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「ごめん」の残響――完璧だったはずの恋が、一通の通知で壊れるまで  作者: ledled


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第2話 アウスタの虚像とMINEの迷宮

暗く静まり返った自室のベッドの上で、俺は仰向けのままスマートフォンの発する青白い光を見つめていた。

画面に表示されているのは、写真共有SNSアプリ「アウスタ」のタイムラインだ。

スクロールする指を止め、俺はある一つの投稿に視線を釘付けにしていた。


『いつものカフェで、大好きな人と。新作のストロベリータルト、最高に美味しかった!』


そんな可愛らしいキャプションと共に投稿されていたのは、昨日俺と優奈が訪れた駅前のカフェでの写真だった。

一枚目は、艶やかなイチゴがたっぷりと乗ったタルトのアップ。

二枚目は、向かいの席に座る俺の姿。不意打ちで撮られたもので、少し照れたように笑っている俺の顔が写っている。

そして三枚目は、俺と優奈のツーショットだった。優奈がカメラを持ち、俺の肩に顔を寄せて満面の笑みを浮かべている。

その笑顔は、誰もが羨むような幸福に満ち溢れたもので、彼女の美しさを最大限に引き出していた。


画面の下には、共通の友人たちからのコメントがズラリと並んでいる。


『またデート? ほんと仲良しだね!』

『理想のカップルすぎる。羨ましい〜』

『蓮くんの照れ顔レアじゃん! 優奈の特権だね』


普段なら、こうしたコメントを見るたびに、俺の心は満ち足りた優越感と幸福感で満たされていた。

俺にはこんなに素敵で、誰からも愛される自慢の彼女がいるのだと。そして彼女もまた、俺のことを心から愛してくれているのだと、再確認できるからだ。

だが、今夜はどうしても、その写真の優奈の笑顔を素直に受け入れることができなかった。


脳裏に蘇るのは、昨日のカフェでの彼女の僅かな違和感だ。

テーブルの端に伏せて置かれたスマートフォン。

それが短く震えた瞬間に見せた、ビクッと肩を跳ねさせるような不自然な反応。

中野凛からの連絡だと言ったときの、どこか上擦ったような声色。

そして、別れ際に駅の改札で見せた、あの完璧すぎる微笑み。


俺はスマートフォンの画面を指でピンチアウトし、三枚目のツーショット写真の優奈の顔を拡大した。

ピントが合い、くっきりと映し出された彼女の瞳。

その瞳の奥をじっと見つめていると、背筋に冷たいものが走るような錯覚を覚えた。

笑っている。確かに口角は上がり、頬は緩んでいる。

けれど、目が笑っていない。

まるで、カメラのレンズの向こう側にいる誰かに向けて、計算し尽くされた笑顔を作って見せているような、そんな冷たさを感じてしまうのだ。


「……考えすぎだろ、俺。疲れてるのかな」


暗い部屋に独り言が虚しく響く。

優奈が俺を裏切るはずがない。そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない。

俺たちは物心ついた時からの幼馴染で、お互いの全てを知っている。彼女の優しさも、誠実さも、俺への深い愛情も、これまでの人生で痛いほど感じてきたじゃないか。

俺はスマートフォンの画面をオフにし、深く息を吐き出して目を閉じた。

自分の中に芽生えた不信感を、強固なプライドと彼女への執着で無理やり押さえ込む。

疑うことは、俺たちの完璧な関係に自ら亀裂を入れる行為だ。それだけは絶対に避けなければならなかった。



翌日の昼休み。

大学のキャンパス内にある広々としたカフェテリアは、昼食をとる学生たちの熱気と喧騒で満ちていた。

俺たちは窓際のテーブル席を確保し、三人でランチのプレートをつついていた。

俺と優奈、そして優奈の親友である中野凛だ。


「そういえばさ、優奈。最近なんかスマホばっかり見てない?」


食後のアイスコーヒーをストローで啜りながら、凛が唐突にそんなことを言った。

凛は黒髪のショートボブが似合う、涼しげな目元をした女性だ。すでに大手IT企業「デジタル・パルス」への内定を決めており、学生特有のフワフワとした空気を持たず、常に物事を客観的かつ冷静に観察する癖があった。


