18. わたしひとりの署名
表階段の掲示に、審議の日を書いた紙がまだ貼ってある。六の月十八日。あと七日である。
通りかかる人が足を止めて、日付のところだけを読んでいく。読んで、少し考えて、帰る。日付というのは、それだけで人を立ち止まらせる力を持っているらしい。
六の月十一日。八二七年の巻を開く。
最初の頁に、空いた行が一本ある。欄の名だけが刷ってあって、その下が白い。奥書の欄である。
紙の目が、前の巻より少し粗い。八二七年の紙は漉きが変わったのだと、当時の父が言っていた。父が紙の話をしたのは、それが最後である。
指で撫でると、細かい繊維が指紋に引っかかる。同じ帳なのに、手が覚えている手ざわりと違う。
「第八十九項。八二七年、一の月四日。文言――『すぐ行く』」
「三日以内に」
彼は昼鐘のうちに来た。
「履行と認めます」
わたしは判定書に署名する。名前は一つしか要らない。八年、それが当たり前になってしまったのに、今日は指がすこし遅れる。
署名の下に空きがある。空きは、ただの余白である。余白には何の意味も無い――そう思えるようになるまで、五年かかった。
「アルヴェーン補」
「はい」
「この欄は、初めから無いのですか?」
「昨日までは、ございました」
彼は白い欄に指を近づけて、触れずに引く。紙に触っていいものか分からない人の手つきである。
「名簿が下りて、見習いでなくなりましたので、ここから先は、わたくしひとりの署名でございます」
彼は白い欄をしばらく見ている。
欄が一つ減るというのは、頁の中に小さな窓が開くようなものである。窓の向こうには何も無い。八二七年の巻から八三二年の巻まで、わたしはその窓を六冊ぶん見てきたことになる。
公証人補の試験を受けたのは、八二六年の夏である。試験は年に一度、夏にしかない。
父の右手が時々きかなくなったのは、八二五年の暮れからである。奥書の字の跳ねが、その冬から下へ流れはじめた。わたしは何も言わずに、翌年の夏の試験へ願書を出している。
試験の日は、窓の外で蝉が鳴いていた。答案の紙が汗で波打って、条文を書き写す手が滑る。
あの日、わたしは伯爵邸の庭にいなかった。八年で、待たなかった日が一日だけある。それがあの日である。
名簿が院から下りたのは、年が変わった年頭祭のあとだった。父の右手が完全に止まったのは、その数日あとである。
間に合ったのではないと思う。間に合うように、父が持ちこたえていたのである。
あの夏、わたしは待ちながら、試験を受けた。誇ってはいない。父の手が動かなくなっただけである。
十三日は第九十一項だった。文言は「次の年頭祭は、家にいる」である。
「一則です。年頭祭は落ちます」
「……家に、いればいいのか?」
「はい。三日のうちに、半日」
「それだけか?」
「それだけでございます」
彼は伯爵邸で半日いた。わたしは行っていない。ハンスが立会いの署名を持ってきて、「旦那様は、書架の前におられました」と言う。
「本を、読んでおられたのですか?」
「開いてはおられました」
「頁は、めくっておいででしたか?」
「……三度ほど」
「三度、ですか?」
ハンスは帽子を胸に当てたまま、目を伏せる。
「わたくしめは、半日、廊下におりました。数えるものが、ほかにございませんで」
この人も、数える側の人だったのである。
半日、家にいるだけの履行である。八二八年の年頭に、わたしはその半日を、雪の中で待っていた。門の鉄が指に貼りつくほど冷えていて、離すときに皮が薄く持っていかれる。
落ちたのは日付だけで、待った刻は落ちない。
◇
六の月十八日。大部屋の窓は高い。
埃の柱が、床まで届いている。窓が高いので、光は人の顔には当たらず、机の天板だけを白くしている。長机が三列、院長が正面である。
部屋の匂いは、紙と、蝋と、人の外套の湿りである。石の床から冷えが上がってきて、靴の底ごしに足の裏が冷たい。
建議の差出人席に、ブランデル伯爵がいる。傍聴の椅子は埋まっていた。
三つ櫛亭の女将がいる。油屋の女房がいる。北の仕立て屋の主人が、背を丸くして最後列にいる。
みな、自分の名か、亭主の名か、隣家の名を、あの樫の板で読んだ人たちである。
