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16. 否と言うな

 旧市街の記帳所は、川の匂いがする。


 朝のうちがいちばん濃い。石の床が湿って、父の記帳台の脚のところだけ、木の色が濃く上がっている。八年、わたしはこの匂いの中で紙を起こしてきた者である。


 記帳台の天板には、右の端に浅い窪みがある。父が四十年、同じ場所へ肘を置いてできたものである。わたしの肘は、そこへ届かない。


 五の月二十三日。第七十一項の日である。


「入っても、いいのか?」


 彼は敷居の手前で止まっている。


「どうぞ」


「……邪魔をする」


 この人がうちの敷居をまたぐのは、八年で初めてである。門の前で馬車を返すか、門を通り過ぎるかの、どちらかである。


 十六の年、わたしはこの土間を三度掃いた。来ると言われた日である。掃いた土間に、その日は誰も立たなかった。


 いま、八年ぶんの土間の上に、この人の靴の跡が二つついている。うれしくない。うれしくないことに、もう驚かなくなった自分のほうが、少しだけ寂しい。


 父が奥の椅子から顔を上げる。彼は帽子を取り、それから何も言えずにいる。


「……ご無沙汰しております」


「うむ」


 父はそれだけである。右手は膝の上に置かれたまま、動かない。


「アルヴェーン殿。お加減は」


「悪い」


「……はい」


「悪いが、耳は達者だ。八年ぶんの足音は、覚えとります」


 彼の肩が、目に見えて下がった。


 彼は記帳台のふちに指を置いて、すぐ離す。触れたところに指の跡が残って、消えていく。


「家訓の話を、された」


「伺いません」


「聞かないのか?」


「伺っても、件数は減りませんので」


「……そうだったな」


 彼は少しだけ笑う。笑うと、目の下に線が一本できる。八年前には無かった線である。


 その日の一件は、記帳台の前で四半刻もかからずに済んだ。


    ◇


 五の月二十五日。第七十三項である。


「八二六年、五の月四日。文言――『明日、門の外まで送る』」


「一則です。場所の条件は落ちます」


 ヴェルト監察官が判定書を開く。


「では、こちらの門で構いません」


 わたしは公証院へ戻るところだった。彼は帽子をかぶり直して、記帳所の門を出る。門の外は、川沿いの一本道である。


 午後の川は、光を細かく割って流している。水の匂いに、日に温まった石の匂いが混じる。対岸の洗い場から、布を打つ音が規則正しく届いていた。


「八年前は、うちの門だったな」


「三十八歩でございました」


「……数えたのか?」


「所見に、書いてございます」


 彼は口の中で三十八という数を繰り返して、それきり黙って歩いた。道の端に、去年の葦の枯れたのが残っている。風が来ると、乾いた音が足の横で鳴る。


 半歩うしろに、この人の靴の音がある。八年、わたしはこの音を、いつも扉の向こうで聞いていた。近くで聞くと、思ったより軽い。


 橋のたもとで、彼は止まる。


「ここまでだ」


「履行と認めます」


 わたしは橋を渡りはじめて、途中で気がついた。


 歩数を数えていない。


 八年、この人の隣を歩くときは、いつも何かを数えている。歩数か、待った刻か、あと何回言われたら泣くかを数えていた。今日は、道の端の葦を見ていただけである。


 数えるというのは、こわいことに耐える手つきである。十五のわたしが数えたのは、日没までの鐘の数だった。


 十八で数えたのは、来なかった日の数である。数えているあいだは、まだ何かが動いている気がする。


 橋を、あらためて歩いて数えてみる。八十七。旧市街の橋は、いつでも八十七歩である。


 数えるものが、この人から、橋のほうへ移っている。橋は毎日そこにあって、増えも減りもしない。数えて安心できるものを、わたしはやっと見つけたらしい。


 翌日は第七十四項だった。文言は「今年の収穫祭は、半刻一緒にいよう」である。


「二則により、次の収穫祭(しゅうかくさい)は十の月十五日。請求から百三十九日先でございます。六十日を超えますので、周期の条件は落ちて、一則によります。あわせて四則、受約者の協力が要ります」


