21. 働く
王都の荷受け所は、朝がいちばん埃っぽい。
麻袋を積み替えるたび、細かいものが日の光の筋に上がる。息を吸うと、喉の奥がざらついた。
匂いは、麦と、油と、川の水である。川からの荷は袋の底が湿っていて、積み上げた山の下のほうだけ色が濃い。
人の声が高い。値を言う声、数を読む声、荷を落とした者を叱る声。公証院の帳場とは、音の作りがまるで違う。
七の月十一日。第百十九項の日である。
「あそこです」
ニナが指をさす。
荷台のわきで麻袋を肩に載せている人が、ブランデル伯爵家の嫡男である。上着は脱いで、袖をまくっている。
腕の内側が日に焼けて、二の腕の白いところとの境が、線になっていた。
「……働いておられます」
「働いておられますね」
ハンスが荷の帳をめくりながら、こちらへ会釈をする。
この人は、門を開ける仕事から、荷を数える仕事に変わったらしい。八年、わたしを門の外へ送り出してきた手が、いまは麻袋の口を締めている。
「お嬢様、あの、笑うところですか?」
「笑うところではありません」
「でも、みんな笑ってますよ。荷受けの人たち」
「笑われるのも、仕事のうちです」
「……お嬢様、それ、ご自分のことも言ってませんか?」
彼が顔を上げる。汗が顎から落ちて、麻袋に丸い染みを作った。
「……すまない。あと、四袋だ」
「お待ちします」
「……悪いな」
「悪くありません。四袋ぶんです」
「四袋ぶん、か」
彼は麻袋の口を締め直して、肩へ回す。
「はい。数の見えるお約束は、初めてです」
八年、この人がいちばん多く言ったのは「すぐ行く」である。今日は「あと、四袋だ」と言う。
その四袋を、わたしは荷台の陰で数えて見ていた。一つ、二つ。肩に載せてから下ろすまでが、数えて十二である。
同じ待たせ方でも、こちらには数が見えている。四袋なら、四袋ぶんの時間である。
八年で足りなかったのは、誠意ではなかったのかもしれない。数のほうだったのかもしれない。
◇
十四日。第百二十二項である。
「八二七年、八の月十一日。文言――『今度、仔馬に名をつける』」
「一則です。三日以内に」
ヴェルト監察官が判定書を開く。
「……名前を」
「はい」
「厩へ行けば、いいのか?」
「名をつけて、厩の札に書いていただければ」
彼は分かったと言って、それから三日、荷受け所を出られなかった。
川上で雨が降ったらしく、遅れていた船が二日ぶん重なったのだと、ハンスが知らせに来る。ハンスの言い方は淡々としていて、庇う色が一つも無い。
八年、この家の人はわたしに理由を言わなかった。理由を言うようになったのは、言えることが起きるようになったからである。
十七日の暮れ鐘が鳴り終わる。
「九の条により、朱記といたします」
三枚目である。表階段の樫の板に、朱の紙がまた一枚上がる。
わたしは、その紙を貼るところを見ない。この四か月で、見なくてよくなったことが一つだけ増えている。
十八日。第百二十六項。文言は「すぐ行く」で、八二七年の巻の最後の一件になる。
彼は昼鐘に来て、荷の匂いのする手で判定書に署名する。爪の脇に麻の繊維が入っていて、洗っても抜けないのだと言った。
わたしの爪の脇には、八年ぶんの墨が入っている。同じところが汚れる仕事を、二人でしていることになる。
「これで、八二七年の巻は終わりでございます」
「……早いな」
「四年ぶんを、四か月で戻しております」
巻を封じる糊の匂いが、荷受け所の埃と混ざる。八二七年の巻は、父の名が一つも無い最初の巻である。
封じるとき、わたしは背表紙を少し長く押さえていた。理由は自分でも分からない。
翌十九日、彼は厩の前に立っていた。
「栗毛のほうだ」
「はい」
「……八年、名が無かった」
厩の空気は、汗と藁と、干し草の甘い匂いでできている。馬は首だけこちらへ回して、また桶へ戻る。
彼は札に字を書く。ヨナス、と読める。
「厩番と、同じ名だな」
「同じ名です」
「あいつが世話をしてきた。俺じゃない」
「……はい」
「名は、世話をした者のを借りる。それでいい」
馬は札を見ない。名をつけられたことも知らずに、鼻先で桶を押している。
名前というのは、つけた側の都合である。八年待って呼ばれた三音のときも、たぶん同じだった。
それでも札は掛かる。掛かってしまえば、明日からこの馬はヨナスと呼ばれる。都合で始まったものが、いつのまにか本当になることが、世の中にはあるらしい。
ヴェルト監察官が黒の一行を書き、朱の一行の下へ並べる。
「後履行と記します。朱記は消えません」
「消さなくていい」
この人が、消さなくていいと言ったのは初めてである。
八年、この人は消したがっていた。まとめて返す、と言ったのも、たぶんそういう言い方の一つである。
消せないものが増えていくのを、この人はいま、自分の名前で引き受けている。
◇
二十二日、第百三十項。文言は「今度、お父上と、盤を一局」だった。
これも三日で果たせず、二十五日の暮れ鐘で朱記になる。四枚目である。
「間に合わないと分かった時点で、言えばよろしいのに」
ニナが唇を尖らせる。
「言っても、朱は付きます」
「じゃあ、言う意味ないじゃないですか?」
「……そうですね」
わたしはそう答えて、答えたあとで、自分の声が少し硬いことに気づく。
二十七日の夕方、彼は記帳所へ来て、父と盤を挟んだ。
父は左手で石を置く。置くたびに指が震えて、石が二度、盤の目からずれる。彼は何も言わず、ずれたぶんを直さずに打った。
一局。四半刻もかからない。父の負けである。
石を片づける音だけが、土間に落ちる。父は左手で、一つずつ壺へ戻していく。
その音が、思い出せないくらい久しぶりだった。父が盤を出したのは、右手が止まってから初めてである。
「弱くなった」
「はい」
「右で打っとったころは、負けとらんぞ」
「……はい」
「もう一局、いつか」
父の指が、壺の縁で止まる。
「いつか、では帳に載りません」
父が、口の端だけで笑う。
「載せんでいい。これは、うちの中の話だ」
この二十日で、二十件。うち二件が朱記になり、二件とも二日遅れで果たされている。
残る請求は、百八十二件である。
その夜、ヴェルト監察官が立会いの時刻表を書き直している。
紙の上には、荷受け所の船の入る日が細かく書き込まれていた。この人がいつ調べたのか、わたしは知らない。
「昼鐘を、暮れ鐘へ移します」
「規則に、触れませんか?」
「触れません。立会いの刻を定めた条は、ありません」
「……はい」
「これは約束ではありませんので」
八の月が近い。
次の巻に、あの一件がある。
◇
〈言の帳〉八二七年の巻 アルヴェーン第百二十六項
日付 十二の月三十日 昼鐘
場所 ブランデル伯爵邸 中庭 石卓の前 年越しの支度で人の出入りあり
文言 「すぐ行く」
約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)
受約者 テレーゼ・アルヴェーン
居合わせた者 従僕頭ハンス、厩番ヨナス、給仕二名
記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十九歳)
所見 昼鐘より暮れ鐘まで。この年、三十八件。




