17. 七年
公証院の二階は、糊の匂いがする。
巻を封じるのに使う糊で、煮た米と膠を混ぜたものである。書庫の窓は高いところに一つしかなく、光は棚の上のほうだけを照らしている。
下の段は一日じゅう薄暗い。閉じた巻の背が、暗がりの中で少しずつ色の違う茶色に並んでいる。
古いものほど白っぽい。日に焼けるのではなく、人の指がさわって色が抜けるのだと、父が言っていた。
わたしの九冊は、いちばん端の段にある。八二四年の巻だけ、背の下のほうが少し濃い。十五のわたしが、毎晩そこを持って開いていたからである。
「院長は、何とおっしゃいましたか?」
「審議で、監察官の意見を述べよと」
「お答えは」
「まだ、しておりません」
ヴェルト監察官は八二六年の巻を卓に置く。
「述べられないのですか?」
「述べれば、いずれかの側に立ちます」
「……はい」
「立つのは、構いません。立ったあとで、判定ができなくなります」
六の月に入って、彼は一日も落としていない。五日は第八十三項で、文言は「明日、明け鐘に来る」である。彼は明け鐘の前から、表階段に座っていた。
「早すぎます」
「鐘が鳴ってからだと、遅れることがある」
「何刻からおいででしたか?」
「……覚えていない」
「覚えていない、と申されますと」
彼は帳場の壁の時鐘表を見上げる。
「暗いうちだ。数えていなかった」
数えていなかった、という言い方を、わたしは口の中でもう一度繰り返す。
八年、この人から一度も聞かなかった種類の言葉である。石はまだ夜の冷たさを持っていて、外套の裾は朝露で色が変わっている。
早く来る人の姿というものを、わたしは知らなかった。待たれる側は、こんなに落ち着かないものらしい。
石段のいちばん下に座って、この人は東の空を見ていた。膝の上で手を組み、鐘が鳴るまで一度も動かない。八年ぶんの「すぐ行く」が、いま、鳴る前から座って待つ形になっている。
遅かった、と思う気持ちは湧かない。湧いてもいい場面だと思うのに、胸の中は静かなままである。もう届かないところで動いているものを見るのは、他人の家の窓を見るのに似ている。
十日。第八十八項。
「八二六年、十二の月二十八日。文言――『すぐ行く』」
「三日以内に」
彼は下がり鐘の前に来ている。
「履行と認めます」
ヴェルト監察官が黒で一行を書く。それで八二六年の巻は、三十五件すべてが済んだことになる。
わたしは紙を細く裁って、巻の背に糊を引く。
糊は冷たい。刷毛でのばすと、紙の目に沿って光が走る。乾くまでに数えて二百ほど、そのあいだは頁を閉じられない。
最後の頁を開いたまま、指が止まった。
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)。
父の字は、右上がりで、最後の一画をわずかに跳ねる。八二四年の巻ではまだ跳ねが鋭い。八二六年の暮れの一件では、跳ねが下へ流れている。
八十八回。わたしが待ちぼうけを書いた日、父はその紙をその日のうちに読んで、名前を書いていた。読まずに書いた回は、一度も無いはずである。
次の巻から、この行は無い。
「これが、父の奥書のある最後の一件でございます」
「存じております」
彼は判定書の墨を吹いて乾かしている。
「監察官は、この巻をご覧になったことが」
「八年ぶん、全部読みました。届出の夜に」
「……一晩で、ですか?」
「一晩です」
三百二十二枚を一晩で読んだ人が、いま、奥書のある最後の一枚の前にいる。
「明日から、この行はございません」
「はい」
彼は判定書から目を上げない。
「……はい、と申されるのですね」
「無くなったものを、有ることにはできません」
声が、いつもより半歩遅れて来る。
◇
封じた巻を棚へ戻すとき、ヴェルト監察官が左手で背を押さえてくれた。甲の痕が、窓の光の帯に入る。
白く引き攣れた皮膚が、指の付け根から手首のほうへ広がっている。冬に一度ではない痕だと、見て分かる形をしていた。
「監察官」
「はい」
「その痕は」
「七つのときの凍傷です」
わたしは聞いてしまったことに気づいて、口を閉じる。町の人の記帳を下書きしてもらった日から、わたしはこの痕について何も聞かずにきた。聞かないでいることが、この人への礼儀だと思っていたのである。
この人は、それでも続けている。
「母が、すぐ戻ると言って出たのです。冬でした」
「……はい」
「帰りません。私は十四まで、冬になると玄関におりました。七年です」
七年。先だっての夕方に聞いたばかりの数である。伯爵閣下が宮廷から外されていた年数と、同じ長さだった。
同じ七年でも、片方は家の格の話で、片方は玄関の話である。片方は取り返せて、片方は取り返せない。
「玄関は、寒かったですか?」
「寒かったです。ですが、外の音がよく聞こえます」
この人が「ですが」を使うのは珍しい。
「馬の足音が、坂の下から順に大きくなります。うちの前で小さくなれば、止まる馬です。大きいまま過ぎれば、他所の馬です」
「……聞き分けて、しまわれるのですね」
「聞き分けます。七年も聞けば、誰でも」
棚の影が、話しているあいだに少しだけ動いた。
「……その七年に、奥書はありましたか?」
「ありません」
「どなたも、書いてくださらなかったのですね」
「書く者がいれば、私は公証院に入っておりません」
棚の埃が、光の中をゆっくり回っている。急いでいるものが、この部屋には一つも無い。
「私は、七年、待ちました。帳に付ける者が、家にいなかったのです」
わたしは何も言えない。
言葉のかわりに、下の帳場から湯を貰ってきて、湯呑みを彼の手の横へ置いた。湯気が細く立って、光の帯のところで白く見える。
彼は左手を湯呑みの腹に当て、しばらくそのままでいる。痕のある甲が、下から温められて、少しずつ色を戻していく。
わたしには、奥書を入れてくれる人がいた。
書いた紙が、その日のうちに誰かの手で確かめられて、はじめて紙でなくなる。八年、わたしはそれを当たり前だと思っていたのである。
父は一度も、待つのをやめろとは言わない。やめろと言うかわりに、毎晩、右手で名前を書いた。
あれは慰めではない。娘の一日が確かに起きたことだと、公の形で認める手続きである。
当たり前でない人が、目の前で湯呑みをあたためている。
この人の七年には、記す者も、奥書を入れる者もいなかった。玄関に立っていた事実は、どこにも一行も残っていない。残っているのは、左手の甲の白い痕だけである。
書いてもらえた八年と、書いてもらえなかった七年が、いま同じ卓の上に置かれている。
「これは約束ではありませんので」
彼はそう言って、話を閉じた。
親切に添える一句で、自分の話までしまう人である。しまわれた側に、わたしは何も返せない。返す言葉を持っていないというより、この人が返されることを望んでいない。
湯呑みの湯が減っていない。あたためるためだけに持っていたらしい。
その十日で、十件。六の月一日から十日まで、彼は一度も遅れていない。朝の石段に座る背中を、わたしは三度見た。
残る請求は、二百三十二件である。
夕方、掲示に一枚、朱でない紙が貼られる。
〈言の帳〉廃止の建議、審議。六の月十八日、公証院大部屋。
◇
〈言の帳〉八二六年の巻 アルヴェーン第八十八項
日付 十二の月二十八日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 北の客間 暖炉のわき
文言 「すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十八歳)
奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)
所見 年の瀬でお忙しいご様子です。客間の火は、暮れ鐘まで落ちませんでした。




