第4話 井戸の底の静寂
カーテンを閉め切った部屋には、昼夜の区別がない。
あの日、優奈をこの部屋から追い出して以来、俺は一歩も外に出ていなかった。
大学の講義をすっぽかし、バイト先には体調不良だと短いメッセージを送ったきりだ。それからどれくらいの時間が経過したのか、もう正確には分からない。おそらく三日か、四日か。
太陽の光を完全に遮断した薄暗い空間で、俺はベッドの上に横たわったまま、天井の染みをただぼんやりと見つめ続けていた。
食事は一切喉を通らなかった。空腹感すら感じない。
ただ喉の渇きだけが定期的に訪れ、その度に重い体を引きずってキッチンの水道の蛇口を捻り、生温かい水を胃に流し込む。それ以外の時間は、ただ死んだように横たわっているだけだった。
部屋の中は散らかり放題になっていた。脱ぎ捨てられた服、読みかけの雑誌、そしてあの日、二人で飲もうとして淹れたまま冷めきったコーヒーの入ったマグカップ。
そのすべてが、俺の心が完全に停止してしまったことを示しているようだった。
枕元に放り投げられたスマートフォンが、時折ブブッと無機質な振動を立てる。
画面を見なくても、誰からの連絡かは分かっていた。優奈だ。
彼女を追い出した翌日から、日に数回、MINEのメッセージが届いていた。
最初のうちは無視していたが、一度だけ、魔が差したように画面を開いてしまったことがある。そこに並んでいた言葉の数々は、俺の絶望をさらに深いものにするには十分すぎるものだった。
『昨日はごめんね』
『ちゃんと話がしたい。私の口から説明させて』
『あれは、ほんの出来心だったの。蓮を傷つけるつもりはなかった』
出来心。
その三文字を見た瞬間、俺の奥歯がギリッと音を立てた。
数週間にわたって俺に嘘をつき続け、別の男の腕の中で快楽に溺れていた事実を、彼女は「出来心」という便利な言葉で矮小化しようとしていた。
説明させてほしい、という言葉の裏には、どうにかして自分の非を軽くし、この最悪の事態から逃げ出したいという利己的な計算が透けて見えた。
あの日、決定的な証拠を突きつけられた彼女が見せた、あの卑怯な沈黙。
それがすべてだったのだ。
俺が人生のすべてを懸けて愛し、信じ抜いていた「優奈」という存在は、あの瞬間に跡形もなく消え去った。いや、最初からそんな完璧な彼女など存在していなかったのかもしれない。俺が勝手に理想を押し付け、それに合わせて彼女が仮面を被っていただけだったのだ。
目を閉じると、瞼の裏に過去の記憶が鮮明にフラッシュバックしてくる。
それは、思い出すのも残酷なほど、美しく輝かしい記憶ばかりだった。
小学生の頃、泥だらけになりながら近所の公園で追いかけっこをした日。転んで泣き出した優奈の膝に、俺が絆創膏を貼ってやった時の、涙混じりの笑顔。
中学生になり、お互いを異性として意識し始め、二人きりになるとなぜか言葉が少なくなってしまった、あのむず痒くも甘酸っぱい空気。
そして高校二年の夏祭り。花火の音が鳴り響く中、人混みにはぐれないようにと初めて彼女の手を握った時の、あの信じられないほど高鳴った鼓動。
「私たち、ずっと一緒だよね」
夜空に咲く大輪の花火を見上げながら、優奈は確かにそう言った。
俺はその言葉を、神への誓いのように信じ込んだ。
大学に合格し、二人でこのアパートの家具を買い揃えに来た時も、将来はどんな家に住みたいか、どんな家庭を築きたいかという夢を語り合った。
俺の未来の設計図には、いつだって中心に優奈がいた。彼女を幸せにすることが俺の生きる目的であり、彼女の笑顔を守ることが俺の誇りだった。
けれど今、そのすべての記憶が、醜い泥水に塗れていく感覚に襲われていた。
彼女が木村健太という男と肌を重ね、俺には見せたこともないような顔で喘いでいたという事実が、過去の美しい記憶までをも侵食し、破壊していくのだ。
