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「ごめん」の残響――完璧だったはずの恋が、一通の通知で壊れるまで  作者: ledled


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第3話 綻びる仮面

水族館でのデートから二週間が経過した。その間、俺と優奈の関係は表面的には何も変わっていなかった。

大学のキャンパスで一緒に講義を受け、昼休みにはカフェテリアでランチを食べ、休日はどちらかの部屋で映画を観たり、近所を散歩したりする。端から見れば、相変わらず誰もが羨む「理想のカップル」のままだっただろう。

だが、俺の心の中には、水族館の巨大な水槽の前で見た、彼女のあの空虚な瞳がどうしてもこびりついて離れなかった。あの時の彼女は、明らかに俺ではない誰かのことを考えていた。その疑念は、日を追うごとに俺の胸の中でどす黒い染みのように広がっていく。


最近の優奈は、明らかにスマートフォンを気にする回数が増えていた。俺と一緒にいる時でも、常に画面を伏せてテーブルの端に置いている。そして、短いバイブレーションが鳴るたびに、一瞬だけ視線をそちらに向け、俺の様子を窺うのだ。

俺が「誰から?」と尋ねると、彼女は決まって「凛から」とか「ゼミのグループMINE」と答える。その時の彼女の笑顔は完璧だった。一点の曇りもなく、純度百パーセントの愛らしさで俺を安心させようとする。

その完璧さが、逆に俺を恐れさせていた。かつて隠し事ができなかった不器用な優奈はどこへ行ってしまったのだろうか。まるで精巧に作られたアンドロイドが「彼女」というプログラムを忠実に実行しているかのような、そんな薄ら寒さすら感じるようになっていた。


それでも、俺は彼女を問い詰めることができなかった。もし問い詰めて、俺の恐れている真実が口から出てしまったら? 想像するだけで呼吸が浅くなり、指先が冷たくなる。俺の人生は優奈を中心に回っているのだ。彼女を失うことは、俺にとって世界の終わりを意味していた。

だから俺は、見て見ぬふりをするという最も卑怯で愚かな選択をし続けていた。ひび割れた硝子細工を必死に両手で押さえつけ、崩壊を先延ばしにしているだけだと心のどこかで分かっていながら。


今日は土曜日で、優奈が俺のアパートに遊びに来ていた。梅雨入り前のじめじめとした湿気が漂う午後、俺たちはエアコンを効かせた部屋で、レンタルしてきたミステリー映画を観ていた。優奈は俺の肩に頭を乗せ、リラックスした様子で画面を見つめている。

俺は彼女のサラサラとした黒髪から漂うシャンプーの香りを嗅ぎながら、この穏やかな時間が嘘であってほしくないと強く願っていた。



蓮の部屋のソファに並んで座り、映画のエンドロールを眺めながら、私は密かに安堵の息を吐いていた。

今日も無事に「完璧な彼女」を演じ切ることができそうだ。蓮は私の作る笑顔に何の疑いも抱いていない。時折見せる不安げな表情も、私が少し甘えればすぐに安心したように緩む。彼は本当に優しくて、私を愛してくれている。

けれど、その愛情が今の私には重く、息苦しいものになっていた。蓮と一緒にいる時間は、まるで凪いだ海に浮かぶ小舟に乗っているかのようだ。安全で、平和で、退屈。


その反動からか、私は木村健太との関係に深く溺れてしまっていた。

健太と過ごす時間は、蓮とは正反対の嵐のような刺激に満ちていた。彼は私の「理想の彼女」という仮面を容赦なく剥ぎ取り、心の奥底にあるドロドロとした欲望を引きずり出す。夜中に蓮に嘘をついて健太の車に乗り込み、誰にも見られない場所で唇を重ねる。背徳感と罪悪感が入り混じった強烈なスパイスは、私の脳を完全に麻痺させていた。


最初は感じていたはずの蓮への申し訳なさは、いつの間にか「バレなければ問題ない」という歪んだ万能感へと変わっていた。私は上手くやっている。蓮には決して気づかれないように、二つの世界を完璧にコントロールしているのだと、本気で思い込んでいた。


「優奈、喉渇かないか? コーヒーでも淹れようか」


映画が終わり、蓮が優しく声をかけてくる。


「うん、お願い。私、ちょっとお手洗い行ってくるね」


私は蓮に微笑みかけ、立ち上がった。

その時、ローテーブルの上に伏せて置いていたスマートフォンを持っていくか迷ったが、わざわざトイレにまで持っていくのは不自然だと思い、そのままにしておくことにした。

大丈夫。健太には「今日は蓮の部屋にいるから、連絡は控えて」と事前にMINEしておいた。彼もそこまで空気が読めない人間ではない。それに、画面にはロックもかかっている。

