20. まとめて返せるなら、まとめて破れる
七の月一日は、朝から雨である。
第百九項。文言は「雨の日は、馬車を回さず歩いて行く」で、三則により一度歩けば履行になる。条件は今日、成った。
雨は細かく、音がしない。窓の桟に水がたまって、そこだけ空が映っている。
帳場の紙が湿気を吸って、めくるときに指へ吸いつく。こういう日は墨の乾きが遅く、書いた字がいつまでも光っている。
昨日の夕方にクラリッサ様が置いていった言葉が、まだ帳場の隅に残っている。父を、止められなかったの。
止められる人がいるとすれば、それは娘ではない。あの人はたぶん、そのことも知っていて、それでもここまで言いに来たのである。
彼は翌日、東の丘から歩いて来る。一刻半である。
膝から下が泥で、靴の縫い目に川砂が入っている。髪の先から水が落ちて、帳場の石の床に丸い染みを作った。
「馬車を、使えばよろしいのに」
「文言に、歩くと書いてある」
「……はい」
「読み返したら、書いてあった」
八年、この人はその文言を忘れている。忘れていたものを、今は読んで守っている。
読めば守れる人だった、ということである。それが分かるのに八年かかり、分かったところで、八年は戻らない。
濡れた外套から、雨と埃の混ざった匂いがする。八年前、わたしはこの匂いを、待った先で嗅いだことが一度も無い。
雨の日に来ないのは当たり前だった。当たり前だと思っていたことが、いま一つずつ当たり前でなくなっていく。そのたびに、八年前のわたしが少しずつ、間違っていたことにされていく。
間違っていたのは、この人ではない。来ない人を待つのが仕事だと十五から思い込んでいたのは、わたしのほうである。
◇
七の月八日。大部屋の椅子は、夏でも冷たい。
改正案の審議である。院内の差出人が読み上げ、約束者の負担の軽さを述べる。ゼーラント侯爵の代理が同意を述べる。
誰も、悪いことを言っていない。
差出人の声は落ち着いている。負担、簡素、実務。
三つの言葉が順に出て、順に机の上へ置かれていく。聞いていると、帳が人を苦しめる道具のように思えてくる。
高い窓から入る光の中を、また埃が回っている。前に立ったのは、ひと月も前ではない。
同じ部屋で、今日は誰も傍聴に来ていない。やさしい案には、傍聴人が要らないのである。
「アルヴェーン補。請求者として、述べよ」
わたしは立つ。今日は、膝が震えない。
「まとめて返せる約束は、まとめて破れます」
部屋の紙の音が止まった。誰かの椅子が、床の上で短く鳴る。
「八年ぶんを一日で返せる帳なら、八年ぶんを一日で忘れられます。わたしの八年は、十一日でも、一日でもございません」
「情に訴えるのはよせ」
差出人が言う。
「情ではございません。この案は、二つの条を同時に崩します」
「二つ、とは」
「四の条の、請求は一日に一件。六の条の、まとめて履行したものとは認めない。この二つでございます」
差出人が口を開きかけて、やめる。
「片方だけなら、日数が変わるだけでございます。二つ揃えば、残る二百四件が、一日で終わります」
「終わって、何が悪いのか?」
「八年が、一日になります」
院長が眼鏡を外す。外して、わたしの顔をまっすぐ見た。八年、大人にこういう見られ方をしたことが無い。
「返すほうの負担だけを軽くする改正でございます。待った日数は、軽くなりません」
改正案は、その日に否決される。
院長が「一日に一件は残す」と言い、紙が集められ、それで終わりだった。勝ったという声はどこからも上がらない。
差出人の書記は、紙をそろえて丁寧に礼をして出て行く。この人はこの人で、負担を減らそうとしていただけである。悪い人がどこにもいないまま、何かが一つ守られた。
帰り道、ヴェルト監察官が半歩うしろを歩いている。
「よく言えました」
「……ありがとうございます」
「私は、あの部屋で一票を持っておりません」
「存じております」
「持っていなくてよかったと、今日は申せます」
褒め言葉をこの人から聞くのは、初めてである。
うれしい、という言葉が浮かぶ前に、耳のうしろが熱くなった。八年、褒められるということを、わたしは正しく受け取る作法を習っていない。
「監察官」
「はい」
「わたくしは、上手に述べられましたでしょうか?」
「上手ではありませんでしたが、よく、聞こえました」
◇
雨上がりの敷石が、日を吸って白く光っている。
十日。第百十八項。文言は「今度、話を最後まで聞く」で、一則と四則がかかる。
「四則により、受約者の協力が要ります」
「……話せ、ということか?」
「はい」
わたしは、何を話すか決めていない。決めていないのに、口が先に開く。
この八年で、この人に話したいことは全部、紙のほうへ移してしまった。残っているのは、紙に書かなかったことだけである。
書かなかったのは、この人と関係のない話だからである。関係のない話を、いま、聞かせようとしている。
「父は、三年で八十八回、奥書を入れました」
彼は椅子に浅く座り直す。
「わたしが十五で書いた紙を、父はその日のうちに読んで、名前を書きました。あなたが来なかった日の紙です。八十八回、父は娘の待ちぼうけに署名をしたのです」
「……知らなかった」
「八十八回、父は何も申しませんでした。やめろとも、忘れろとも」
彼は膝の上で手を組んでいる。
「一度だけ、こう申しております。約束は、書いておけば、いつか誰かが果たしてくれる、と」
言いながら、喉の奥が細くなる。泣くのではない。八年ぶんの息が、いっぺんに通ろうとして、そこで詰まるのである。
「ご存じないのが当然です。書いておりませんので」
わたしは、そこで一度、息を継いだ。
「八二七年の一の月から、奥書の欄は空いております。わたくしが、見習いでなくなりましたので」
「テレーゼ」
「まだ、終わっておりません」
「……ああ」
「その先は、わたしひとりで書きました。読む人はおりません。読まれない紙を、五年ぶん書いたのです」
彼は口を閉じる。四半刻である。途中で立たない。
窓の外が暗くなり、給仕が蝋燭を持ってきて、また出ていく。彼はその明かりのほうを一度も見なかった。
八年、わたしはこの人に話を聞いてもらったことがない。聞いてもらいたいと思ったこともない。話しながら、そのことに今日はじめて気がついている。
まとめて返してもらいたくない理由は、たぶんここにある。八年をまとめられたら、この四半刻も、あの藤棚の下も、蝉の鳴く試験の日も、全部が一日に縮む。縮んだ一日の中に、十五のわたしの居場所は残らない。
わたしは、この八年をまとめられたくない。
「履行と認めます」
ヴェルト監察官の声で、わたしは自分が話し終えていたことに気づく。
残る請求は、二百二件である。
帰りの橋で、わたしはまた八十七を数えた。数え終わってしまうのが、近ごろ少しこわい。
その夜、暮れ鐘のあとで、ハンスが公証院へ来た。
「若旦那様が、お屋敷を出られました」
「……荷は」
「わたくしと、鞄が一つでございます」
ハンスの外套の肩が、夜露で黒くなっている。八年、この人はブランデル家の門を開けて、わたしを見送り続けている。
「ハンス」
「はい」
「……門は、誰が開けるのですか?」
「今日からは、開ける者がおりません」
◇
〈言の帳〉八二七年の巻 アルヴェーン第百十八項
日付 六の月十五日 朝鐘
場所 ブランデル伯爵邸 北の客間 窓ぎわの長椅子のところ 暖炉に火なし
文言 「今度、話を最後まで聞く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、給仕一名、取次の者一名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十八歳)
所見 話は、四半刻に満たぬうちに中断。




