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17/21

17. 七年

 公証院の二階は、(のり)の匂いがする。


 巻を封じるのに使う糊で、煮た米と(にかわ)を混ぜたものである。書庫の窓は高いところに一つしかなく、光は棚の上のほうだけを照らしている。


 下の段は一日じゅう薄暗い。閉じた巻の背が、暗がりの中で少しずつ色の違う茶色に並んでいる。


 古いものほど白っぽい。日に焼けるのではなく、人の指がさわって色が抜けるのだと、父が言っていた。


 わたしの九冊は、いちばん端の段にある。八二四年の巻だけ、背の下のほうが少し濃い。十五のわたしが、毎晩そこを持って開いていたからである。


「院長は、何とおっしゃいましたか?」


審議(しんぎ)で、監察官の意見を述べよと」


「お答えは」


「まだ、しておりません」


 ヴェルト監察官は八二六年の巻を卓に置く。


「述べられないのですか?」


「述べれば、いずれかの側に立ちます」


「……はい」


「立つのは、構いません。立ったあとで、判定ができなくなります」


 六の月に入って、彼は一日も落としていない。五日は第八十三項で、文言は「明日、明け鐘に来る」である。彼は明け鐘の前から、表階段に座っていた。


「早すぎます」


「鐘が鳴ってからだと、遅れることがある」


「何刻からおいででしたか?」


「……覚えていない」


「覚えていない、と申されますと」


 彼は帳場の壁の時鐘表を見上げる。


「暗いうちだ。数えていなかった」


 数えていなかった、という言い方を、わたしは口の中でもう一度繰り返す。


 八年、この人から一度も聞かなかった種類の言葉である。石はまだ夜の冷たさを持っていて、外套の裾は朝露で色が変わっている。


 早く来る人の姿というものを、わたしは知らなかった。待たれる側は、こんなに落ち着かないものらしい。


 石段のいちばん下に座って、この人は東の空を見ていた。膝の上で手を組み、鐘が鳴るまで一度も動かない。八年ぶんの「すぐ行く」が、いま、鳴る前から座って待つ形になっている。


 遅かった、と思う気持ちは湧かない。湧いてもいい場面だと思うのに、胸の中は静かなままである。もう届かないところで動いているものを見るのは、他人の家の窓を見るのに似ている。


 十日。第八十八項。


「八二六年、十二の月二十八日。文言――『すぐ行く』」


「三日以内に」


 彼は下がり鐘の前に来ている。


「履行と認めます」


 ヴェルト監察官が黒で一行を書く。それで八二六年の巻は、三十五件すべてが済んだことになる。


 わたしは紙を細く裁って、巻の背に糊を引く。


 糊は冷たい。刷毛でのばすと、紙の目に沿って光が走る。乾くまでに数えて二百ほど、そのあいだは頁を閉じられない。


 最後の頁を開いたまま、指が止まった。


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)。


 父の字は、右上がりで、最後の一画をわずかに跳ねる。八二四年の巻ではまだ跳ねが鋭い。八二六年の暮れの一件では、跳ねが下へ流れている。


 八十八回。わたしが待ちぼうけを書いた日、父はその紙をその日のうちに読んで、名前を書いていた。読まずに書いた回は、一度も無いはずである。


 次の巻から、この行は無い。


「これが、父の奥書のある最後の一件でございます」


「存じております」


 彼は判定書の墨を吹いて乾かしている。


「監察官は、この巻をご覧になったことが」


「八年ぶん、全部読みました。届出の夜に」


「……一晩で、ですか?」


「一晩です」


 三百二十二枚を一晩で読んだ人が、いま、奥書のある最後の一枚の前にいる。


「明日から、この行はございません」


「はい」


 彼は判定書から目を上げない。


「……はい、と申されるのですね」


「無くなったものを、有ることにはできません」


 声が、いつもより半歩遅れて来る。


    ◇


 封じた巻を棚へ戻すとき、ヴェルト監察官が左手で背を押さえてくれた。甲の痕が、窓の光の帯に入る。


 白く引き攣れた皮膚が、指の付け根から手首のほうへ広がっている。冬に一度ではない痕だと、見て分かる形をしていた。


「監察官」


「はい」


「その痕は」


「七つのときの凍傷です」


 わたしは聞いてしまったことに気づいて、口を閉じる。町の人の記帳を下書きしてもらった日から、わたしはこの痕について何も聞かずにきた。聞かないでいることが、この人への礼儀だと思っていたのである。