あの時の笑顔も、あの時の言葉も、すべて嘘だったのではないか。
俺はずっと、彼女にとって都合の良い「安全な逃げ場所」として利用されていただけではないのか。
そう考え始めると、胸の奥が物理的に抉られるような激痛が走り、俺は毛布を頭から被って声を殺して泣き叫んだ。
涙は枯れることなく溢れ続け、俺の精神を限界まで削り取っていった。
木村健太。
あの気怠げで、常に周囲を冷笑しているような目をした男の顔が脳裏に浮かぶ。
同じ学部の講義で何度か見かけた程度の男だった。まさか、あんな男が俺の人生を根底から破壊する悪魔になるとは、思いもしなかった。
健太は、俺たちの完璧な関係に隠された脆さを的確に見抜き、優奈の心の隙間に甘い毒を注ぎ込んだのだ。
そして優奈は、その毒の魅力にあっさりと屈した。
あいつは、どんな気持ちで俺を見ていたのだろうか。
アウスタにアップされた、俺と優奈の幸せそうなツーショット写真。あれを見て、あいつは鼻で笑っていたに違いない。
「お前の彼女、昨日の夜は俺のベッドで泣いてたぜ」と。
水族館で、空虚な目をしていた優奈を心配して声をかけた俺の滑稽な姿。
俺は何も知らずに、ピエロのように彼女の機嫌を取り、偽りの日常を必死に守ろうとしていた。
自分自身のプライドと、優奈への強すぎる執着が、俺の目を曇らせていたのだ。
違和感にはずっと前から気づいていたはずだった。
カフェでの不自然な態度、頻繁に鳴るスマートフォンの通知、目が笑っていない完璧な笑顔。
すべてが「何かおかしい」と告げていたのに、俺は真実と向き合うことから逃げた。
問い詰めて、もし裏切られていたら生きていけない。だから、気づかないふりをして、彼女の嘘に付き合い続けた。
その臆病さが、結果として最悪の結末を招き寄せたのだ。
俺がもっと強く、もっと早く彼女に向き合っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。いや、もう遅い。手遅れだ。
すべてを失った今となっては、そんなタラレバの思考すらも虚しいだけだった。
怒りや憎しみは、最初の数日は激しい炎のように俺の心を焼き尽くした。
優奈の首を絞めてやりたい。健太を包丁で刺し殺してやりたい。
そんな凶行のシミュレーションが何度も頭を駆け巡った。
しかし、その炎は長くは続かなかった。燃料となる気力そのものが、俺の中から枯渇してしまったからだ。
激しい感情の波が引いた後に残ったのは、深く、暗く、冷たい虚無感だけだった。
それはまるで、光の届かない古い井戸の底に突き落とされたような感覚だった。
周囲は分厚い石の壁に囲まれ、いくら叫んでも誰にも声は届かない。
上を見上げても、出口の光は針の穴よりも小さく、とても這い上がることなどできない。
足元からは冷たい地下水がじわじわと湧き出し、足首から膝へ、膝から腰へと、ゆっくりと、しかし確実に水位を上げている。
息が詰まるような閉塞感の中で、俺はただ水が首元まで迫り、完全に自分を飲み込んでくれるのを待っている。
そんな、抗うことすら放棄した絶対的な絶望の底に、俺は沈んでいた。
俺の人生の軸は折れた。
生きる理由だった存在が、俺の心臓を素手でえぐり出して踏み躙ったのだ。
明日を迎える意味がない。呼吸を続ける理由がない。
この世界は俺にとって、もはや苦痛を持続させるための拷問部屋でしかなかった。
「……終わらせよう」
ひび割れた声が、静寂の部屋にポツリと落ちた。
自分の口から出たその言葉は、驚くほどすんなりと心に馴染んだ。
そうだ、終わらせればいい。これ以上、この地獄のような苦しみを味わい続ける必要はない。
死という選択肢が、この時の俺には唯一の救済として輝いて見えた。