「えっ? そ、そうかな?」


パスタをフォークに巻きつけていた優奈の手がピタリと止まる。

彼女はテーブルの横に置いていた自分のスマートフォンを、無意識のうちに手で隠すような仕草を見せた。


「うん。前はご飯食べてる時とか、あんまりスマホ触らなかったじゃん。さっきからチラチラ画面気にしてるし、何か大事な連絡でも待ってるの?」


凛の視線は鋭く、優奈のわずかな動揺を見逃さないように探っているように見えた。

俺の心臓が、トクンと嫌な音を立てて跳ねた。昨夜、俺自身が感じていた違和感を、凛も感じ取っているのだ。


「あ、ううん、違うの。ちょっとゼミのグループワークの連絡が立て込んでて。ほら、来週発表があるじゃない? だから、みんなの進捗を確認しなきゃいけなくて」


優奈はすぐにいつものふんわりとした笑顔を作り、淀みなくそう答えた。

その声色には焦りも濁りもなく、完璧に自然な響きを持っていた。


「へえ、そうなんだ。優奈は真面目だねえ。でも、蓮の前でくらいスマホの電源切っておきなよ。せっかくの昼休みなのに、蓮が寂しがっちゃうよ?」

「もう、凛ったら。蓮はそんなことで怒ったりしないもんね?」


優奈が俺の方を向いて、甘えるように小首を傾げる。

その愛らしい仕草に、俺は反射的に微笑みを返していた。


「まあ、ゼミの連絡なら仕方ないだろ。俺は気にしてないよ」

「ほらね。蓮は優しいんだから」


優奈は嬉しそうに笑い、再びパスタを食べ始めた。

その様子を見て、凛は「はいはい、ご馳走様」と呆れたように肩をすくめたが、俺は彼女の瞳の奥に、納得しきれていないような微かな疑念の光が残っているのを見逃さなかった。