 この人は、それでも続けている。


「母が、すぐ戻ると言って出たのです。冬でした」


「……はい」


「帰りません。私は十四まで、冬になると玄関におりました。七年です」


 七年。先だっての夕方に聞いたばかりの数である。伯爵閣下が宮廷から外されていた年数と、同じ長さだった。


 同じ七年でも、片方は家の格の話で、片方は玄関の話である。片方は取り返せて、片方は取り返せない。


「玄関は、寒かったですか?」


「寒かったです。ですが、外の音がよく聞こえます」


 この人が「ですが」を使うのは珍しい。


「馬の足音が、坂の下から順に大きくなります。うちの前で小さくなれば、止まる馬です。大きいまま過ぎれば、他所の馬です」


「……聞き分けて、しまわれるのですね」


「聞き分けます。七年も聞けば、誰でも」


 棚の影が、話しているあいだに少しだけ動いた。


「……その七年に、奥書はありましたか?」


「ありません」


「どなたも、書いてくださらなかったのですね」


「書く者がいれば、私は公証院に入っておりません」


 棚の埃が、光の中をゆっくり回っている。急いでいるものが、この部屋には一つも無い。


「私は、七年、待ちました。帳に付ける者が、家にいなかったのです」


 わたしは何も言えない。


 言葉のかわりに、下の帳場から湯を貰ってきて、湯呑みを彼の手の横へ置いた。湯気が細く立って、光の帯のところで白く見える。


 彼は左手を湯呑みの腹に当て、しばらくそのままでいる。痕のある甲が、下から温められて、少しずつ色を戻していく。


 わたしには、奥書を入れてくれる人がいた。


 書いた紙が、その日のうちに誰かの手で確かめられて、はじめて紙でなくなる。八年、わたしはそれを当たり前だと思っていたのである。


 父は一度も、待つのをやめろとは言わない。やめろと言うかわりに、毎晩、右手で名前を書いた。


 あれは慰めではない。娘の一日が確かに起きたことだと、公の形で認める手続きである。


 当たり前でない人が、目の前で湯呑みをあたためている。


 この人の七年には、記す者も、奥書を入れる者もいなかった。玄関に立っていた事実は、どこにも一行も残っていない。残っているのは、左手の甲の白い痕だけである。


 書いてもらえた八年と、書いてもらえなかった七年が、いま同じ卓の上に置かれている。


「これは約束ではありませんので」


 彼はそう言って、話を閉じた。


 親切に添える一句で、自分の話までしまう人である。しまわれた側に、わたしは何も返せない。返す言葉を持っていないというより、この人が返されることを望んでいない。


 湯呑みの湯が減っていない。あたためるためだけに持っていたらしい。


 その十日で、十件。六の月一日から十日まで、彼は一度も遅れていない。朝の石段に座る背中を、わたしは三度見た。


 残る請求は、二百三十二件である。


 夕方、掲示に一枚、朱でない紙が貼られる。


 〈言の帳〉廃止の建議、審議。六の月十八日、公証院大部屋。


       ◇


〈言の帳〉八二六年の巻 アルヴェーン第八十八項


 日付 十二の月二十八日 昼鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 北の客間 暖炉のわき


 文言 「すぐ行く」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(見習い・十八歳)


 奥書 オットー・アルヴェーン(公証人)


 所見 年の瀬でお忙しいご様子です。客間の火は、暮れ鐘まで落ちませんでした。


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