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「ごめん」の残響――完璧だったはずの恋が、一通の通知で壊れるまで  作者: ledled


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第5話 残響としての「ごめん」

蓮の部屋を追い出されてから、三日が経過していた。

私は自分のアパートのベッドで毛布に包まり、ただひたすらにスマートフォンの画面を睨み続けていた。

蓮とのMINEのトーク画面。私が送った何十通もの弁明のメッセージには、いまだに「既読」の文字はついていない。電話をかけても、無機質なコール音が鳴り続けるだけで、彼が電話に出ることは一度もなかった。

大学の講義にも蓮は姿を見せなかった。

共通の友人である凛からは「最近、蓮とずっと一緒にいないけど、喧嘩でもしたの?」といぶかしげに聞かれたが、私は「ちょっと彼が風邪気味みたいで」と、ひきつった笑顔で嘘をつくしかなかった。


焦りと恐怖が、じわじわと私の首を絞め上げていた。

もし、蓮がすべてを周囲に暴露したらどうなるだろう。私が木村健太と浮気をし、あんな卑猥なメッセージのやり取りをしていたことが大学中に知れ渡ったら。

「理想の彼女」として周囲から羨望の眼差しを集めていた私の評価は地に落ち、軽蔑と嘲笑の的になる。それだけは絶対に避けなければならなかった。

どうにかして蓮と直接会い、泣き落としてでも口止めをしなければ。あの日の夜は魔が差しただけだと、私には蓮しかいないのだと、ありったけの嘘と涙で彼を丸め込むしかない。

自分の犯した罪の重さや、蓮の心にどれほどの傷を負わせたかということよりも、私は自分の保身と、崩れゆく完璧な日常をどうやって修復するかということばかりを考えていた。


