19. やさしい改正
改正案は、一枚である。
建議のときのような長い前置きがない。読むのに、下がり鐘の一つぶんもかからなかった。
紙は薄く、字は細い。院の書記の手である。恨みも、皮肉も、どこにも見当たらない。
――四の条のうち「一日に一件」を削る。数件をまとめての履行を認める。約束者の負担を軽くするためである。
字が丁寧である。角の立った言い方が一つもない。読み終えて、わたしは自分が少し安心しかけたことに気づいて、紙を裏返した。
こわい紙というのは、こういう顔をしている。責める紙なら身構えられる。労う紙は、こちらの肩を先に降ろさせてから、足元の板を抜く。
「やさしい書き方ですね」
ニナが横から覗き込んで言う。
「やさしゅうございます」
「……お嬢様、これ、通ったらどうなるんです?」
「残っているぶんが、一日で終わります」
「終わっちゃうんですか?」
「終わります」
ニナは口を開けたまま、しばらく紙を見ている。
「……なんか、いい話みたいに書いてありますね、これ」
「いい話でございます」
賛同者の名が下に並んでいる。ゼーラント侯爵の名がある。
院内の者が三名。掲示を読みに来た町の人が、うなずいて帰っていく。
筋は通っている。朱記も減る。誰も損をしない。
やさしい案というのは、こういう形をしているのだと思う。人を責める言葉がなく、誰かを悪者にせず、面倒を減らす。読んだ人が「それはそうだ」と言いたくなる。
罰を減らすと言われて、反対する者は悪く見える。負担を軽くすると言われて、重いままにしろと言う者は、意地の悪い女に見える。
八年、わたしはこの形の言葉を、ずっと近くで聞いてきたのである。「まとめて返す」も、やさしい言い方だった。
樫の板は、朱の墨がしみて、貼り替えのたびに色が濃くなっている。板の地の色を、もう思い出せない。
雨に濡れて、乾いて、また貼られて、いまは板のほうが朱に近い。指でこすると、爪の先にうっすら色が移る。
◇
六の月二十二日。第百項である。
「八二七年、三の月二十二日。文言――『すぐ行く』」
「三日以内に」
彼は下がり鐘に来て、判定書に立会いの署名をした。夕方の光が、判定書の右半分だけを赤く染めている。
「第百項です!」
ニナが声を上げて、それから自分で口を押さえる。
「……すみません」
「よろしいのです。第百項でございます」
「なんだか、めでたい数ですね」
「……そうですね」
ニナは判定書を胸に抱えたまま、わたしの手元を覗き込む。
「お嬢様、笑ってません」
「笑っております」
ニナは首を横に振る。
「笑ってないです」
ニナは判定書の角をそろえながら、わたしの顔を見ない。見ないで言うところが、この子のやさしさである。
百という数は、祝うために作られた形をしている。丸くて、区切りがよくて、そこで何かが終わったように見える。
八二七年の三の月二十二日。わたしは十八で、その日、藤棚の下で下がり鐘から宵鐘まで座っていた。
膝の上に帳を置いて、日が落ちるのを見ていたのを覚えている。あの日のわたしに、これが第百項になると教える者は、どこにもいない。
終わらない。次の頁は第百一項である。
百のところに線を引きたくなるのは、数える者の癖である。八年、わたしは線を引かずに書いてきた。引いてしまえば、その先を書く気がなくなると知っていたからである。
二十五日は第百三項だった。文言は「今年の冬至祭は、必ず迎えに行く」である。
「一則です。冬至祭の日は落ちます」
「……迎えに行けば、いいのか?」
「三日のうちに、一度」
彼はその日の下がり鐘に、公証院の表階段へ来た。ヴェルト監察官が判定書を脇に挟んで、三人で表門を出る。
敷石が触れないほど熱い日である。蝉が鳴いて、照り返しで足首が焼ける。雪も、火も、柊の枝も無い。
「……参りましょうか?」
「ああ」
彼は半歩前を歩き、橋の手前でこちらを待つ。旧市街の記帳所の門まで、歩いて四半刻。門の前で帽子を取って、それで終わりである。
ヴェルト監察官が門柱に判定書を当てて、一行を書く。
「履行と認めます」
八二七年の冬至祭、わたしは日暮れの門で二刻立っている。迎えは来ず、外套の裾が凍って、脱ぐときに紙のような音がした。
その二刻が、夏の四半刻で片づく。
「……変な話だな」
「変です」
「変だが、こうでもしないと、俺は一生果たさない」
この人が自分についてそう言うのを、わたしは初めて聞いた。
三十日、掲示に朱を一枚足すことになる。三つ櫛亭の常連で、女将が名を知っている人である。
朱で書く字は、黒より太くなる。筆に力が入るのではなく、朱の墨のほうが粘るからである。書き終えた紙を持ち上げると、まだ字の上が光っていた。
名を書くとき、手が一度止まる。女将が「あの人はねえ」と笑って話していた男の名である。笑って話せる相手を、わたしは今から板に貼る。
わたしが表階段へ出ると、ヴェルト監察官が手を出す。
「お預かりします」
「わたくしが貼ります」
「貼るのは、院の者の仕事です」
彼はわたしの手から紙を受け取って、樫の板の下の段に貼る。
「これは約束ではありませんので」
女将は貼られた紙をじっと見て、それから何も言わずに帰っていく。前掛けの紐を、歩きながら結び直していた。
貼るところを、わたしに見せない。この人の親切は、いつも一手だけ先に置いてある。
「監察官」
「はい」
「あの改正案を、どうご覧になりますか?」
彼は掲示を見たままでいる。
「……判定できません」
答えを書く欄でこれを聞くのは、初めてである。前は、所見の欄の話だった。
あれは、答えの無い問いである。今日は、答えを出すのが仕事の紙である。
夕方、クラリッサ様が帳場へ来た。
いつもの声より低い。手袋を外さずに、記帳台の前に立っている。
「テレーゼ様。父を、止められなかったの」
「ゼーラント侯爵閣下は、賛同の側でございます」
「ええ。父は、あなたを困らせたいのではないの。困っている人を減らしたいだけ」
「……存じております」
「困っている人を減らすと、困っていた事実まで減るのね」
わたしは筆を置く。この人はいつも、わたしが言えないほうを言う。
「クラリッサ様は、あの案に、賛成でいらっしゃいますか?」
「わからないの」
「……はい」
「わたくし、何も頼まないから、まとめて返されて困る約束が一つも無いのよ。だから、あなたの側にいる理由が、本当は無いの」
それでも、この人は今日ここへ来ている。
その日、わたしは請求状を十枚書いている。指の付け根に、また墨の染みができていた。
あと二百十二件。
二百十二という数を、口の中で二度転がしてみる。減っている。確かに減っている。
数は、慰めにならない。
◇
〈言の帳〉八二七年の巻 アルヴェーン第百項
日付 三の月二十二日 下がり鐘
場所 ブランデル伯爵邸 東の藤棚の下 石の腰かけの西側 藤はまだ咲かず 蔓のみ
文言 「すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、給仕一名、庭掃きの者一名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十八歳)
所見 下がり鐘より宵鐘まで。風なし。




