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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百話 朝家の使い

天文十八年(一五四九年)二月。


阿蘇の山は、冬をまだ手放してはいなかった。


空は澄んでいる。

だが、澄んでいるということは、そのぶん冷えが深いということでもある。朝の水は刃のように冷たく、風は肌を撫でるのでなく、薄く切ってゆくようであった。


その寒さの中を、京よりの使いが阿蘇へ入ってきた。


朝廷の特使、烏丸光康。


遠国への道に慣れておらぬわけではない。されど、京の寒さと阿蘇の寒さはまた違う。京の冷えは衣の合わせでどうにかなるが、山国の冷えは地そのものから這い上がってくる。供の者どもも、皆どこか顔をこわばらせていた。


しかも、此度の下向は気楽な使いではない。


朝家は銭を要していた。

御所修理の費え。

以前、肥後守護・筑後守護のことでも、阿蘇へは心付けを求めている。家格を上げるということは、ただ名を賜るだけでは済まぬ。朝家にとってもまた、地方の有力家へ威を及ぼし続けるための銭が要る。


ゆえに此度の下向も、半ばはそのためであった。


約した一万疋。

加えて、御所修理料としてさらに一万疋。


言葉を柔らかく整えようと、意味するところは明らかである。

阿蘇が払うか否か。

払うならどれほど気前よく出すか。

そこを見に来たのであった。


だが、阿蘇の館へ通された光康は、まずそこで足を止めた。


暖かい。


それは火鉢の熱とは違っていた。

客を迎えるために整えられた一室の隅に据えられた炉のようなものから、じわりと、しかし途切れぬ暖かさが広がっている。火の勢いを見せつける熱ではない。部屋そのものへ染みているような熱であった。


供の者の一人が、思わず小さく息を吐いた。

その白さが、部屋へ入った途端に薄れてゆく。


「……これは」


光康が低く呟くと、案内の者は深く頭を下げた。


「若君の工夫にてございます」


若君。


その言い方に、光康は内心で少し眉を動かした。

阿蘇には、近ごろ妙なものを次々に形にする若君がいるとは、すでに京でも耳へ入っている。船を作り、人を集め、南蛮の品を入れ、甘味まで扱うという。誇張もあるであろうと思っていたが、どうやら誇張だけではないらしい。


「よく効いておるな」


「は」


「火の匂いが薄い」


「換気を常に致しておりますれば」


ただ暖かいだけではない。

暖かさに理がある。

そのことが、いかにも気味が悪かった。


光康はそのまま館へ迎え入れられ、その日は一泊することとなった。


     *


夜になって、さらに驚いた。


廊下が明るい。

門のあたりも、番所も、人の出入りの多い表の廊下も、油皿の灯よりはるかに強く照らされている。昼のよう、とまでは言わぬ。だが、夜の館としては明らかに明るすぎた。


供の若い公家が、思わず足を止める。


「これは……」


油の灯ならば、光は点である。

ここにある灯は、点でありながら、その先にまで明るさを押し広げていた。壁も床も、人の顔も、はっきり見える。夜の館にありがちな薄闇が、ここには少ない。


案内の者は、また同じことを言った。


「これも若君の工夫にございます」


それから、少しだけ言い添えた。


「ただし、館じゅうにございませぬ。火灯奉行の差図にて、門、番所、人の通る廊下より先に改めております」


光康は黙って、その灯を見た。


阿蘇という家は、いつの間にここまで大きくなったのか。

ただ兵が多い、ただ地を広げた、というだけではない。こうして夜の灯ひとつ、冬の暖ひとつにまで、家の力が及んでいる。京にて聞く阿蘇の噂には、いささか尾ひれがついておるものと思っていたが、今夜に限っては、尾ひれすら足りぬのではないかと思えた。