そんな身勝手な思考が頭を巡っていた四日目の午後。

私のスマートフォンが、不意に着信を告げて震え出した。

画面に表示されたのは「蓮の母」という文字だった。

心臓が嫌な音を立てて大きく跳ねる。蓮の母親から直接電話がかかってくるなんて、今まで一度もなかったことだ。

もしかして、蓮が母親にすべてを話してしまったのだろうか。親から直接、私を責め立てるつもりなのだろうか。

震える指で通話ボタンを押し、恐る恐るスマートフォンを耳に当てる。


「……もし、もし。優奈です」

『……優奈、ちゃん……』


電話の向こうから聞こえてきたのは、怒りの声ではなかった。

それは、地の底から響いてくるような、かすれて、震えきった泣き声だった。

嫌な予感が全身の毛穴を逆撫でする。


『蓮が……死んだの。今朝、アパートの部屋で……』


その言葉の意味を、脳が理解するのを完全に拒絶した。


「え……? おばさん、今、なんて……」

『首を、吊って……。なんで、なんであの子がこんなことに……っ、うわあああああっ!』


電話越しに響く、獣のようなどう哭。

私はスマートフォンを取り落としそうになるのを必死に両手で掴み、その場にへたり込んだ。

蓮が、死んだ。

あの優しくて、いつも私を最優先にしてくれて、私がどんな嘘をついても疑わずに微笑んでくれていた蓮が。


「嘘だ……」


乾いた声が、誰もいない部屋に虚しく響く。

目の前が急激に暗くなり、強烈な吐き気が胃の腑から込み上げてきた。

私が、殺したんだ。

あの日、彼の部屋でスマートフォンを見られた時、私が卑怯な沈黙を選んだから。保身に走り、彼を絶望の淵に突き落としたまま放置したから。

取り返しのつかないことをしてしまったという絶対的な事実が、巨大な鉛の塊となって私の上に落ちてきた。



蓮の通夜と告別式は、彼の地元である隣県の葬儀場で執り行われた。

季節外れの冷たい雨が降りしきる中、喪服に身を包んだ私は、まるで夢遊病者のように足を引きずって参列した。

斎場は重苦しい空気に包まれ、すすり泣く声と読経の音だけが響いている。

祭壇の中央に飾られた遺影の中で、蓮は穏やかな笑顔を浮かべていた。それは、私が「完璧な彼女」を演じていた時に、彼が私に向けてくれていたあの純粋な笑顔だった。

その笑顔が、今は無数の針となって私の眼球を刺してくるようだった。


「優奈ちゃん、大丈夫? 顔色、すごく悪いよ……」


隣に並んでいた凛が、心配そうに私の背中をさすってくれる。

大学の関係者や、地元の友人たちが大勢参列していた。誰もが「あんなに順風満帆だったのに」「優奈ちゃんを置いていくなんて、信じられない」と囁き合っている。

彼らの目には、私は「最愛の恋人を突然失った、可哀想な悲劇のヒロイン」として映っているのだろう。

その同情の視線が、私を何よりも残酷に切り刻んでいく。

違う。私はそんな綺麗なものじゃない。

私が彼を裏切ったから。私が汚らわしい欲望に溺れ、彼の純粋な愛情を踏みにじったから、彼は自分の命を絶ったのだ。

今すぐこの場で「私が蓮を殺しました」と叫び出してしまいたい衝動に駆られるが、私の喉は恐怖と保身で完全に塞がれ、声帯はピクリとも動かなかった。


告別式が終わり、参列者がまばらになり始めた頃。

親族控え室の前に一人で立っていた私に、蓮の母親が近づいてきた。

目は真っ赤に腫れ上がり、数日で何歳も老け込んでしまったかのようなやつれた顔。

私は息を呑み、無意識に一歩後ずさった。

真実を知っているのだろうか。蓮からすべてを聞いて、私を断罪しに来たのだろうか。


「……優奈ちゃん」

「は、はい……おばさん、その、本当に……」


絞り出すように言葉を紡ごうとした私を遮るように、蓮の母親は震える手で白い封筒を差し出してきた。

表には何も書かれていない、無地の封筒だった。


「これ……警察の人が、あの子の机の上にあったって。宛名はなかったけど……たぶん、あなたに宛てたものだと思うの」

「私に……?」

「あの子、あなたを本当に大切にしてたから。……読んであげて」


蓮の母親はそれだけ言うと、口元をハンカチで押さえながら奥へと戻っていった。

私は手の中に残された、軽いけれど恐ろしいほど重みのある封筒を見つめた。

遺書だ。

蓮が死の直前に書き残した、最後の言葉。

手はガタガタと震え、膝の力が抜けて立っていられなくなりそうだった。

中には何が書かれているのだろう。

『お前の裏切りが俺を殺した』『健太と地獄に落ちろ』『一生許さない』。

そんな呪詛の言葉が、びっしりと書き連ねられているに違いない。

覚悟を決め、私は震える指で封筒の口を開けた。

中から、二つ折りにされた白い便箋が一枚だけ出てきた。


ゆっくりと、便箋を開く。

そこには、蓮の几帳面でまっすぐな文字で、たった一言だけが書かれていた。


『ごめん』


——えっ?

私は自分の目を疑った。

何度も何度も瞬きをして、その文字を見つめ直す。

しかし、便箋のどこを探しても、裏面を裏返しても、その三文字以外の言葉は一切見当たらなかった。

ただ、真っ白な空間の中央に、『ごめん』とだけ置かれている。


なぜ?

どうして、蓮が謝るの?

謝らなければいけないのは私なのに。土下座して、命を懸けて謝罪しなければならないのは私の方なのに。

どうして彼は、最後にこんな言葉を残したのか。


『お前を幸せにしてやれなくて、ごめん』

『お前の嘘に気づかないふりをして、ごめん』

『お前にこんな十字架を背負わせてしまって、ごめん』


頭の中で、その三文字が無限の意味を持って増殖していく。

もしこれが、ありったけの恨み言や罵倒の言葉であったなら、私は「仕方ない」と諦めることができたかもしれない。自分はこれだけ憎まれるようなことをしたのだからと、その罰を受け入れる覚悟ができたかもしれない。

しかし、この『ごめん』という言葉には、逃げ場がなかった。

蓮がすべての罪を自分一人で抱え込み、私を責めることすら放棄して、静かにこの世を去っていったという事実。

それは、どんな鋭い刃物よりも深く、私の魂を根底からえぐり取った。


「ああ……あああ……っ」


喉の奥から、自分でも聞いたことのないような気味の悪い呻き声が漏れた。

私は便箋を両手で握りしめ、冷たい大理石の床に崩れ落ちた。

完璧だった私の世界は、完全に終わったのだ。

木村健太との背徳的な関係も、蓮との幸せな未来も、周囲からの称賛も、すべてがこのたった三文字の残響によって粉々に破壊された。

私は一生、この言葉に囚われて生きていくことになる。

他の誰かと笑い合うことも、幸せな家庭を築くことも、二度と許されない。少しでも幸せを感じようとするたびに、この『ごめん』という文字が私の首に冷たい鎖を巻きつけ、地獄の底へと引きずり下ろすだろう。

それが、蓮が私に与えた、最も優しくて、最も残酷な永遠の罰だった。


雨の音に混じって、私の醜い嗚咽だけが、誰にも届くことなく薄暗い廊下に響き続けていた。



高橋蓮の自殺というニュースが学内を駆け巡ったのは、それから間もなくのことだった。

俺、木村健太は、大学の講義棟の裏手にある喫煙所で煙草を燻らせながら、スマートフォンの学内掲示板をスクロールしていた。


『経済学部の高橋蓮が自宅で首を吊ったらしい』

『マジで? あの斎藤優奈の彼氏だろ?』

『すげえ仲良さそうだったのに、何があったんだよ』


次々と書き込まれる無責任なゴシップを眺めながら、俺は短く息を吐き出し、紫煙を空に向かって吐き出した。


「……マジかよ」


思わず口から漏れたのは、純粋な驚きだった。

優奈からここ数日まったく連絡が来ないから、どうせ彼氏に浮気がバレて修羅場にでもなっているのだろうと思っていた。

彼女のようなプライドが高く、見栄っ張りな女がどうやって言い訳をして、彼氏を丸め込むのか。その滑稽な姿を想像して一人で楽しんでいたのだが、まさか彼氏の方が自ら人生から退場するとは予想外だった。


