞かれる。聞かれると答えられない。答えられないから、行かない。行かないから、また言う。
筋は通っている。八年ぶんの筋が、たった四行で通ってしまうのである。
四行で済むものを、わたしは八年、三百二十二枚に伸ばして持っていた。伸ばしていたのは、この人ではない。わたしのほうである。
胸のあたりが、じんと重い。怒りではない。怒るには、この理由はあまりに小さすぎる。小さいものが八年ぶん積もっただけだと分かってしまい、置き場所がまた見つからなくなる。
「存じております」
それだけである。
憐れだと思う。思うだけで、線はどこも動かない。憐れみというのは、こちらの何かを差し出す気持ちではないらしい。
八年前なら、この一言で全部を許していたと思う。理由を聞けたというだけで、待った日々に名前がついた気がしたはずである。
いまは、名前がついても、日々は戻らないことを知っている。
帳場を出るとき、クラリッサ様が並んで歩く。
「あなた、あの人のことを、もう見ていないのね」
「……見ておりますが」
「見ていないわ。数えているだけ」
その言い方に、わたしは返す言葉を持たなかった。
◇
五の月十九日は、朝から雨である。
第六十七項。八二六年三の月二十日の記帳で、文言は「雨の日は、傘を持って行く」。四の条のただし書きにより、雨の降った今日から三日以内が履行期になる。
「一昨日が第六十五項、本日が第六十七項でございます」
「番号が、二つ飛んだな」
「あいだに第六十六項がございました。昨日、果たしていただいております」
「果たすほうも、一日に一件か?」
「いいえ。履行の期が重なれば、同じ日に並びます。四の条が縛りますのは、請求でございます」
彼は傘を二本、脇に抱えて来た。一本は自分のぶんである。
「二本、でございますか?」
「一本だと、俺が濡れる」
「……道理でございます」
文言は「持って行く」だけで、差しかけるとは書いていない。彼は一本を差し出し、それきり半歩うしろを歩いた。
「履行と認めます」
ヴェルト監察官の声が、雨の音の下で低い。
柄が濡れている。持ってきた人の手のぶんだけ、木が色を変えていた。
伯爵邸の門の前を通ったのは、その帰りである。
ハンスが門を開けている。中で、伯爵閣下が息子を呼んでいた。
「レオンハルト。家訓の話をしよう」
この十日で、十件。六十一項から七十項まで、彼は一日も落としていない。門番はもう名を覚えていて、来る前から扉を開けている。
残る請求は、二百五十件である。
門は、そこで閉まる。
八年、この門はわたしの前で開いて、わたしの後ろで閉まってきた。今日は、わたしの前で閉まっている。
外側から見る門は、思ったより高い。
◇
〈言の帳〉八二六年の巻 アルヴェーン第六十五項
日付 三の月八日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 図書室 窓ぎわの卓
文言 「今度、君の読んでいる本の話を聞く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十七歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 『諸国の橋の話』を読んでおります。石橋の音の話をいたします。




