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「ごめん」の残響――完璧だったはずの恋が、一通の通知で壊れるまで  作者: ledled


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第1話 硝子細工の日常

春の陽気が和らぎ、初夏の気配が混じり始めた五月の午後。

大学のキャンパスは講義を終えた学生たちで溢れ、活気に満ちたざわめきが響き渡っている。

俺、高橋蓮は、時計の針が午後四時を回ったのを確認し、待ち合わせ場所である図書館前のベンチへと足早に向かった。

そこにはすでに、見慣れた後ろ姿があった。


「優奈」


声をかけると、彼女はゆっくりと振り返り、花が咲くような柔らかい笑顔を向けた。


「蓮。お疲れ様」


俺の恋人であり、幼馴染でもある斎藤優奈。

肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪に、清楚な薄水色のブラウスがよく似合っている。周囲の男子学生がチラチラと視線を向けているのがわかるが、彼女は全く気にする素振りを見せない。

俺たちは物心ついた時からの幼馴染で、高校の時に自然な流れで付き合い始めた。周囲からは「理想のカップル」と呼ばれ、俺自身も彼女との未来を疑ったことは一度もない。大学を卒業したら就職し、数年後には結婚する。そんな当たり前の未来が、俺の人生の確固たる軸だった。


「ごめん、待たせた? 教授がなかなか話をやめてくれなくてさ」

「ううん、私も今来たところだから大丈夫。それより、喉渇いちゃった。いつものカフェ行こ?」


優奈が自然に俺の腕に自分の腕を絡ませてくる。その体温と甘い香りに、俺の心は安堵に満たされる。


「ああ、行こう。今日は新しいケーキが出てるはずだから、一緒に食べよう」

「ほんと? 嬉しい」


無邪気に喜ぶ優奈の横顔を見つめながら、俺たちは並んでキャンパスを歩き出した。

木漏れ日が彼女の髪をきらきらと照らし、完璧な日常の一コマを描き出している。俺はこの穏やかな時間が、永遠に続くと信じていた。疑う理由など、どこにもなかったのだから。



駅前の落ち着いた雰囲気のカフェ。

アンティーク調の家具が並び、微かにジャズが流れるこの店は、俺たちのお気に入りの場所だ。

向かい合わせに座り、俺はブレンドコーヒーを、優奈はアイスティーと新作のストロベリータルトを注文した。


「んー! 美味しい!」


タルトを一口食べた優奈が、幸せそうに頬を緩める。


「よかったな。優奈は本当に甘いものが好きだね」

「だって、疲れた脳には糖分が一番だもん。蓮も一口食べる?」

「いや、俺はいいよ。コーヒーで十分」

「そっか。じゃあ遠慮なく私が全部いただきます」


ふふっと笑い合う、いつものやり取り。

しかし、ふと優奈の視線が、テーブルの端に置かれた彼女のスマートフォンへと向いた。

画面は伏せられているが、僅かにブブッとバイブレーションが鳴った気がした。

優奈の表情が、一瞬だけピクリと動いた。


「誰かから連絡?」

「えっ?」


俺が何気なく尋ねると、優奈は少しだけ肩をビクッとさせてこちらを見た。


「あ、うん。凛から。後で返信するから気にしないで」


中野凛。優奈の高校時代からの友人で、俺たちと同じ大学に通う気の置けない友人だ。凛からの連絡なら珍しいことではない。


「そうか。急ぎじゃないならいいけど」

「うん、全然急ぎじゃないよ」


優奈はそう言って再びタルトにフォークを伸ばしたが、なんとなくその動きが先程よりもぎこちないように見えた。

気のせいだろうか。

彼女の目はタルトを見ているようで、その実、テーブルに置かれた伏せられたスマートフォンを意識しているように思える。


「……優奈?」

「ん? なあに?」


顔を上げた彼女の笑顔は、いつも通り完璧に可愛らしく、一点の曇りもなかった。


「いや、なんでもない。口元にクリームついてるよ」

「あ、ほんと? 恥ずかしい」


優奈がナプキンで口元を拭うのを見ながら、俺は胸の奥に芽生えた微かな違和感を、無理やりコーヒーと一緒に飲み込んだ。

俺が神経質になりすぎているだけだ。優奈に限って、何か隠し事をするはずがない。

自分にそう言い聞かせ、俺は再び彼女に微笑みかけた。



——息苦しい。

いつからだろうか。そう感じるようになったのは。

蓮は優しい。真面目で、誠実で、私のことを何よりも大切にしてくれる。


「優奈と蓮は本当に理想のカップルだね」

「絶対に別れないよね、あの二人」


周囲から浴びせられるそんな言葉の数々は、最初は誇らしく、心地よかった。

けれど、月日が経つにつれて、その言葉は私を縛る見えない鎖へと変わっていった。

完璧な彼女でいなければならない。理想のカップルという期待に応え続けなければならない。

波風の立たない平穏な日常は、安全で暖かかったが、同時に退屈で、まるで酸素の薄い無菌室に閉じ込められているような錯覚を覚えることがあった。


木村健太と言葉を交わしたのは、ほんの三日前のことだ。

共通の一般教養の講義。いつもは蓮や凛と一緒に座るのだが、その日はたまたま二人とも欠席で、私は一人で講義室の後方に座っていた。


「隣、いいかな」


不意に声をかけられ、見上げるとそこには見知らぬ男子学生が立っていた。

色素の薄い茶髪に、少し気怠げな目つき。どこか人を惹きつける、危険な香りのする端整な顔立ち。


「あ、はい。空いてます」


彼が隣に座ると、微かにミントと煙草の混じった香りがした。

講義中、彼はノートを取ることもなく、退屈そうに窓の外を眺めていた。私も特に話しかけることはなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