だが、ただ静かに消えてなくなるだけでは、どうしても納得できない自分がいた。
俺の人生を壊したあの二人が、俺の死後ものうのうと生き延び、やがて俺のことなど忘れて新しい幸せを見つけるなど、絶対に許せなかった。
あいつらに、俺が今味わっているこの井戸の底の絶望を、少しでもいいから味わせてやりたい。
一生消えない呪いの烙印を、その魂に焼き付けてやりたい。
俺はふらつく足でベッドから立ち上がり、部屋の隅にある小さなデスクに向かった。
引き出しを開け、シンプルな白い便箋と黒いボールペンを取り出す。
デスクのスタンドライトだけを点けると、オレンジ色の光が便箋の白さを際立たせた。
椅子に深く腰掛け、ペンを握る。
遺書を書く。
最初は、ありったけの恨み言を書き連ねてやろうと思った。
お前たちの裏切りが俺を殺した。お前たちの嘘が俺の人生を破壊した。一生許さない。地獄に落ちろ。
そんな呪詛の言葉を何十枚も書き殴り、優奈と健太に送りつけてやる。
そうすれば、あいつらは一生罪悪感に苦しむだろうか。
いや、違う。
俺はペンを持ったまま、動きを止めた。
そんな直接的な恨み言は、かえってあいつらに逃げ道を与えてしまう。
健太のような男なら、「勝手に死んだ馬鹿な奴」と冷笑して一瞬で忘れるだろう。
優奈は最初は泣くかもしれないが、やがて「私はあそこまで追い詰めるつもりはなかった」「彼が勝手に思い詰めただけだ」と、自己保身のための言い訳を見つけ出し、自分の罪を軽くしようとするはずだ。
言葉を尽くせば尽くすほど、俺の思いは軽く、陳腐なものになってしまう。
では、どうすれば一番深く、鋭く、あいつらの心に傷を刻み込めるだろうか。
どうすれば、あいつらが一生、俺という存在の亡霊から逃れられなくなるだろうか。
薄暗い部屋の中で、俺は思考を深海へと沈めていく。
そして、ある一つの答えに辿り着いた。
「理由を与えないこと」
そうだ。答えを与えず、意味を限定しないことこそが、最も恐ろしい呪いになる。
人間の心は、理解できないもの、空白の部分に最も恐怖を抱き、そこに自分自身の罪悪感を投影する生き物だ。
俺が何も語らずに消えれば、優奈は一生、その空白の意味を探し求め、自分自身の罪の意識に苛まれ続けることになる。
俺はゆっくりとペンを動かし、真っ白な便箋の中央に、たった一言だけを書き記した。
『ごめん』
その三文字。
たったそれだけだ。
お前を幸せにしてやれなくて、ごめん。
お前の嘘に気づかないふりをして、ごめん。
お前の重荷になってしまって、ごめん。
あるいは——お前の人生に、永遠に消えない十字架を背負わせてしまって、ごめん。
受け取る側が、その時の精神状態によっていくらでも意味を補完できる、底なし沼のような言葉。
優奈はこの紙切れを見た瞬間、発狂するほどの自責の念に駆られるはずだ。
彼女が最も恐れている「完璧な自分の崩壊」を、この一言が決定的なものにする。
そして健太も、直接的な恨みをぶつけられるよりも、この不気味なほどの静けさに、微かな恐怖を覚えるに違いない。
ペンを置き、便箋を二つに折って封筒に入れる。
表には何も書かず、ただデスクの中央に静かに置いた。
窓の隙間から、夜の冷たい風が入り込み、カーテンを微かに揺らした。
外の世界の喧騒は、もう俺には一切届かない。
井戸の底の静寂が、俺の全身を優しく包み込もうとしていた。
不思議と、恐怖はなかった。
あるのは、すべてを終わらせることができるという、冷たく澄み切った安堵感だけだった。
俺はデスクから立ち上がり、部屋の奥にあるクローゼットへと向かった。
愛と背徳、嘘と執着に塗れたこの狂った日常に、自らの手で終止符を打つために。
俺の残した「ごめん」という呪いの残響が、彼女たちの人生を永遠に狂わせることを確信しながら、俺は最後の準備を始めた。




