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「ごめん」の残響――完璧だったはずの恋が、一通の通知で壊れるまで  作者: ledled


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第6話 止まった時計と灰色の空

冷たい北風が、容赦なくひび割れた頬を叩きつける。

吐き出す息は白く濁り、街灯の薄暗い光に照らされては夜の闇へと消えていく。

私はコートの襟を立て、ポケットに深く両手を突っ込みながら、家路を急いでいた。

深夜二時。コンビニエンスストアでの弁当の陳列作業という、誰とも会話を交わす必要のないアルバイトを終えた帰り道だ。

かつては常に誰かの視線を意識し、身なりに気を使い、「完璧な彼女」であることを何よりも重視していた私の面影は、もはやどこにもない。

髪は手入れもされずパサパサに乾燥し、化粧をすることもなくなった。ショーウィンドウに映る自分の姿は、まるで生気を吸い取られた亡霊のようにひどく老け込んで見えた。


蓮がこの世を去ってから、三年という月日が流れた。

あの葬儀の後、私は大学を中退した。キャンパスを歩くたびに、蓮と一緒に歩いた並木道、二人でランチを食べたカフェテリア、彼に嘘をついて健太の車に乗り込んだ裏路地の駐車場が目に焼き付いて、呼吸ができなくなったからだ。

周囲の友人たちともすべて連絡を絶ち、スマートフォンも解約した。

凛は何度か私を心配して実家まで来てくれたようだが、私は部屋から一歩も出ず、居留守を使い続けた。彼女が大手IT企業「デジタル・パルス」に入社し、華やかな社会人生活を送っていることを風の噂で聞いたのは、ずっと後になってからのことだ。凛の客観的で鋭い視線は、きっと私の嘘や、蓮への裏切りにも薄々気づいていたに違いない。彼女がそれを指摘せずに静観していたことを後悔しているのかどうか、今となっては知る由もない。