そのうえ、夜の膳には甘いものまで出た。


焼き菓子である。

卵と砂糖を多く使った、柔らかい南蛮風の菓子。朝家の使いであるからには、無論、ただの粗末な饗応では済まぬとは思っていた。だが、冬の夜の暖かい部屋で、こうした甘味まで自然に出されると、もはや“遠国の大宮司家”という先入観そのものが崩れ始める。


「御所に参る道中でも、ここまで温い部屋は珍しうございますな」


と、光康が半ば本音で言うと、もてなしに付いていた甲斐宗運は、いつもの平らな顔で答えた。


「恐れ入ります」


それだけである。


だが、気負いがない。

これが特別な奇跡ではなく、迎えの座敷と表向きでは、もはや阿蘇の定めとなっておると言わんばかりの受け方であった。


     *


翌朝、光康は惟豊と惟種に面会した。


広間ではない。

暖のよく回る一室である。

灯もよく届き、朝でありながら部屋の隅まで陰が薄い。


そこに阿蘇惟豊があり、その傍らに若君惟種がある。


惟豊は、相変わらず重い。

言葉を多く尽くす気はない。

だが、その少ない言葉の背後にある家の太さは、今や誰の目にも見えた。


惟種はなお若い。

若いが、若いというだけでは済まぬ目をしている。光康は昨夜の暖と灯を思い出しながら、これがその工夫の主かと、あらためてその顔を見た。


礼が尽くされ、座が静まったのち、光康が口を開いた。


「朝家より、言上にて参りました」


「承っております」


惟豊が低く言う。


その一言で、まず余計な駆け引きは減った。阿蘇がこの下向の意味を分かっていないふりをする気がないことが知れたからである。


「以前、肥後・筑後のことにてお約し下された一万疋」


光康は、あくまで柔らかな声で言う。


「加えて、御所修理のことにて、いまひとつのご心入れを賜れれば、朝家としても大いに面目にございます」


言い回しは丁寧である。

だが、意味は明白であった。


惟豊は、しばし黙って光康を見た。


「合わせて二万疋、であるな」


光康は、そこで初めて口元をわずかに動かした。


「左様にございます」


回りくどい言い換えは、もう要らなくなった。


惟種は、そのやり取りを黙って聞いていた。

朝家の使いは、威をまとって来る。

だが、その威も結局は銭を要する。

いまの阿蘇にとって、二万疋は小さくはない。だが、払えぬほどでもない。むしろ、この銭で朝家との筋をさらに太くし、家格と名分を買うなら安いくらいであった。


惟豊は、宗運もおらぬこの座で、少しも間を置かなかった。


「よい」


重い一言であった。


「二万疋、進上しよう」


光康の目が、そこでわずかに細くなる。


あまりに早かったからである。


ふつうは、少しは渋る。

あるいは、米や地の苦しさを言う。

遠国であればなおのこと、朝家の使いがわざわざここまで来たことの重みを見せてから、ようやく折れるものだ。


だが、阿蘇は違った。


「恐れながら」


光康が、念を押すように言う。


「約の一万疋、御所修理のための一万疋、合わせて二万疋にございますぞ」


「分かっておる」


惟豊が答えた。


「朝家が要るというなら、阿蘇は出す」


その声音には、恩を売る色も、怯える色もなかった。

ただ、出せる家が出すというだけの落ち着きである。


それが、光康にはかえって重かった。


京の家々は、しばしば家格を誇る。

だが、この阿蘇のように、遠国にありながら気負いもなく二万疋を出せる家は、そう多くない。


「ありがたく」


光康は、深く頭を下げた。


惟豊は、そのまま続けた。


「これで、朝家の覚えもまた一つ深まろう」


「無論にございます」


光康は答える。


「この御心入れ、都へ戻ればしかと申し上げます」


惟種が、そこで初めて静かに口を開いた。


「朝家は、銭ばかりでなく、形も見られます」


光康がその方を見る。


「形、と申されますと」


「阿蘇は、ただ地を持つだけの家ではないと、都にも知っていただきたい」