俺自身も、内心では穏やかではいられなかった。

優奈は昔、嘘をつくのが極端に下手な子供だった。隠し事をしている時は、必ず俺の目を見ることができず、視線を泳がせて指先を弄る癖があったのだ。

けれど今の彼女は、凛の鋭い追及に対しても、一切目を逸らすことなく、真っ直ぐに相手を見つめて嘘をついた。

もしあれが本当に嘘なのだとしたら、彼女はいつの間にこんなにも滑らかに、完璧な仮面を被れるようになってしまったのだろうか。

その変化に対する恐怖が、俺の胸の奥底に冷たい泥のように沈殿していくのを感じていた。



カフェテリアでの息の詰まるような昼休みを終え、午後の講義が休講になった私は、蓮に「図書室でゼミのレポートを片付ける」と告げて一人でキャンパスを出た。

初夏の強い日差しから逃れるように、私は駅の反対側にある人通りの少ない裏路地へと足を進める。

コインパーキングの片隅に停められた、黒い高級外車。

その見慣れた車の助手席のドアを開けると、冷房の効いた車内の空気と共に、ミントと微かな煙草の香りが鼻腔をくすぐった。


「遅い。待ちくたびれたよ」


運転席でシートを倒し、気怠げにスマートフォンを弄っていた木村健太が、私を見て薄く笑った。


「ごめん、凛に少し捕まっちゃって。抜け出すのに時間がかかったの」


私は助手席に滑り込み、ドアを閉める。

外の喧騒が遮断され、車内は二人だけの密室となった。


「凛? ああ、あのお堅い感じの友達か。勘付かれてんじゃないの?」

「……大丈夫だよ。ゼミの連絡だって言ったら、納得してたから」

「へえ。優奈ちゃんも随分と嘘が上手くなったねえ。感心するよ」


健太はシートを起こし、身を乗り出して私の頬に手を伸ばした。

彼のひんやりとした長い指が私の輪郭をなぞると、それだけで背筋にゾクゾクとした痺れが走る。


「やめてよ、誰かに見られたら……」

「こんな裏路地の駐車場、誰も見ないって。それとも、彼氏に見られたら困る?」


意地悪く微笑む健太の顔が近づいてくる。

私は目を閉じ、彼の唇を受け入れた。

深く、息を奪われるような口付け。蓮の優しくて安心感のあるキスとは全く違う、暴力的で、私の内側にある理性を強引に溶かしていくような感覚。

抵抗する気など、最初から起きなかった。


唇を離すと、健太は私の顔を覗き込むようにして低く笑った。


「昨日のアウスタ、見たよ。『大好きな人と』ねえ。俺と会う直前まで、あんなに幸せそうな顔して彼氏とケーキ食べてたなんて、ほんと笑える」

「あれは……周りがそういうの、期待してるから」

「期待に応える完璧な彼女、か。ご苦労なこった」


健太の言葉には、あからさまな嘲笑が含まれていた。

彼は他人の強固な絆や、幸せそうに見える関係の裏側にある脆さを暴き出し、それをゲームのように楽しんでいるのだ。

私は彼にとって、その退屈しのぎの玩具の一つに過ぎない。そんなことは、頭のどこかでは分かっていた。

それでも、私はこの甘い毒から逃れられなくなっていた。


「ねえ、優奈ちゃん。今、彼氏にMINEしてみてよ」

「えっ? 今?」

「そう。今。『今ゼミのレポート頑張ってるよ。蓮に会いたいな』ってさ」


健太の要求に、私は息を呑んだ。

いくらなんでも、それはあまりにも酷すぎる。今まさに、別の男の車の中で抱きしめられながら、彼にそんなメッセージを送るなんて。


「……嫌だよ。そんなの、あんまりだもん」

「ふーん。嫌なんだ。じゃあ、俺がここで彼氏に電話してあげようか? 優奈ちゃんは今、俺と一緒にいるよって」

「やめて!」


健太が自分のスマートフォンを取り出そうとするのを、私は慌てて制止した。

彼なら本当にやりかねない。そういう残酷さを平気で持ち合わせている人間だ。


「じゃあ、早く送って」


健太は私の耳元に顔を寄せ、甘く、けれど絶対的な命令として囁いた。

私は震える手でバッグから自分のスマートフォンを取り出し、MINEのアプリを開いた。

蓮とのトーク画面。一番最後にあるのは、今朝彼から送られてきた『今日も一日頑張ろうな』というスタンプ。

私は罪悪感で胸が押し潰されそうになりながらも、フリック入力で文字を打ち込んだ。


『今、図書室でレポート頑張ってるよ。蓮に会いたいな』


送信ボタンを押す。

数秒もしないうちに「既読」がつき、蓮から返信が来た。


『偉いな。無理しないでね。俺も早く優奈に会いたいよ』


その画面を見た瞬間、健太は腹を抱えて笑い出した。


「くくっ、最高! なあにこれ、彼氏、完全に信じ切ってんじゃん。滑稽すぎて腹痛い」

「……笑わないでよ」

「笑うなって。お前が一番残酷なことしてんのに、何被害者ぶってんの?」


健太の冷たい視線に射抜かれ、私は何も言い返せなくなった。