「収穫祭は、来ないのか?」


「収穫祭は、落ちました」


「落ちる、か」


 落ちる、と口では言うが、条は「落とす」と書いてある。落とすのは条のほうで、誰の意思でもない。


「三日のうちに、半刻。わたくしが座らなければ、〈協力なし〉として取り下げになります」


 その日の午後、わたしたちは記帳所の裏の石段に半刻すわっている。刈るものも、積むものも、何ひとつ無い五の月である。


 ヴェルト監察官が、少し離れた井戸のふちに立って、下がり鐘からの半刻を計っている。


 石段は日に温まっていて、座ると手のひらが先に温かくなる。裏の畑では、豆の蔓がまだ膝ほどしかない。


 八二六年の秋、わたしはこの一件を十の月の空の下で果たすつもりでいた。麦の匂いと、遠くの太鼓と、人の多い広場を思っていたのである。


 落ちたのは日付だけではない。あの空のほうが、まるごと落ちたのである。


 半刻が過ぎて、ヴェルト監察官が判定書に黒で一行を入れる。


「履行と認めます」


 帳は、文言を守る。文言に書いていないものは、誰も守ってくれない。


    ◇


 五の月二十七日の夕方、ブランデル伯爵が記帳所へ来た。


「アルヴェーン殿。建議に、お名前を頂戴したい」


 父は湯呑みを左手で持ち上げ、冷めた茶を一口飲む。指の関節が白い。飲むまでに、いつも三つ数えるほどの間がある。


「わしは、八十八回、奥書を入れた男でございます」


「存じております」


「あれを無くせと書く手は、持っとりません。右手が動かんのは、都合がようございました」


 伯爵閣下は、それ以上勧めなかった。この人は、断られ方の礼儀をよく知っている。


「閣下。一つだけ、伺ってもよろしいですか?」


「どうぞ」


「なぜ、ご子息に否を教えなかったのですか?」


 伯爵閣下は帽子のふちを撫でる。


「わしは二十四の年に、一度だけ否と言った。王の狩りの供を断ったのだ。父が寝ついておったのでな」


「……はい」


「翌年から七年、宮廷の招きにブランデルの名が無い。川普請の順も、後ろへ回された」


「七年、ですか?」


「否は、一度で足りる」


 七年、と口の中で置いてみる。人ひとりが育つほどの長さである。


 ご子息が十一から十八になるあいだ、この家の食卓では、断るという言葉が禁じられていたのである。


「それを、ご子息に」


「見せた。教えてはおらん。見せただけだ」


 わたしは、この人を責める言葉を探して、見つからない。理由が正しすぎるのである。


 この家は、八年、わたしに嘘をついていなかった。ただ、断り方を知らなかっただけである。


 知らないというのは、悪意より始末が悪い。悪意なら、やめてくださいと言える。


 窓の外で、川舟の櫂が水を打つ音がする。日が落ちかけて、土間の隅から順に暗くなっていく。


「閣下。否と言わないことと、はいと言うことは、違います」


「……違うか」


「違います。ご子息は、八年、わたしに一度も否とおっしゃいませんでした。はいと、三百二十二回おっしゃいました」


 言いながら、声が震えないことに自分で気づいている。八年前なら、ここで泣いていた。泣かないでいられるのは強くなったからではなく、泣く相手を間違えていたと分かったからである。


 伯爵閣下は、戸口で一度だけ振り返る。


「帳が廃されれば、あの朱の紙も剥がれましょうな」


 ヴェルト監察官が、記帳台のわきから一歩出た。


「九の条。三日を過ぎて履行のない一件は朱で記し、掲示に貼り出す。朱記は消えない」


 紙を見ずに言う。閣下の前でも、声の高さが一つも変わらない。


「のちに履行しても〈後履行〉と並べて記すだけである。債務そのものは、朱記によっても消えない」


 条文を、そのまま読み上げただけである。


 伯爵閣下が出て行ってから、わたしは頭を下げた。土間に、また靴の跡が増えている。


「監察官」


「条文を読むのは、私の職務です」


「……本日は、誰にも頼まれておりませんでした」


「これは約束ではありませんので」


 この人が言うと、この一句はいつも短い。長く言えば約束になってしまうと知っている人の、切り方である。


 残る三日で、三件。彼は毎日、明るいうちに来る。門番のいない門を、自分で開けて入るようになっている。


 二十八日は風が強く、彼の帽子が土間まで転がる。二十九日は父が眠っていて、彼は起こさずに帳場の外で待っている。三十日は、来たときにはもう蝋燭が要る刻だった。


 残る請求は、二百四十二件である。


 三十日の暮れ方、ヴェルト監察官が院長に呼ばれて三階へ上がる。


 理由は、言わなかった。


       ◇


〈言の帳〉八二六年の巻 アルヴェーン第七十三項


 日付 五の月四日 下がり鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 表門 外の一本道の入口


 文言 「明日、門の外まで送る」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十七歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 門の外の一本道は、三十八歩ございます。明日は数えずに歩いてみます。


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