若い。

だが、言葉は軽くない。


「これより先も、朝家への誠は欠きませぬ」


光康は、内心で少しだけ息を呑んだ。


惟豊が金を出す。

惟種が先を語る。

この親子は、ただその場をしのぐために朝家へ銭を出しているのではない。京との筋を、自分たちの家格そのものに繋げようとしている。


「よろしゅうございます」


光康は答えた。


「朝家とて、阿蘇の御心はよう知ることとなりましょう」


     *


銭は、その日のうちに整えられた。


阿蘇の蔵から、二万疋。

無理にかき集めた色はない。

苦しげな顔もない。

ただ当然のように、しかし粗略ではなく、しかるべき形で差し出される。


その様を見て、光康の胸には、昨夜の暖と灯りと甘味がもう一度よみがえった。


この家は、金を持っている。

しかも、その金をただ抱えているだけではない。暖を作り、灯を作り、もてなしを整え、朝家へも気持ちよく出せる。こうした家を、都は遠国だからといって軽んじ続けるわけにはいくまい。


夕刻、光康はふたたび館の廊下を歩いた。


夜が落ちても、灯はよく届いている。

昨夜ほどの驚きはない。

だが、一度知った後で見ると、なおいっそう恐ろしい。これは一夜の奇術ではない。阿蘇が、この先ずっと持ち続けるであろう力の一端にすぎぬのだと分かるからである。


「不思議な館にございますな」


と、光康が漏らすと、案内の者はまた深く頭を下げた。


「恐れ入ります」


それだけである。


翌朝、光康は阿蘇を発った。


行きよりも足取りは軽い。

寒さが和らいだからではない。

暖かい部屋、夜の明るさ、甘味、そして二万疋。阿蘇が示したものは十分すぎた。


帰りの道すがら、供の者がそっと言った。


「いかがでございましたか」


光康は、すぐには答えなかった。


しばし黙って山道を見、それから低く言う。


「阿蘇は、もはやただの辺土の大宮司家ではない」


供は口をつぐんだ。


「都へ帰れば、そのまま申し上げよう」


光康は続けた。


「金を出す家、というだけではない。あれは、家格を買うだけの金を持ち、さらにその金で家の内まで整えておる」


暖かい部屋。

夜の灯。

若君の工夫。

当主の落ち着き。

そして二万疋。


京は、遠い。

だが遠いからといって、九州のこの家をいつまでも遠いままにはしておけまい。


     *


光康を見送ったのち、惟豊と惟種は、しばしその背を見ていた。


「得心して帰ったな」


惟豊が低く言う。


「はい」


惟種は答えた。


「よく驚き、よく納得して帰りました」


惟豊の口元が、わずかに動く。


「銭は痛いが」


「高い買い物ではありませぬ」


惟種は言った。


「今年の二万疋で、朝家との筋がまた太くなるなら、むしろ安い」


惟豊は、その言葉に頷いた。


「従二位も、遠くはあるまい」


「若君の方も」


「従四位、でございますか」


惟種は、平らに答えた。


「朝家がこちらの家格を上げるなら、いずれそうなりましょう」


惟豊は、しばし黙ったのち、ただ一言だけ言った。


「ならばよい」


それで足りた。


朝家へ銭を出す。

それはただ金を失うことではない。名分を買うことであり、家格を重ねることであり、阿蘇という家を九州の一勢力ではなく、都から見ても無視できぬ家へ変えてゆくことである。


二月の風はなお冷たかった。

だが、阿蘇の館の中には、暖があり、灯があった。


そしていま、その暖と灯のある家は、京の朝家に対してさえ、ただ平伏するだけでなく、己の豊かさと力を見せるところまで来ていた。


春はまだ遠い。

だが、阿蘇の家は、その春を待つだけの家ではなかった。

寒さの中でも銭を動かし、灯を灯し、都との筋を太くしながら、さらに次の一段を登ろうとしていた。

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