古い木造アパートの錆びた外階段を上り、自分の部屋のドアを開ける。

冷え切った室内は、外よりも寒く感じられた。

暖房をつける気にもなれず、私は暗闇の中でコートを着たまま、部屋の中央にある小さな座布団の上にへたり込んだ。

何もする気が起きない。食事をとる気力も、眠る気力もない。

ただ、息をしているだけ。死んでいないから、生きているだけ。

それが、今の私の日常だった。


私はゆっくりと手を伸ばし、傍らに置かれた小さな木箱を引き寄せた。

蓋を開けると、中には一枚の白い便箋が、まるで神聖な遺物のように大切にしまわれている。

あの日の告別式で、蓮の母親から渡された手紙。

蓮の几帳面な文字で記された、『ごめん』という三文字。


暗闇の中でも、その文字の形は私の網膜に鮮明に焼き付いている。

私は震える指先で、その文字の輪郭を何度も何度なくなぞった。

どうして、蓮は私にこんな言葉を残したのか。

三年経った今でも、私はその答えを出し続け、そしてその度に絶望の底へと叩き落とされている。


最初は、彼がすべてを許してくれたのだと思いたかった。

私が犯した取り返しのつかない裏切りも、彼を死に追いやった残酷な嘘も、すべてを飲み込んで、彼の方から謝ってくれたのだと。

けれど、それは自己保身にまみれた私の浅ましい願望でしかなかった。

蓮の『ごめん』は、許しなどではなかった。それは、私を永遠に彼という存在の檻に閉じ込めるための、絶対的な呪いの言葉だった。


私がもし、新しい恋人を作ろうとしたらどうなるだろう。

誰かに優しくされ、幸せを感じそうになった瞬間、必ずこの『ごめん』という三文字がフラッシュバックするはずだ。

私が笑うこと、私が前を向いて生きること、そのすべてを、この言葉が許さない。

「俺は絶望の中で一人で死んでいったのに、お前は俺を裏切ったまま幸せになるのか」

蓮が直接そう言ったわけではない。彼が何も言わずに死んだからこそ、私自身の罪悪感が、蓮の声を借りて私を永遠に責め立て続けるのだ。


健太の顔は、もうほとんど思い出せない。

あんな男のために、私は蓮というかけがえのない光を手放してしまった。

日常という檻から抜け出すための甘い毒だと思っていたものは、実は私自身を内側から腐らせ、すべてを破壊する劇薬だった。

私は完璧な仮面を被っているつもりで、その実、誰よりも愚かで、見栄っ張りで、醜い女だったのだ。

そのことに気づいた時には、私の世界はすでに音を立てて崩れ去っていた。


窓の外で、遠くの街の時計塔が午前三時を知らせる鐘を鳴らした。

しかし、私の心の中の時計は、蓮が死んだあの日の朝から一秒たりとも進んでいない。

私は一生、この灰色の空の下で、蓮の遺した『ごめん』という残響に耳を塞ぎながら、決して許されることのない罰を受け続けるのだ。

それが、私が自らの手で選び取った結末だった。

枯れ果てたと思っていた涙が、再び頬を伝い、冷たい床に黒い染みを作っていった。



都内にある会員制の高級バー。

薄暗い間接照明と、静かに流れるジャズの調べ。クリスタルグラスが触れ合う微かな音が、退屈な夜をほんの少しだけ彩っている。

俺、木村健太は、カウンター席の端で、ロックグラスの中で溶けゆく丸い氷をただぼんやりと見つめていた。


「ねえ、健太くん。私の話、聞いてる?」


隣に座る女が、甘ったるい香水の匂いを漂わせながら俺の肩にすり寄ってくる。

どこかの雑誌の読者モデルをしているという、中身のすっからかんな女だ。

父親が経営する会社の役員という肩書きと、見栄えの良い外見、そして適当に金をばら撒く気前の良さ。それだけを餌にすれば、こういう類の女はいくらでも寄ってくる。


「ああ、聞いてるよ。来月のハワイ旅行だろ? チケット取っておくよ」

「ほんと!? 嬉しい! 健太くん大好き!」


女は無邪気に喜んで俺の頬にキスをしてきたが、俺の心には何の感情も湧かなかった。

ただ、冷たく濁った泥水のような虚無感が、胃の腑の底に沈殿しているだけだ。


「……悪い、ちょっとトイレ」


女の腕を適当に払い除け、俺はカウンターを立った。

鏡張りのレストルームに入り、蛇口を捻って冷たい水で顔を洗う。

鏡に映る自分の顔を見る。

相変わらず、人を小馬鹿にしたような冷たい目をしている。昔からずっとそうだ。


裕福だが冷え切った家庭環境。

金で何でも解決しようとする父親と、若い燕に夢中になって家を空けてばかりの母親。

そんな両親を見て育った俺は、人間の愛情や絆といったものを全く信じていなかった。

表面上は仲良く見えても、少し環境が変われば、少しの刺激を与えれば、いとも簡単に裏切り、憎しみ合う。人間なんて所詮、自分の欲望に忠実なだけの醜い生き物だ。

だから俺は、他人が築き上げたつもりの「強固な絆」や「理想の関係」を、ゲーム感覚で壊すことに歪んだ快感を覚えていた。

斎藤優奈も、そのターゲットの一人に過ぎなかった。

「理想のカップル」という重圧に押し潰されそうになっていた彼女の隙を突き、少し甘い言葉を囁いただけで、彼女はあっさりと彼氏を裏切った。

俺の予想通りの、ありふれた喜劇。

高橋蓮が優奈の浮気を知り、絶望して首を吊ったと聞いた時も、俺は「馬鹿な奴だ」と鼻で笑って終わらせるつもりだった。


しかし。

あの日から三年が経った今でも、俺は高橋蓮という存在を忘れることができずにいた。

蛇口から流れ落ちる水の音を聞いていると、ふいにあの時のネットニュースの小さな見出しが脳裏にフラッシュバックする。


高橋は、なぜ俺の名前を遺書に書かなかったのか。

なぜ、俺たちを社会的に抹殺するような復讐をしなかったのか。

自分のすべてを奪った相手に対して、何も言い残さずに消える。その圧倒的な「沈黙」が、俺の心の中に、今まで経験したことのない得体の知れない恐怖を植え付けたのだ。


恨み言を連ねてくれれば、俺はそれを「弱者の遠吠え」として嘲笑し、自分の優位性を再確認できたはずだ。

だが、高橋は一切の弁明も、非難も、呪詛も残さなかった。

彼は自らの命を絶つことで、俺たちの手の届かない絶対的な高みへと登り詰め、そこから俺という人間の底知れぬ空っぽさを、静かに見下ろしているように思えてならないのだ。


レストルームを出て、バーのフロアに戻る。

楽しそうに笑い合う客たち。隣で俺を待っている空っぽな女。

すべてがひどく色褪せて、無意味なものに見えた。


俺は人間の脆さを暴き出し、底辺から見下ろしているつもりだった。

しかし、本当に底辺にいたのは誰だったのか。

愛することも、信じることもできず、ただ他人の幸福を壊すことでしか自分の存在意義を見出せなかった俺自身こそが、最も惨めで、最も中身のない泥人形だったのではないか。

高橋蓮の死は、その残酷な真実を、俺の目の前に突きつけてきたのだ。


席に戻ると、グラスの中の丸い氷はすっかり溶け、バーボンは薄まりきってしまっていた。

それを一口飲む。

不味い。何の味もしない。

俺がこれからの長い人生で口にするものは、すべてこの薄まった酒のように、何の感動ももたらさないだろう。


優奈は今頃、あの手紙の呪縛に囚われ、狂ったように自責の念に駆られながら息を潜めているはずだ。

そして俺もまた、誰にも理解されない冷徹な虚無感と、見えない視線への恐怖を抱えたまま、この無意味な人生を消化していかなければならない。

高橋を勝手に死んだ弱い人間だと片付けようとしても、心の奥底にあるこの微かな震えを止めることはできない。


俺たちは皆、あの日のまま、止まった時計の針の上で身動きが取れなくなっている。

窓の外には、見上げることもない灰色の空が、永遠に同じ色で広がっていた。

高橋蓮が残した静かな残響は、俺たちの魂をゆっくりと、しかし確実に蝕み続け、決して終わることのない地獄を確約しているのだった。


俺は薄まったバーボンをもう一度飲み込み、自分の人生が完全に終わっていることに、歪んだ笑みを浮かべるしかなかった。

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