私は何の疑いも持たず、洗面所へと向かった。

この時の私の油断が、すべてを破滅に導く引き金になることなど、知る由もなかった。



優奈が洗面所へ向かった後、俺はキッチンに立ち、二人分のコーヒーを淹れ始めた。

電気ケトルでお湯を沸かしながら、ふとリビングのローテーブルに目をやる。そこには、優奈が置き去りにしていったスマートフォンがあった。

画面は伏せられている。いつもなら絶対に手放さないはずのそれを、今日は珍しく置いていったのだ。


「……」


胸の奥で、嫌な鼓動がドクンと鳴った。

見てはいけない。他人のスマートフォンを勝手に覗き見るなんて、最低の行為だ。しかも相手は、俺が誰よりも愛し、信頼しているはずの優奈だ。

そんなことをすれば、俺たちの関係は本当に修復不可能なところまで壊れてしまうかもしれない。

しかし、俺の足は無意識のうちにローテーブルへと向かっていた。


水族館での彼女の空虚な瞳、頻繁に鳴るバイブレーション、そして俺に向けられる完璧すぎる笑顔。それらが頭の中でフラッシュバックし、俺の理性を強引にねじ伏せていく。


「少しだけ……通知を見るだけだ。何もないって確認できれば、それで安心できる」


俺は自分自身に言い訳をしながら、震える手で優奈のスマートフォンに手を伸ばした。

ひっくり返し、画面を表に向ける。

真っ暗な画面。ロックがかかっている。

安堵の息を吐きかけた、まさにその瞬間だった。


ブッ。


スマートフォンが短く震え、画面がパッと明るく点灯した。

MINEの通知ポップアップが、ロック画面の中央に浮かび上がる。

俺の心臓が、早鐘のように打ち始めた。


送信者の名前は『木村健太』。

見覚えのある名前だった。俺たちと同じ学部の男子学生だ。なぜ彼が、休日のこの時間に優奈に個人的なメッセージを送ってくるのか。

そして、ポップアップに表示されたメッセージの一部が、俺の目に飛び込んできた。


『昨日のホテル、最高だったね。優奈の喘ぐ声、可愛すぎてたまらなかった。彼氏くんには内緒で、また明日も抜け出せる?』


——えっ?


文字の羅列が、頭の中で意味を結ぶまでに数秒の時間を要した。

ホテル。喘ぐ声。彼氏くんには内緒。

その言葉の持つ破壊的な意味を理解した瞬間、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。

全身から一気に血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。

呼吸の仕方を忘れたように、喉がヒューヒューと鳴るだけで酸素が肺に入ってこない。


「嘘だ……嘘だろ……?」


無意識に漏れた声は、自分でも驚くほどひどく掠れていた。

頭の中をハンマーで殴られたような衝撃。これまでの違和感、不自然な態度、完璧な嘘の笑顔。そのすべてが、最悪の形で一本の線に繋がった。

優奈は、俺を裏切っていた。

俺の知らない男と、俺の知らない場所で、肌を重ねていたのだ。しかも「昨日」と言っている。昨日は金曜日で、優奈は「ゼミの飲み会だから遅くなる」と言っていた日だ。

あの笑顔で、あの優しい声で、俺に嘘をつきながら、この男の腕の中にいたのか。


胃の腑から込み上げてくる強烈な吐き気。俺はその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、テーブルの端を強く握りしめた。