「どんだけメンタル弱いんだよ、馬鹿らしい」


俺は鼻で笑い、スマートフォンの画面をオフにした。

彼女の浮気がバレた。その事実に絶望して首を吊った。

ただそれだけの話だ。俺は優奈の退屈しのぎに付き合ってやっただけで、直接的に高橋を殺したわけじゃない。

あいつが勝手に俺たちの関係を知り、勝手に絶望して、勝手に死んだ。俺には何の責任もないし、知ったことではない。

むしろ、あんな薄っぺらい「理想の日常」という幻想にすがりついていた弱い男が、現実の残酷さに耐えきれずに壊れただけの、陳腐な喜劇だ。

俺は吸い殻を灰皿に押し付けると、何事もなかったかのように喫煙所を後にした。この不快なニュースは、俺の中で「他人のどうでもいい不幸」のフォルダに分類され、すぐに忘れ去られるはずだった。



その日の夜。

俺は自分のマンションの広々としたリビングで、一人でバーボンをグラスに注いでいた。

照明を落とし、壁掛けの巨大なモニターで適当な海外の映画を流している。いつもと変わらない、退屈だが満ち足りた俺の日常の風景だ。

氷がカランと音を立てる。その音を聞いた瞬間、なぜか不意に、一度だけ講義室で見かけた高橋蓮の顔が脳裏にフラッシュバックした。


真面目そうで、人を疑うことを知らないような、あの人の良さそうな顔。

あいつは死ぬ間際、どんな顔をしていたのだろうか。

ロープを首にかけ、足元の台を蹴り飛ばす瞬間、何を考えていたのだろうか。


「……ちっ」


俺は不快感を振り払うように、舌打ちをしてバーボンを喉に流し込んだ。

考えたって無駄だ。死んだ人間のことなど、俺の人生には一ミリの価値もない。

だが、アルコールが回るにつれて、俺の脳裏には一つの疑問が浮かんでは消え、また浮かんできた。

遺書だ。

掲示板の噂によれば、机の上に遺書らしきものが残されていたという。

そこに、俺の名前は書かれていたのだろうか。

「優奈は木村健太と浮気をしていた。あいつらを許さない」と、警察や親に宛てて書き残していたとしたら。

もしそうだとしたら、今頃俺のところにも警察が事情聴取に来たり、優奈の親から怒鳴り込まれたりしてもおかしくない。

しかし、俺のスマートフォンには誰からも連絡はなく、インターホンが鳴る気配もない。

つまり、高橋は俺の名前を出さなかったのだ。


なぜだ?

一番憎いはずの相手を、なぜ道連れにしようとしなかった?

復讐する絶好のチャンスだったはずだ。俺と優奈の人生を社会的に抹殺することだってできたはずなのに、あいつは何も言わずに死んでいった。

その「何も起こらないこと」が、俺の心の中に、今まで感じたことのない異質な感覚を植え付け始めていた。


沈黙。

それは、相手の底が全く見えないという恐怖だ。

恨み言を連ねてくれれば、「負け犬の遠吠え」として嘲笑し、踏み躙ることができた。

しかし、完全に無視されたまま相手が消滅してしまったことで、俺は永遠に反撃することも、言い訳をすることもできなくなってしまった。

あいつは死ぬことで、俺の手の届かない高みに登り、そこから冷酷に俺たちを見下ろしているのではないか。


窓の外を叩く風の音が、急に生々しく聞こえ始めた。

広いリビングの暗がりの奥から、高橋の虚ろな目が俺をじっと監視しているような、そんな不気味な錯覚に襲われる。


「馬鹿げてる……っ」


俺はグラスをテーブルに叩きつけるように置き、乱暴に頭を掻きむしった。

幽霊や呪いなど、そんな非科学的なものを信じるタチではない。

俺は他人の不幸を笑い、弱い人間を嘲りながら生きてきた。それが俺の強さであり、退屈な世界に対する唯一の防衛手段だったのだ。

しかし今、俺の足元からは、確実に冷たい水が這い上がってきていた。

自分の行動が、一人の人間の命を終わらせる決定的な引き金になったという事実。

頭では「責任はない」と処理していても、人間の無意識というものはそんなに都合よくできているわけではないらしい。


優奈は今、どうしているだろうか。

連絡をしてこないということは、おそらく完全に壊れてしまったのだろう。

彼女もまた、高橋の沈黙という最も残酷な復讐によって、魂を削り取られているに違いない。

そして俺もまた、一生この微かな恐怖と、背筋に張り付くような冷たい視線から逃れることはできないのかもしれない。


俺はモニターの電源を切り、暗闇に包まれた部屋の中で、ただ一人、深く重い息を吐き出した。

他人の絆を壊すゲームは終わった。

しかし、勝者は誰もいない。

俺たちは皆、高橋蓮が残した静かで冷酷な残響の中に閉じ込められ、終わりのない罰を受け続けるのだ。

それが、真実の愛を冷笑し、他人の人生を弄んだ俺に下された、唯一にして絶対の結末だった。

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