そうだ。一番酷いことをしているのは私だ。

蓮の純粋な愛情を踏みにじり、嘘をつき、騙し、こうして別の男の腕の中にいる。

最初は感じていたはずの罪悪感は、健太と密会を重ねるたびに薄れ、今ではこの二重生活がもたらす背徳的なスリルへとすり替わってしまっている。

私は、蓮を裏切っている自分自身に陶酔しているのだ。

取り返しのつかない深みへと堕ちていく感覚が、恐ろしくもあり、同時にどうしようもないほどの快感だった。



それから数日後の週末。

俺たちは、隣町にある大型の水族館へデートに来ていた。

休日の水族館はカップルや家族連れでごった返しており、薄暗い館内には人々のざわめきと、水槽のモーター音が絶えず響いている。


「わあ、蓮、見て! あのクラゲ、すごく綺麗!」


巨大な円柱型の水槽の前で、優奈がはしゃいだ声を上げる。

青い照明に照らされた水槽の中を、無数の海月がゆらゆらと幻想的に漂っている。


「本当だ。ライトアップされてて綺麗だな」


俺は彼女の隣に立ち、水槽を見つめる彼女の横顔を眺めた。

暗闇の中、水槽の青い光が優奈の白い肌を青白く染め上げている。

彼女は水槽に顔を近づけ、泳ぐクラゲを目で追っているように見えた。


「優奈は昔から、水族館好きだったよな。高校の時も、テストが終わるたびにここに来てたし」

「…………」

「優奈?」


俺が話しかけても、彼女は微動だにしなかった。

まるで俺の声が届いていないかのように、ただじっと水槽を見つめている。

いや、違う。彼女はクラゲを見ているわけではなかった。


水槽の分厚いアクリルガラスに反射して映る彼女の瞳。

その瞳の焦点は、目の前の景色には合っていなかった。

彼女はただ、水槽というスクリーンを通して、遥か遠くの何かを思い描いているように見えた。

その表情には、俺と一緒にいる時に見せる完璧な笑顔はなく、ただ底知れぬ空虚さと、得体の知れない熱のようなものが混在していた。


「……っ」


俺の胸の奥で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

あの瞳に映っているのは、絶対に俺ではない。

俺の知らない世界で、俺の知らない誰かのことを考えている。

その事実に直面した瞬間、全身の血が逆流するような強烈な不信感と絶望が俺を襲った。


「優奈……!」


俺は思わず、彼女の肩を強く掴んでいた。

ビクッと体を震わせ、優奈が弾かれたようにこちらを振り返る。


「えっ……れ、蓮? どうしたの、急に。痛いよ……」


優奈は戸惑ったような表情を浮かべ、俺の手を見た。

その顔には、先程までの空虚な表情は消え失せ、いつもの『俺の優奈』の顔が戻っていた。


「あっ……ごめん。その……」


俺は慌てて手を離した。

何を聞けばいい?

今、誰のことを考えていた?

どうしてそんなに遠くを見るような目をしていた?

なぜ、最近ずっとスマホを気にしている?

問い詰めたい言葉は山のようにあるのに、喉の奥に何かが詰まったように声が出ない。


「最近……何か疲れてる? 無理、してないか?」


ようやく絞り出したのは、そんな核心から逃げるような弱々しい言葉だった。

俺は真実を知るのが恐ろしかった。

もし彼女の口から、俺を絶望の淵に突き落とすような言葉が出てきたら、俺は生きていけない。

この完璧な日常が、理想の恋人同士という関係が、根底から破壊されてしまうのが怖くてたまらなかったのだ。


「……ううん、全然疲れてないよ? 蓮と一緒にいるから、すごく元気」


優奈は俺の目を真っ直ぐに見つめ、あの完璧で、美しい笑顔を作って見せた。

口角は上がり、頬は緩んでいる。

しかし、その目は完全に冷め切っていた。

ガラス玉のように感情を持たない瞳が、俺の臆病さを見透かしているようにすら思えた。


「そっか。……なら、いいんだ」


俺は自分のプライドを守るために、彼女のその不気味なほど完璧な嘘を受け入れるしかなかった。

自ら目を塞ぎ、耳を塞ぎ、壊れかけた硝子細工の日常にしがみつく。

信じたいという強固な願いが、俺自身を出口のない迷宮へと誘い込んでいることに、この時の俺はまだ気づこうとしていなかった。

いや、気づいていながら、認めることができなかっただけなのだ。

水槽の青い光が、俺たちの間に生じた決定的な断絶を、冷酷に照らし出していた。

この後、俺を待ち受ける残酷な真実の存在を予感させるように、クラゲたちはただ静かに、冷たい水の中を漂い続けていた。

真実から目を背け続ける代償がどれほど大きなものになるか、俺が思い知るのは、もう少し先のことだった。

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