「監察官ヴェルト。意見を」
「申し上げません」
部屋が静かになる。
「本件の請求者と、日々立会いをしております。利害の関わる者でございます。一票を投じません」
彼は紙を裏返して置いた。何も書いていない紙である。
この人は、自分の一票がわたしの側につくことを知っている。知っているから外れた。職務の外へ出ずに、職務の中で自分を縛る人である。
その白い紙を見た瞬間、胸のあたりが妙にあたたかくなって、わたしはあわてて前を向いた。
院長がわたしを呼ぶ。
「アルヴェーン補。何かあるか」
「ございます」
「立って申せ」
わたしは立った。膝の裏が、椅子の縁を離れる。喉が乾いて、最初の一音が出るまでに、いつもの倍の息が要った。
「使われぬ制度は害である、と建議にございます」
「うむ」
「では、使われている制度は、いかがでございましょうか?」
「……続けよ」
傍聴の椅子が、いっせいに軋んだ。
「先月ひと月で、王都で帳に載った約束は六十一件でございます。去年は、一年で四十一件でした。使われていないのではなく、使われはじめたところでございます」
「口約束で回る社交が止まる、ともある」
院長は建議の紙を指で押さえたまま、顔を上げない。
「止まりますのは、果たさない口約束でございます」
差出人席から、低い声が飛ぶ。
「言葉尻を捉えるな」
「捉えておりません。数を申し上げております」
院長が手を上げて、部屋を鎮めた。
「その六十一件のうち、貴殿の分は幾つか」
「一件もございません。わたくしの記帳は、八三二年三の月十一日で終わっております」
伯爵閣下は何も言わない。この人は、人前で言い返さない人である。
「院長。帳は、待つ人のためにございます」
声が、思ったより通った。高い窓のあたりで、自分の声が一度返ってくる。
八年、わたしはこの声を、扉の前でしか使ってこなかった。「またのお越しをお待ちしております」。門の外で言う声である。
「待たない方には、要りません。お使いにならなければ、それで済みます」
「使わぬ者にも、名は貼られる」
「三日を過ぎた方だけでございます」
「貼られて困る者が出る」
「困りますのは、貼られる方でございます。待った方ではございません」
傍聴の椅子で、誰かが小さく息を吐く。
「三日は短い」
わたしは息を吸って、それから伯爵閣下のほうを見ずに答えた。
「八年より、短うございます」
「……手厳しい」
「条文を読み上げただけでございます」
院長は建議を裏返し、そこへ短い一行を書く。筆の音が、部屋の端まで聞こえるほど静かである。
その日のうちに、建議は退けられた。
わたしは勝ったつもりでいる。八年で初めて、自分の側で紙の音がした気がしたのである。
傍聴の椅子から女将が立ち上がって、前掛けの手で二度、机を打った。拍手のつもりらしい。院の者が「静粛に」と言い、女将は座って、まだ笑っている。
その顔を見ていると、勝ったのはわたしではない気がしてくる。
わたしが守ったのは、わたしの八年ではない。あの女将の亭主が「すぐ帰る」と言った回数と、油屋の女房が数えなかった夜のほうである。
伯爵閣下は最後に立ち上がり、机の縁へ一度手を置いて出て行った。振り返らない。この人は、負け方の礼儀も知っている。
翌日、掲示に新しい紙が貼られた。
〈言の帳〉改正案。差出は、院内である。
朱でも、建議の重い紙でもない。ふつうの薄紙が一枚、風で端をめくれさせている。
残る請求は、二百二十二件になっている。
◇
〈言の帳〉八二七年の巻 アルヴェーン第八十九項
日付 一の月四日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 中庭 石卓の前 北の生垣のきわ 雪かきの跡の残るところ
文言 「すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、庭掃きの者一名、厩番一名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十八歳)
所見 日没まで。風あり。