頭の中が真っ白になり、激しい怒りと、それ以上の深くて暗い絶望が俺の心を完全に塗り潰していく。

俺の信じていた世界は、このたった一通の通知によって、音を立てて粉々に砕け散ったのだ。



「蓮? お湯、沸いてるみたいだけど」


洗面所から戻ってきた優奈の声が、遠くの方から聞こえた。

俺はゆっくりと顔を上げる。

そこには、いつもと変わらない、清楚で可愛らしい俺の彼女が立っていた。

彼女の顔を見た瞬間、俺の中で何かがプツンと切れる音がした。


「……蓮? どうしたの、顔色悪いよ。具合でも悪い?」


俺の異変に気づいた優奈が、心配そうな表情を作って近づいてくる。

その顔。その仮面。今まで俺はずっと、この虚像に騙されていたのだ。


「……これ」

「え?」

「これは……何だ?」


俺は震える手で、彼女のスマートフォンを持ち上げた。

画面はまだ点灯したままで、健太からの吐き気を催すようなメッセージがはっきりと表示されている。

それを見た瞬間、優奈の顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。

大きく見開かれた瞳。微かに震え始めた唇。

彼女がこれほどまでに取り乱す姿を見たのは、いつ以来だろうか。


「あ……れは……その……」


優奈は言葉を紡ぐことができず、ただパクパクと口を動かしている。

その様子が、何よりも雄弁に真実を物語っていた。


「答えろよ!!」


俺の口から、自分でも聞いたことのないような怒声が飛び出した。

優奈がビクッと肩を震わせ、一歩後ずさる。


「木村健太って、あいつだよな? お前、あいつと……浮気してたのか?」


声が震える。情けないことに、視界が涙で滲んできた。

否定してほしかった。すべては何かの間違いで、誰かの悪戯で、優奈の口から「違う」と言ってほしかった。

しかし、俺の悲痛な願いに対する優奈の反応は、あまりにも残酷なものだった。



蓮の手の中にあるスマートフォンを見た瞬間、私の頭は完全に真っ白になった。

最悪だ。なんでこんな時に。健太には連絡してくるなと言っておいたのに。

心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝う。

蓮の顔を見ると、見たこともないような恐ろしい形相で私を睨みつけていた。怒り、悲しみ、絶望。そのすべての感情が入り混じった瞳から、大粒の涙が零れ落ちている。


「木村健太って、あいつだよな? お前、あいつと……浮気してたのか?」


絞り出すような蓮の問いかけ。

その声には、まだ私を信じたいという僅かな縋りつくような響きが含まれていた。

今すぐ土下座して謝れば、許してくれるかもしれない。出来心だったと、もう二度と会わないと泣いてすがれば、優しい蓮のことだから、元の関係に戻れるかもしれない。

しかし、パニックに陥った私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、蓮への謝罪ではなかった。


『どうすれば、この状況を切り抜けられるか』

『どんな言い訳をすれば、蓮に嫌われずに済むか』

『私の完璧なイメージを、これ以上壊さないためにはどうすればいいか』


恐ろしいほど利己的で、保身に満ちた思考ばかりがぐるぐると渦巻いていたのだ。


「違うの、これはただのイタズラで……」


そう言いかけようとしたが、声が出なかった。あんな具体的な内容のメッセージを見られて、イタズラで通じるわけがない。


「あのね、健太君から無理やり迫られて……」


被害者のふりをしようか。でも、もし蓮が健太に直接問い詰めたら、私が自分から誘いに乗っていたことがすぐにバレてしまう。


頭の中でいくつもの言い訳のシミュレーションを重ねるが、どれも致命的な欠陥があった。

蓮はずっと、私の言葉を待っている。震える肩を抱きしめるようにして、私の口から何らかの弁明が出るのを待っている。

しかし、私は何も言うことができなかった。

何を言っても取り返しがつかない。何を言っても、私の軽蔑すべき裏切りが露呈するだけだ。

結果として、私が選んだのは「沈黙」だった。

ただ俯き、唇を噛み締め、貝のように口を閉ざす。

それは謝罪でもなく、反省でもない。ただの卑怯な逃亡だった。自分が悪者になることから逃げるための、最低の沈黙。



沈黙。

それは、どんな残酷な言葉よりも深く、俺の心に致命傷を与えた。

優奈は俯いたまま、一言も発しようとしない。

俺に向けて「ごめんなさい」と泣き叫ぶわけでもなく、「違う」と否定するわけでもない。

ただ、自分の保身のためだけに、どうやってこの状況から逃げ出そうかと頭をフル回転させているのが、手に取るように分かった。

その卑怯な沈黙の向こう側に、俺の知っている「優しい優奈」はもうどこにもいなかった。

俺が愛し、全幅の信頼を寄せていた彼女は、ただの幻想だったのだ。


「……そうか。分かった」


俺の口から出たのは、ひどく冷たく、平坦な声だった。

自分でも驚くほど、スッと感情が引いていくのが分かった。

怒りも、悲しみも、すべてが氷点下まで凍りつき、後には底知れぬ虚無感だけが残った。


「もういい。出て行ってくれ」

「え……れ、蓮……?」


ようやく顔を上げた優奈の目には、戸惑いの色が浮かんでいた。

彼女は俺が怒鳴り散らしたり、泣き喚いたりするとでも思っていたのだろうか。


「帰ってくれ。俺はもう、お前の顔を見たくない」

「待って、蓮! 違うの、話を聞いて! 私……!」


優奈が慌てて俺の腕を掴もうと手を伸ばしてくるが、俺はそれを汚いものを振り払うように弾き飛ばした。


「触るなッ!!」


ビクッと肩を跳ねさせ、優奈が怯えたように俺を見る。

その目は、俺を恐れている目だった。

俺たちの間には、もう絶対に修復できないほどの巨大な亀裂が走っていた。完璧だったはずの硝子細工は粉々に砕け散り、鋭い破片となってお互いを傷つけている。

優奈は何か言いたげに口を動かしたが、俺の冷え切った視線に射すくめられ、結局何も言えずに部屋を出て行った。


バタン、と玄関のドアが閉まる音が、静まり返った部屋に虚しく響き渡る。

俺は一人残されたリビングで、テーブルの上に残されたままのスマートフォンを見つめていた。

これまでの優奈との思い出、二人で描いていた未来、すべてが嘘と裏切りで塗れ、醜く歪んでしまった。

俺の心の中には、深い絶望の闇だけが静かに口を開けていた。

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