講義終了のチャイムが鳴り、私が帰り支度を始めていると、ふいに彼が口を開いた。


「君、いつも彼氏と一緒だよね。高橋だっけ」

「え? あ、うん。そうだけど」


驚いて彼を見ると、彼は頬杖をついたまま、面白そうに私の顔を覗き込んできた。


「俺、木村健太。同じ学部」

「私は斎藤優奈。……それが、何か?」


少し警戒して身構える私を見て、健太は薄く笑った。


「別に。ただ、君を見てると息苦しそうだなって思って」


心臓が、ドクンと大きく跳ねた。


「……何、それ。どういう意味?」

「周りの『理想』を演じるのに疲れてない? 本当は、もっと別の刺激が欲しいんじゃないの?」


彼の言葉は、私の心の奥底に隠していた見えない澱を、的確に掬い上げていた。


「そんなこと……」


否定しようとしたが、声が震えた。

健太はゆっくりと立ち上がり、私の耳元に顔を近づけた。


「退屈なら、俺が遊んであげるよ。誰も知らない、君だけの秘密」


そう囁かれた瞬間、背筋にゾクゾクとするような感覚が走った。それは恐怖ではなく、紛れもなく高揚感だった。

気がつけば、私は彼とMINEの連絡先を交換していた。

まるで、日常という檻から抜け出すための鍵を渡されたような気分だった。



目の前でコーヒーを飲む蓮は、相変わらず穏やかで優しい表情をしている。

彼の目には、私への疑いなど微塵もない。私が彼を裏切るはずがないと、心の底から信じ切っている。

それがたまらなく愛おしいと思う反面、なぜだか無性に壊してしまいたくなる衝動に駆られることがあった。


ブブッ。


テーブルに伏せて置いたスマートフォンが、再び短く震えた。

蓮は窓の外の景色を見ていて気づいていない。

私は蓮の視線を盗みながら、そっとスマートフォンを手に取り、画面を確認した。


『今、彼氏と一緒? 退屈してない?』


健太からのMINEだった。

画面の文字を見ただけで、心臓の鼓動が早くなる。


『今、カフェにいる。退屈じゃないけど……少し息苦しいかも』


テーブルの下で、蓮に見えないように素早くフリック入力して送信する。

すぐに既読がつき、返信が返ってきた。


『今夜、抜け出せる? 迎えに行くよ』


その誘いの言葉に、私は唇を噛み締めた。

蓮との平穏な日常のすぐ隣で、こんなにも危険で甘い毒を味わっている。

「蓮を裏切ってはいけない」という罪悪感と、「見つかるかもしれない」というスリルが混ざり合い、強烈な背徳感となって私の体を支配していく。


「優奈? どうかした?」


不意に蓮に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を震わせた。


「う、ううん! なんでもないよ。凛から、明日ランチ行こうって誘いだったから、いいよって返してただけ」


息を吐くように、滑らかな嘘が出た。

自分でも驚くほど自然な声色だった。


「そっか。明日も楽しんでおいで」


蓮は一切疑うことなく、優しい笑顔を向けてくれる。

その優しさにチクリと胸が痛むが、それ以上に、健太との秘密を共有しているという事実が、私を暗い歓喜で満たしていた。


『うん。夜なら大丈夫』


私は画面を見ずに素早くそう打ち込み、スマートフォンをバッグの中にしまった。

もう、後戻りできないところまで足を踏み入れている。そんな自覚が、私をさらに深い熱へと引きずり込んでいった。



カフェを出る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。

駅までの帰り道、優奈と手を繋いで歩く。

彼女の手はいつも通り温かく、柔らかい。

けれど、何故だろうか。今日の優奈は、どこか遠くにいるような気がしてならなかった。


「蓮、今日はご馳走様。タルト、すごく美味しかった」


駅の改札前で、優奈が振り返って微笑む。


「気にしないで。また今度、新しいお店も開拓しよう」

「うん、楽しみにしてるね。じゃあ、また明日大学で」


優奈は小さく手を振り、改札を抜けていった。

彼女の後ろ姿を見送る。いつもなら、見えなくなるまで見送った後は、温かい幸福感に包まれるはずだった。

しかし今日、俺の胸の中に残っていたのは、得体の知れない不安だった。


カフェで見せた、あのわずかな表情の変化。

伏せられたスマートフォン。

そして、別れ際の彼女の微笑み。


その微笑みは完璧だった。完璧すぎたのだ。

まるで、あらかじめ用意された仮面を被っているかのような、そんな違和感。


「……考えすぎだろ、俺」


声に出して呟き、頭を振る。

優奈は俺の全てだ。彼女がいなくなったら、俺の人生の軸は根底から崩れ去ってしまう。

だから、疑うことなんてできない。疑ってはいけない。

自分のプライドが、そして優奈への強すぎる執着が、真実と向き合うことを全力で拒絶していた。


俺は帰路につきながら、スマートフォンを取り出した。

待ち受け画面は、優奈の誕生日に二人で撮った笑顔の写真だ。

この笑顔は俺だけのものだ。他の誰にも渡さないし、誰にも踏み込ませない。

そう強く念じながら、俺は茜色から群青色へと変わりゆく空を見上げた。


しかし、胸の奥に落ちた小さな不信の染みは、拭い去ろうとすればするほど、じわじわと静かに広がっていくのを止めることはできなかった。

俺たちの完璧な日常という名の硝子細工は、すでに目に見えないほどの小さなヒビが入り始めていたことに、俺は気づかないふりをし続けていたのだ。

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